狡知なあの娘は欠損症
「オイ」
名前は洗いかけのマグカップから手を放さずに「どうしましたか」と気の無い返答を洩らした。彼女が俺の家で業務をこなす様もいよいよ日常に溶け込んできている。
しかしここまで流れ作業的であると苛立つものもあり続く言葉が出て来ない。いつからか名前は「俺が黙るときは何か不機嫌の前兆だ」と認識しているようで、慌てて水道を止めてソファの前に屈み込んだ。
「尾形さん怒ってます?」
「怒ってねえ」
「でもわたしも忙しいんです。尾形さんって洗い物水につけてくれませんから」
「悪かったな」
「あー、もう、尾形さん! 何のお話ですか?」
面と向かって聞かれると聞かれる程に持ち掛けにくくなってしまうのだ。俺の心情など隣の藪に置いた彼女はしつこくも「何が食べたかったんですか」「どうしたんですか」「あのー」とか思い付いたことを口に出している。
こうなるならばさっさと話しておけば良かった。いかんともし難く煙草を持ってベランダに出る( 室外機上の灰皿に至るまでこの家は清掃が行き届いている )。
「……臭いが移るだろ」
「この後お風呂だから大丈夫です。何だったんですか?」
「一本いるか?」
大袈裟に名前は目を顰めた。普段はここまで執念深く追って来ないくせに、オンナの勘とでも言うべきか、食い下がって来る様に根が上がる。誤魔化すにも先延ばしにするにも限界だ。
「別に深い意味は無えんだ」
「はあ」
「だからあんまり気にすんなよ」
「え、何ですか」
「お前、今家出中だろ?」
「あー……あの、出てった方がいいですか?」
「その逆だ」
紫煙と一緒に呟いた言葉に名前は目を丸くした。
このやり取りならば何回も何十回もしているのにいつまで経っても彼女は卑屈そうに笑う。いい加減慣れて欲しい物ではあるが今更難しいのだろう。
灰がぼろりと階下に落ちてしまった。今日も天気が良く風が無いので、下の住人が洗濯物でも干していたら文句を言われるに違いない。
「え、っと……そしたら、あ、学校のことですか? それだったら今度お姉ちゃんの大会の日に制服とか取りに帰ろうって思ってて」
「協力するって言ったよな」
「え? あ、はい」
「もし、その……杉元とどうにかなった後はどこで寝泊まりするつもりなんだよ」
間違いなく名前は杉元にフラれる。確信を持てるのは彼女のせいではなくアイツが未だに引きずっている地元の女の存在あってのものだ。負け戦に決着が付いたとして、その後の名前は俺と関わるメリットを失ってしまう。
養っていると言えば聞こえが良いが、家政婦のように扱う現状に彼女はいよいよ辟易するだろう。親元に戻るか明日子や友人の家を転々とするか、はたまたいつぞやの預金を使ってネカフェ難民にでもなりかねない。
名前の処遇を気にするよりも、俺はこのまま甘い蜜を啜っていたいのだ。名前との繋がりが切られてしまうのが恐ろしくて、小出しの協力姿勢を見せ付けて踏み込んだことは何も出来ずにいる。
「あー……、考えたこともなかったです」
「少しは先のことも見据えとけ」
「アハハ、よく危機感無いって言われます」
親から帰って来いと言われたら、その前に警察に捜索願でも出されたら、万が一杉元が名前を受け入れたら、ただでさえ脆く危ない橋を渡ったこの共同生活に焦りを感じているのは俺だけだったようだ。名前は左手で髪をいじりながら上目遣いで笑った。汗に張り付いた髪がいやに煽情的である。
「もしその、付き合えてもそうじゃなくても、佐一さんのおうちに泊まるってハードル高いし……尾形さんが嫌じゃなかったらおうち貸していただきたいんですけど、やっぱり迷惑ですよね?」
「……お前、次卑屈になったら本気で追い出すからな。さっさと風呂入って寝やがれ」
彼女といれば総てが杞憂に終わる。どう転んでも名前が近くにいるならば、それで良いと気が抜けてしまった。
タバコは指先を滑り落ちてどこか遠くに落ちて行く。湿度は高いので火事にはならないだろう。名前は怖い顔をして、今度からは気を付けるようにと俺を叱った。