可愛いあの娘は失語症 | ナノ

艶めくあの娘は天然痘


「こっちで寝るからいい」
「ダメですって、尾形さん明日もお仕事なんですから」
「構わん」
「疲れが取れませんよ。わたしがソファで寝ますから」
「……はあ」

 申し出を頑なに肩代わりしようとする名前に根負けして結局同じベッドに寝ることになった。遮光カーテンの隙間からは街灯りが覗いて睡魔を吹き飛ばす。
 映画の衝撃か、調子を取り戻した名前にとって二十三時はまだ活動時間であるらしく(当初からは考えられないことだと思った)、明日の献立や夏休みの宿題の進捗を、時折言葉に詰まりながら名前は自分に言い聞かせるように語り始めた。
 生返事を繰り返す俺に容赦が無いのはこの共同生活の賜物だ。生来反応の薄い俺に順応するかのように、名前は一方的に話題を投げ掛けては一人納得している。いつか話題を持ち掛けるのは大概自分の役割だと思ったことがあるが、俺を信頼してくれているのか、彼女は自己主張をするようになってきた。そして、俺が笑いを溢したところを名前は聞き漏らさなかった。

「尾形さん、なんか前より心を開いてくれた? みたいな感じします」
「奇遇だな。俺も同じようなことを考えてたんだが」

 もっとも名前が屈託無く笑う様は今日に至るまで見たことが無いのだが。彼女は空笑いをしながら小さく何かを呟いた。「何言ったんだよ」「……佐一さんと」日中の出来事を回想するように彼女は厭世的にぼそぼそと話し始める。

「今日、楽しかったけど難しかったんです」
「難しい?」
「どうやったら嫌われないかなーとか、好かれるとかよりなんて言うか……背伸びするの疲れました」
「あんだけ踵の高ぇ靴履いてたらそうだろ。ずっと爪先立ちしてんのと一緒だしな」
「足痛かったです」

 だからスニーカーが嬉しかったと彼女は言う。名前は天井に向けていた身体を横に倒して、未だ仰向けを貫く俺に近寄った。ふわりと、またシャンプーの匂いが嗅覚を刺激する。前の女が置いていったトリートメントの類は今日水で薄まって流れてしまった。また俺は名前で上書きをしようとしているのだろうか。
 しかし上書きをするには名前と俺の関係は潔白過ぎるのだ。これではまるでガキのお遊びだ、無防備にも隣に横たわる女とろくに触れ合った事すら無いのである。

「……さっきの映画、なんか気まずかったです」
「ああ、悪かった。今度からは先に評判調べといてやる」
「女優さんって大変です。あの男の人、そんなに恰好良くなかったのに」

 白人が全部同じ顔に見えるだとかで役者名を言っても釈然としない面をしている癖によく言うものだ。たとえばあの役者さんだったら納得できたのに、とか名前は有名俳優の名前を並べて年相応に騒いでいる(一部俺には分からないタレントが出てきて年代の差を感じてしまった)。
 もし俺が女であれば金さえ積まれたら誰とでも寝てやるのだが、喉元に差し掛かった言葉を飲み込む。名前に金を払っている。衣食住に娯楽、あの煽情的な額に見た感情に歯止めが利かない。

「……尾形さんって童貞ですか?」
「なわけ」
「ですよねー」
「お前はヤッたことあんのかよ」
「なわけ」
「真似すんな」

 精一杯低い声を繕ったあまり名前はゲホゲホと咽ている。今日に限って俺は酒を飲んでいなかった。もとよりそこまで飲む性質ではなく、なんならアルコールより緑茶の方が美味いとさえ思っている。金を出して借りた映画ならばしっかり見ておきたいし、何より明日は仕事なのだ。
 そのせいで自分の言動に一端の責任が伴う羽目になることを、この期に及んで俺は後悔していた。今まで大概彼女に何かを話すとき俺は酩酊状態にあったのである。「どんな感じなんですか?」投げ掛けられた純粋な質問に気が付けば真剣に執り合っていた。

