可愛いあの娘は失語症 | ナノ

不憫なあの娘は健忘症


 それから五日、変わったことといえば朝に余裕が出来たことと携帯を確認する回数が増えたことぐらいだった。通勤に学生はいないし着信は未だに無い。アイツからは当然のように何の音沙汰も無かった。
 そもそも余計な世話だったのだ。
 アイツの携帯には結構な件数のアドレスが登録されていたように思う。あの日の俺はどうかしていた。俺が思っている以上にアイツは明るくて、年相応に遊ぶこともあって、幸福でいたんだろう。

 勝手に不幸な自分の幼少期と重ね合わせていた自分があまりに浅ましくて嫌になる。ただ同時に、こんな気になるぐらいならアイツの携帯から俺に着信でも入れておくべきだったとも考えてしまっていた(アホか、俺は)。

「最近しょっちゅうケータイいじってるけど、ひょっとしてまた女でも出来たか?」
「取引先だ」
「尾形って個人携帯頑なに教えないのに?」

 それはお前だからだ。煽るように杉元がデスクにやってきた。もう上がりなのか、背広を羽織って怠そうに鞄を肩に掛けている。コイツさえいなければ、とか考えてみたがそもそも杉元がいなければ苗字名前なんて名前を知ることもなかった。苗字名前、思い返すと俺はあいつから傍迷惑な依頼を受けていたのだった。よりにもよって目の前のこの顔面傷だらけ男との仲を取り持って欲しいとか言う。
 自分から言い出した余計な世話なのだ、相手がどうなろうが最低限真っ当してやるのがガキに対する大人の務めだろう。「杉元、飲み行くぞ」言うと即座に「おごり?」と表情が明るくなる。

「調子に乗んな。駅前の居酒屋でいいだろ」
「だったらバス停向かいのあの店がいいなー」
「仕方ねえな。すぐ終わらせる」
「了解しました! 尾形主任殿!」
「先に行ってろ万年平社員」

 会社の近くには駅があるが、金欠の杉元はもう少し歩いたバス停前のアパートに住んでいた。自宅の近所を指定してくるあたり横着であるが、承諾してしまう自分に嫌気が差した。約束どうこうを差し置いて、今日の自分はどうしたことか一人で過ごせる自信がない。
 金曜の夜は遣る瀬無く、放っておくと朝まで悶々と来るはずもない着信を待ってしまいそうで背筋が凍った。あの可哀想な女子高生は今頃寝る準備でもさせられているんだろうか。



 時刻は21時30分、杉元はすでに二杯目のビールをかっ喰らいながら片手を振って俺を出迎えた。ガキなんて得てして歳上の異性に憧れるものではあるが、ヘラヘラ笑いながら皿に残るもろみを箸で掠めるこの男のどこが良いというのだろうか。

「で、今日はどうしたんだよ」
「暇なだけだ。お前一人誘うのに立派な理由が必要か?」
「珍しいじゃん。やっぱ女?」
「そう言うお前はどうなんだよ」

 杉元は一瞬だけ、酔いが醒めたような顔をしたがやはりただの杉元だった。「俺は何も、お前と同じ」、俺と同じならばコイツもやはりネジが飛んでいる。
 三杯目、四杯目と杉元は大柄な身体に酒を流し込んでいった。シャワーを浴びたまま寝た所為で今月の水道代がバカ高い話、上司に寿司を奢ってもらった話、白石がまた競馬で有り金をスッた話。俺は一体何をしているんだ。

 そもそも遣る事が無いならば無いなりに、記憶が飛ぶぐらいバーで飲んで訳がわからないまま行きずりの女をたらし込んで、二日酔いの状態で休日をやり過ごしながら月曜日を迎えたらよかったのだ。土日の予定は、なんて聞くから特に無いと答えると杉元はニヤニヤ笑い出した。

