可愛いあの娘は失語症 | ナノ

小狡いわたしの作り病


「あっ、こんばんは。苗字です」
『名前ちゃん、都合悪いんなら掛け直すけど……』
「今ちょうど一人なので大丈夫です」

 着信音が鳴る度にあの家に引き戻されるのかと頭が痛くなって、別の誰かの名前の表示を見る都度に苗字家に自分は必要ないのだと胸が痛くなる。
 とは言え電話の向こう側、佐一さんにわたしの事情は関係ない。いったん深呼吸をしてコンロと換気扇を止めた(今日の鶏肉、うまいこと蒸し焼きになればいいのだが)。

『この前はありがとう。梅……お客さん喜んでくれたよ』
「あっ、それならよかったです」
『やっぱ女の子のことは女の子に聞かなきゃだめだね。助かったよ』

 先日のエプロンは非常に喜ばれたらしく、その時の反応とか、感想とかを仔細に佐一さんは語ってくれている。どんな気持ちで聞いたらいいんだろう。素直に羨ましいと言えたら昨日みたいな思いをしなくて済んだのかもしれない。
 自分が思っていることをそのまんま相手に伝えるのはあまり褒められた行為では無いのだ。昔、クラスの男子が友達に意地悪していたのを怒ったことがある。好きなら好きって言わないとダメだよとか、そんな感じのことを言ったら友達の方からも怒られてしまった。人間関係、とりわけ男女はナイーブで他人はおろか本人も軽々しく口にしてはいけないのである。

『それで、この前話してたお礼なんだけどさ。今度の土曜日って時間あるかな』
「今のところは特に予定ありませんし、大丈夫です」
『よかった。そしたら詳しいことは後で送るから。……あと』
「あと?」

 大きなため息のような息遣いが受話器越しに耳に伝わる。

『……今度は』
「名前、風呂上がったぞ」
「うわっ!」

 史上最悪のタイミングで尾形さんがリビングのドアーを開けた。彼はわたしなんかに協力してくれる心優しいボランティアなのだ。だからそのまま話しても差し支え無いはずなのに、髪を下ろしたその姿を見ると何か途方もなく後ろめたいことをしているような気持ちになって「そしたらまた土曜日に」と電話を無理やり切ってしまった。
 わたしは一体何に操を立てているんだろう。当然鶏肉は生焼け状態にあり慌てて火にかけた。スープだけは出来ているから先に器に盛って、そのタイミングで炊飯器のスイッチを押していなかったことに気が付いた。

「すみません、あの、委員会の友達から電話がかかってきてて、まだご飯できてなくて……」
「忙しいのに悪いな。休みなんだしたまには学校の奴と遊びに行けよ」
「えっと、あ、それなんですけど!」

 わたしは何をしているんだろう。尾形さんの気遣いを不意にしようとしている。わたしは、その上嘘を吐こうとしている。

「今度の土曜日、委員会の友達と遊びに行ってきます! それで、さっきのはその電話で……」
「そうか。せっかく門限ねえんだしゆっくりしろよ」
「それもそう、ですね……遅くなるかもしれないです」

 わたしは嘘を吐いた。
 そもそもあんなことがあったのに普段通りに接することなんてできるはずが無いのだ。法律違反だ。尾形さんは大人でわたしは子供である。
 夕方ギリギリまで疲れて眠って、起きたときに110番しなかったのはわたしから強請った後ろめたさだけが理由でないことになら気付いている。本当は今日も、委員会の帰りに友達にお泊まり会に誘われていた。けれど尾形さんのいるこの家に帰りたかったのだ。

「何か手伝えることがあるなら言えよ」
「あっ……そしたらえっと、洗濯物取り込んでていただけたら助かります。畳んだり片すのはわたしがするので」

 断った理由も無かったことにしようとしている理由も簡単だ。もし態度を変えてしまえば尾形さんはきっとよそよそしくなって、家に帰るように促すだろう。
 尾形さんに協力をしてもらえなくなるのが嫌だったわけでも家に帰りたく無かったわけでも無いんだ。尾形さんと一回でも離れてしまえばもう二度と会えなくなるような気がしている。わたしは、この人と離れるのが怖いのだ。

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