「女の感覚なんざ知らん」
「男の感覚は?」
「案外普通」
「尾形さんってずっとカノジョいたんですよね。何人ぐらいですか?」

 頭の中で指を折るにもすぐに折り返してしまうも、交際人数を誇る年頃も過ぎてしまっているので「さあな」とはぐらかした。直後に彼女は、クラスメイトに元カレが四人もいるのだと苦言を呈し始める(黙っておいて正解だった)。
 寝室を修学旅行先の布団とでも勘違いしたのか、名前は初めて聞く明日子以外の同級生の名前を矢継ぎ早に出した。友人の何割かは彼氏がいて、そのほとんどがヤッている。この前話した先輩も結局すぐに彼女を作って図書室で決め込んだ。ガキらしい噂話に年相応の無邪気さを感じる中で彼女はようやく確信に迫った。

「佐一さんも尾形さんとか、みんなみたいに遊んでるんでしょうか」
「あ?」
「だって佐一さん恰好良いんです」
「……あー、知らねえがあいつ、処女は御免だって言ってたな」
「えっ」

 二、三点程はぐらかす場所があったことならば知っている。しかし俺は悪い大人であくまで打算的だったのだ。
 杉元の野郎は確かにいつか、処女は苦手だと言っていた。ソレをどう都合悪く名前が解釈するかなど分かり切っており、俺は、知った上で誘導している。
 名前は不安そうに眉をしかめて(俺は暗闇でもある程度目が利く)、震えるような声色で「ほんとうですか」と呟いた。これ以上話したらどうなってしまうんだろうか。暫く無言でいた俺のシャツを掴み、彼女は「寝ちゃいましたか?」などと追い打ちをかけてくる。

「……自分のせいでキズモノにしたくないんだとよ。力加減がヘタなんだろうな」
「佐一さん、いつもあんなに優しいのに」
「男ってのはそういうもんなのよ」

 脳裏に渦巻く性欲を理性ごと蓋に押し込める作業に疲れてしまった。
 杉元の件を相談した相手が白石だったら、彼女は、奴のあの牢獄のような四畳半に居座ったのだろうか。明日子が牛山と名前を会わせていたならばその日のうちに奴の毒牙にかかっていたのだろうか。宇佐美に月島課長、その他大勢の知り合いであれば何日持ったものか。あいつらと違い、俺は随分踏ん張ったと思う。
 なあ、名前。とか口を出てきそうで飲み込んだ。神妙に名前を呼ぶのはやめて欲しいと彼女は訴えた。なけなしの平常心が状況を鎮めている。しかし彼女は思いついたようにポツリと回想していた。

「お友達、明日子ちゃんじゃないんですけど、彼氏と夏祭りの後にしちゃったって。この前の神社の」
「最近のガキはませてんな」
「高校生ですから。隣のクラスの子とか、デキちゃって退学したんですよ」
「へえ、親御さんが泣くだろ」

 田舎に限らずこの地域でも性は充分乱れているらしい。まさか遠回しな名前自身の告白かと身構えたが、当然彼女はセックスどころか男と手を繋いだことすら無いと続けた。
 ならば先日の人混みの中や、現在の共同生活は何だというのか。どこにハードルがあるのか到底理解できないが、彼女は今日に限ってやれ学校の話だとか、やれ姉がお泊りデートをしたとか、一介の女子高校生のように雑談を述べている。時折担任の愚痴を挟み、不意に明日子の武勇伝を突っ込み、案外退屈しない話題であるが目蓋が重くなっていく。