「尾形って休日何してんの」
「……掃除とか」
「淋しい男だなー、まったく!」
「そう言うお前はどうなんだよ」

 杉元は手元の焼酎を飲み干して、妙に勿体ぶりながら次の水割りを作っている(焼酎のボトルには明日子と白石の名前が修正液で雑に書かれていた)。

「俺は明日、駅前のクレープ屋さんに行くんだー」
「クレープ屋? んな店いい歳した男が行く場所じゃねえだろ」
「俺一人じゃありませんー。ホント、明日子さんには助かりっぱなしだぜ」
「……また明日子か。今日でもよかったんじゃねえの」
「今日はほら、まだアレだし」

 テスト期間、杉元の口からは懐かしい響きが飛び出した。あの学校は水曜から明日まで4日間期末テストの時期らしい。最終日は半ドンで、昼から明日子を迎えに行ってそのまま遊びに行くんだと。

「明日子も一応勉強するんだな」
「現文と古典が苦手らしいよ。あと数学と日本史と物理」
「ほとんど全部じゃねえか」
「地理と生物は得意なんだってさ。最近は名前ちゃんとばっかり勉強してたから久々だよ」
「名前?」
「明日子さんのクラスメイトで礼儀正しくて大人しい子」

 その時俺は、確かに不快になった。
 杉元は苗字名前を興味無さそうに、それどころか明日子との仲を邪魔する異物とでも言わんばかりに話している。アイツは礼儀正しいとは言え別に大人しくはないというのに杉元にはただの、真面目な有象無象にしか見えていないのだ。それと同時に「そんな事」にどうした事が一々腹を立てる自分が気色悪くて不愉快だ。

「確かにアイツは礼儀正しくて大人しいな」
「え? 会ったことあんの?」
「日曜に二人でうちに来た」
「……お前まさか変なこと考えてんじゃねえよな」

 杉元の眼の色が変わる。赤茶けた瞳にはどの道片割れしか映っていないのだが、それを見るとあの女の伏し目と引きつった笑顔を思い出した。

「アホか。お前と違って俺はガキなんぞに興味ねえよ」
「人の事ロリコン扱いしないで頂けますかねー、尾形主任殿よぉ?」
「どーだか」
「あ、そうだ。明日子さんから伝言あったんだっけ」
「伝言?」

 いつもの調子に戻り、杉元は慌てた様子で携帯を取り出した。また珍しい生き物の糞の写真でも見せてくるんだろうか。
 うんざりしながら画面を見ると少し酔いが醒めた気がした。苗字。コレはあれだ、あの女の苗字である。

「明日子さんの友達がさ、なんか、尾形の連絡先どれかわからなくなったとかで伝えてくれって。本当は月曜に聞いてたんだけど忘れてたわ」
「お前なあ……」
「勉強で聞きたい事があるとか言ってたけどテスト期間終わっちゃったな。まあ、暇な時連絡してやってよ」

 差し出した電話帳には苗字と入力されているのに、杉元はさも「よく知らないけどとりあえず明日子の友人っぽい女子」を紹介するような顔をしていた。掘り下げたところで何の意味も無いので渡されたまま番号を登録する。あまりに予兆なく話が進んでいくので酔いも相まって頭が痛くなってきた。

「家庭教師でもしてたの?」
「……可哀想だったから引き受けただけだ」
「尾形って人に教えられるほど勉強できたっけ」
「少なくともお前と白石よりはマシだ」

 何種類か注文していたつまみもなくなり、酒だけをだらだらと飲みながら杉元は話題を仕事の愚痴に鞍替えしていく。早く出て行けと言わんばかりに店員が見る見る皿を引いていって、テーブル端には水割りの結露が恨めしく滴っていた。

「オイ、そろそろ出るぞ。明日早いんだろ」
「尾形主任殿! ご馳走様です!」
「先に出とけ」
「え、マジでいいの?」
「もたもたしてると気が変わるぞ」

 こんなつもりでは無かった。こうなるのもおかしい。
 登録したその名前がどうしても気になってしまい、酒代を出したのは自分の中に潜む後ろめたさを少しでも癒す為だった。

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