可愛いあの娘は失語症 | ナノ

落ち着くわたしは上がり症


「あんまりキレイじゃないんだけど大丈夫?」
「あ、ここ……」

 定食屋さんの内装を見てハッとした。いつか、明日子ちゃんの待ち受けになっていたお店だ。あの写真には当然のように佐一さんと白石さんが三人寿司詰になっていた。

「もしかして名前ちゃんも来たことあった?」
「え、あ……いえ、初めてです」

 そしてその写真を撮ったのはわたしである。明日子ちゃんから借りていたノートの返却を大義名分にして、佐一さんを一目見ようと訪れたのだ。
 あの時はほんの一瞬だったから記憶に無くても当然だ。落ち込みはするけれどそれより、明日子ちゃんは三人なのにわたしは二人でここにいることが嫌な優越感を生んでいる。

「オススメは唐揚げ定食なんだけど、どれにする?」
「そしたらそれで……」

 楽しいはずの気分がどす黒く濁っていく。優越感、今日待ち合わせの場所に着くその寸前まで「もしかしたら他の誰かがいるのではないか」と肝を冷やしていた。プレゼントを渡す先にいる見ず知らずの人には嫉妬していた。
 佐一さんはキレイ過ぎるから、わたしのこんな性根を知ったらきっと嫌われてしまう。テーブルの下で、気付かれないように靴擦れで痛む右足のサンダルを脱ぎ捨てた。無理をしていたとバレてしまったら佐一さんに要らない心配を掛けてしまうに違いない。

「名前ちゃんって料理得意なんだよね」
「え、えっと……やってるだけで、得意なわけじゃなくて」
「将来はやっぱ調理師とか?」
「……あの、まだ考えてないんです」

 先日尾形さんから同じことを言われた時とは違って今日は平静を装うことができた。佐一さんにわたしの家の雑多な事情は関係無いのだ。
 佐一さんが、どんなに完璧なヒーローだったとして解決しないのだから話すだけ無駄である。わたしはどうしたんだろう、考えていることがどんどん暗くなっていくのが情け無くて顔を上げた。佐一さんがわたしだけを見ている。それだけで十分である筈なのだ。

「あの、一個だけ、変なこと聞いてもいいですか?」
「どうしたの?」
「お待たせしました。こちら唐揚げ定食ご飯少なめと、チキン南蛮定食です」

 意を決して聞いてしまおうと思った矢先に店員さんが注文の品を持って来た。タイミングが悪いと言うか、わたしは生まれつきツイていない。
 結構な量の定食に少しだけ身動いだ。残せば品の無い女だと思われるに違いない。けれど七個も乗った唐揚げに山盛りのキャベツを見ているととても一人で始末出来る気がしなかった。

「あ、全部食べ切れなかったら残してていいよ。俺が食べちゃうから」
「え! えっと、でもそんなことしたら冷めちゃいますし……」
「名前ちゃんは気を遣い過ぎだよ。じゃあ先に貰おうか」

 ふと、尾形さんだったらこう言う時にどうするんだろうと考えた。あの人だったらそもそもわたしに定食を注文させない気がする。一品料理を勝手に頼んで取り分けさせる場面を想像して少しだけ緊張の糸が解けていった。





「へー! 会社での尾形さんってそんな感じなんですね!」
「最近はあいつがすぐ帰るから残業しない風潮になってきてんだよね」

 明日子ちゃんのクラスでの様子を佐一さんは興味深そうに聞いていて、尾形さんがいかに仕事(だけ)が出来る人間なのかを紹介される。最初こそ今やっている恋愛ドラマについて語っていたのに、ご飯を食べながらわたし達はひたすら「お互いの知らない場所での知人」の話をしていた。
 結局分かったことと言えば、明日子ちゃんも尾形さんも割といつも通りにしていることぐらいだ。意外な二面性とかあるんならばもっと面白いのだろうけど、他人の目から見た話だけでも充分だ。

「そういえばごめん、名前ちゃん。さっきの話って何だったの?」
「え、っと……別に大したことじゃなくて」
「言いかけは気になるよ」

 都合良い店員さんの横入りはもう望めない。わたしはひたすら佐一さんの事しか考えていないどうしようもない人間である。
 今更包み隠そうとしても良い言い訳が思い浮かぶはずも無く、赤茶けた瞳に映った自分があまりに滑稽だったので息を飲んだ。佐一さんはどうしようもなく純粋な顔をしていてわたしは案の定世間知らずな女子でいる。だったら妙な質問にも整合性が保たれると息を飲んだ。