「尾形さん、わたしって魅力ないんですよね」
「は?」

 意識が戻って来たのは唐突な自己嫌悪だった。
 彼女は持ち前の「諦めたような微笑」を以て、睡魔に淀む俺の意識を掬い上げる。初めて会った時から変わらない卑屈な物言いで、いかに自分が女として魅力に乏しいのかを並べるのだ。身長は勿論のこと胸の大きさや性格、睫毛の長さに至るまで、まるで俺の知らない人間を紹介するように名前はひとしきり自己否定して大きな溜息を吐いた。

「あのなあ、名前」
「だって佐一さん、一緒に寝てても何ンにもしないんです」
「……は?」

 仰向けの名前は両腕を天井に掲げ、意味深に指を折った後に俺のいる右側に首を倒した。唐突な台詞に彼女を向いていた俺と、肌がぶつからんばかりの距離で視線が合う。気まずそうに笑った名前の吐息が首筋を伝った。彼女は一言「あっ」と漏らして慌てて腕を毛布にしまい目の縁まで顔を隠した。
 瞬間的な動作に俺ばかりが置いて行かれている。何かを話してしまおうとしていた彼女は黙りこくってわざとらしい呼吸をするばかりであった。拙い挙動がかろうじて歳の差を演じるものの、やはり気に掛かるのは杉元の野郎である。

「お前、いつの間にあいつと寝たんだ」
「……尾形さんが言うと変な感じするんですけど」

 花火の時、尾形さんが帰った後。彼女はぼそぼそと呟くや頭まですっぽりと毛布を被り背を向けた。

「周りに大勢いたらヤることもできねえだろ」
「二人でした」
「……へえ」

 あの日の俺は酔っていて、いやこいつに会ってから酒に逃げなかったことがあっただろうか。俺が散々思い悩んでいた時間が裏切られるような気分になり、不愉快を通り越して呆れてきた。結局##name_2#は俺の手助けなど無くとも行くところまで行って玉砕するのだ。
 次の溜息は俺の物である。つられるように名前も大きく息を吐いて、諦めたように呟いた。

「処女ってめんどくさいんですか」
「ああ」
「……わたし、佐一さんに面倒な思いさせたくないです」
「それ以前の問題だろ」
「それは、まあ……そうですけど」

 名前が毛布の隙間から左手を出して遠慮がちに髪をいじった。助けて欲しい時は左手、どこかに行って欲しい場合は右手と伝えたのはただの思い付きだったのだ。そういった信号を出されたからと言って本当に助ける気も席を立つ気も元々は無かったのである。
 俺はただこの不憫な人間に場当たり的な手を差し伸べて昔の自分を納得させたかっただけだった。だというのにどうしてこんなことになってしまったのだろうか。

「……はあ。仕方ねえな、ヤッてみるか?」
「え、えー! しませんよ!」
「興味あるんだろ」
「えっと、えー……」

 カーテンの隙間からはやはり世間の灯りが覗いている。

「あの、えっと……。こういうのは好きな人同士がするものです!」
「じゃあしねえ。リスクが高過ぎる」
「でも、わたしやっぱり」
「なあ」

 傍目から見る名前は絵に描いたような儚く哀れな美少女であるのに、本質を知れば知る程(それこそ今日に至るまで杉元と二人きりになっていたことを黙って俺の家に転がり込んでくる図太さを隠し持っていたように)ただの女だった。
 「名前」悪い事を言うために彼女の名前を呼んだ。名前は引き攣ったように笑いながら俺の顔を見た。

「名前、俺のこと嫌いか好きか、どっちだ」
「え、え? ……好きか嫌いかで言えば好きですけど……え?」
「そうか。俺もその理屈でいけば好きだ」
「じゃあ好き同士?」

 冗談に持って行こうとする口を右手で覆った。彼女は何か恐ろしいモノを見たように視線を反らし、しかし一度大きなまばたきをして「ふ」と吐息を洩らす。

「他に何か言い訳が欲しいならいくらでも考えてやる」

 初めて名前に触れた気がする。彼女の身体は想像通り小さくか細く心許無かった。

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