「……佐一さんって明日子ちゃんとどんな関係なんですか?」
「明日子さんと?」

 水が気管に入ったようで、佐一さんがゲホゲホと咳き込んだ。
 初めて明日子ちゃんに佐一さんを紹介してもらったのは一年生二学期のテスト後だ。たまたま席が隣になったから話し始めるようになって、一緒に勉強をして「打ち上げに行くぞ」と誘われたのである。その席にいたのが杉元佐一さんと白石さんだった。
 大人と子供なのに、杉元と明日子さんなんて呼び合う二人がずっと気になっていた。二人とも師匠だ相棒だと抽象的な紹介しかせず、白石さんもソレを当然のように受け入れているからついぞ聞く機会を失っていたのだ。
 佐一さんは紙ナプキンで口の端を拭いながら、一呼吸を置いて「山でね」といつか聞いた伝説を話し始める。

「熊に襲われてたところを助けられたんだ」
「それ実話だったんですね……」
「よく言われるんだよねー。それに明日子さんのお父さんって狩猟免許持ってるでしょ? 筋が良いからって猟友会に誘われて、そっから厄介になってる感じかな」

 明日子ちゃんも山で狩猟をすることは有名である。去年の夏の自由研究に提出された「熊の捌き方」は学校中に激震を呼んだものだ。
 聞いてみるとわたしが元々持っていた情報以上のものは出てこなくて、気が付くと「そうじゃなくて」と不躾な接頭語が出てきてしまう。佐一さんは本日何度目かの苦い顔をして見せた。

「最近誰かにも言われたんだけど、本当にただの友達……いや、例えるなら親戚みたいな感覚かな」
「え、あ、あのそしたら」
「お水お持ちしました」

 またも絶妙なタイミングで店員さんがわたしの質問を遮った。まるで見計らっているようだと思う。それから、親戚と聞いて自分と尾形さんの姿が思い浮かんだ。
 尾形さんとわたしも傍目には男女の関係に見えないことも無い気がする。今は一緒に住んでいるようなものだし、同じベッドで寝るし、家事のほとんどはわたしがしていてお金のすべてはあの人が出してくれているし、けれど歳の差があって尾形さん自身がわたしを女として見ていないから成り立つ不思議な関係だ。
 緊張で喉がカラカラになっていたので頂いた水を一気に飲み干した。心配して損したのかもしれない。

「門限もあるだろうしそろそろ出ようか」
「あっ、今は大丈夫なんです……一応、あの、高校生だからもういいでしょって」
「そうだったんだ!」

 足の痛みにサンダルを脱いでいることを気取られないように話を引き伸ばしながら、コッソリ履き直した。どちらにしても時刻はまだ十五時を回ったばかりで帰宅時間には程遠い。けれどすんなりと「そろそろ帰りましょう」と口にできた。
 これ以上佐一さんといたとして、つまらない人間だとか、思われるのが怖かった。何より今スマートフォンを見ると、尾形さんからの「ビデオ屋」という単語だけがショートメールに走っていたのだ。

「家まで送るよ」
「あ、え、いえ、大丈夫です……この後ちょっとビデオ? 見に行くので。それよりご馳走さまでした」
「……名前ちゃん、もしかしてだけどさ」
「え、はい?」

 やっぱり何でも無い。佐一さんは帽子を被り直して汗を拭う。
 言いかけは気になると先に口にしたのは佐一さんだ。けれど反論が出来る程わたしは佐一さんと仲が良くないから、引っ掛かった言葉を飲み込んだ。

「今日はありがとうね。梅ちゃんも喜んでくれるかな」
「梅ちゃん? 佐一さんの取引先って和菓子屋さんとかですか?」
「え……? あ、ああ。そんなとこ。じゃあまたね」

 佐一さんが本日の締めのようにまた苦笑して見せた。わたしはいつも、こんなにも、誰にでも満面の笑みを見せているのにどうしても誰も応えてくれない。
 人通りの多い昼下がりの繁華街では五歩も離れたら最早他人である。けれど佐一さんは振り返って、他人を気にせず大きく手を振った。

「今度はさ、頼み事とか抜きにして名前ちゃんと話したいな」
「え、え……え? わたしとですか?」
「迷惑じゃないならまた誘うから。気を付けてね」

 太陽のような佐一さんの姿がゆっくり人盛りに溶けていく。眩しいのは陽射しのせいで、わたしはいつも北に位置している気がして何故だか明日子ちゃんの影を思い出した。ぼんやりと立ち尽くすわたしを着信音が現実に引き戻す。電話口の向こうでは尾形さんが大きく溜息を吐いていた。

「もう終わったのか」
「あの、ビデオ屋って最近は言わないんですよ」

 尾形さんが呆れたように息を吐く。何だか安心できて心が軽くなった。

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