繕う自分は強迫症
「保冷剤の代わりに凍らせたペットボトル入れてますけど、ちょっと不安なのでできれば早めに食べてください」
「いつの間に作ったんだよ」
「尾形さんがいびきかいてる間?」
玄関を出る頃合いになって、名前が遠慮がちに保冷バッグを差し出した。こんなものうちには無かった。ほのかに使用感の残る具合を見るにスーツケースに入れて持って来たんだろう。
どこまでも用意周到なことで、計算高いというか、ハナからずっと居座る算段であったと思しき部分にどうしようもなく女を感じた。ただ今までとは違って少しも嫌な気はしない。
「悪いな。行ってくる」
「いってらっしゃい。気を付けてくださいね」
「……ああ」
ありがとうと言えばよかった。
まるで新婚のようだと一瞬でも考えてしまった自分がおかしくて笑ったのに、名前は怒ったような、照れているような笑顔を見せた。ドアを閉じたくないと思ったのはこれが初めてでは無いが、幸福紛いの心情に蓋をする為にもドアをバタリと閉めた。
「尾形、飯行くぞ」
「すみません。今日は用意しているので」
「愛妻弁当か。モテる男は羨ましいな」
「また女できたの?」
昼時になり月島課長と宇佐美の野郎が顔を出した。仮に弁当が無かったとして宇佐美と昼食を囲むなんて絶対に御免である。
興味無さそうに二階堂に声を掛け始める課長殿を尻目に、宇佐美はニヤニヤ笑いながらどんな子なのか写真は無いのかとまとわりついてきた。
「……知り合いのガキを預かってるだけだ」
「尾形百之助が子守? 冗談でしょ」
「さっさと行けよ」
「お手紙入ってんじゃん。えーっと、尾形さんお仕事がんばってください?」
包みを開くとひらりとメモ紙がデスクに舞った。目敏く取り上げた宇佐美の胸ぐらを掴んでもこいつは飄々としている。こういうところが苦手なのだ、とは俺も周りの人間から思われていることだろう。
「宇佐美てめえ、いい加減にしてねえとぶっ殺すぞ」
「この子百之助に惚れてんじゃないの? 未成年に手を出して逮捕懲戒とかやめてよ。鶴見部長の評価下がっちゃうしー?」
「……それだけは絶対ねえから安心しろ」
それ、とは俺のことではなく前段の話だ。名前が俺に気があるだなんてあるはずがない。
こういうところも嫌いだ。宇佐美は俺が女と別れる度に祝杯と称して缶コーヒーを勧めてくる( こいつは新潟生まれのくせに酒が飲めない )。俺だって捨てられると多少なりとも傷付くし、他人の痛い所を的確に突いて笑う姿が疎ましい。しかし思い返せば俺自身も全く同じ事を他人にしている。だからなんだかんだ宇佐美とは気が合うのだろう、不本意ながら。
「やっと料理できる女つかまえられそうなんだから、逃げられないようにねー」
「うるせえ死ね」
「お前が死ね。ばーか、クソ尾形ー」
「バカはお前だ」
「宇佐美、行くぞ」
鶴見部長の姿を見つけた宇佐美は途端に興味を失って走り出した。うちの部署は変人が多過ぎる。谷垣だけが気の毒そうに俺を見つめていた。
喫煙所は秘密の小噺をする場所では無い。
18時を少し過ぎた頃、業務を無理矢理終わらせてタイムカードを切る様を宇佐美はやはりせせら嗤っていた。しっかり夏季休暇を満喫していた奴に笑われる筋合いなど無い。
一日を締め括るべく向かった事業所隅に無遠慮につけて来る杉元を蹴飛ばしたが、さすがに俺のようなか弱い庶民の手には負えずついぞ入室を許してしまった。この傷だらけの面は夏祭りぶりである。
「仕方ねえな。一本やるよ」
「いるか。身体に悪いだろ」
「不死身が聞いて呆れるな。だったら出てけ」
杉元は缶コーヒーを開けて壁にもたれかかった。余程長話をするつもりらしい、パイプ椅子に置かれたもう一缶を取ろうとすると「それは俺のだ」と手を叩かれた。
こいつの持ち出したい話題ならばアレだろう。嫌でも脳裏に浮かぶ女子高生の顔を煙にかき消した。しかし杉元は、うじうじと口籠るばかりで一向に話し始めない。
「用がねえなら出てけ、仕事終わりまで職場の人間の顔なんざ見たくねえんだよ」
「お前には言いてえことが山ほどあるが、アレは一旦無視しといてやる」
言いたいことと出てきて引っかかるのは先日の詭弁だ。名前が杉元のことをどうだとか、あまり思い返したくないものである。
あの時の俺は( 当然今もそうであるが )どうかしていた。話すべきではないことばかりが口をついて、当人らの感情とやらを一切考慮していなかったのである。ただ今日の杉元はそれらを全部無視するように切羽詰まった様相でいた。あの、とかやっぱり、とか、まるで初期の名前のような言い訳がましい枕詞を並べて大きく息を吸い込んで吐く。
「女性向けのプレゼントを教えてくれ!」
「……は?」
来月誕生日なんだと、杉元は女々しく斜め下を見遣りながら言った。誰の話をしているのか。名前ならば春一番の生まれのはずである。
状況が飲み込めない俺を前に、杉元は畳み掛けるように「クソ尾形はプレゼントに関してだけはプロだろ」とか「お前に相談するなんて死んだ方がマシだ」とか耳障りの悪い言葉を連ねている。そうではなく、一体誰を想定しているのか。
「地元の、幼馴染みの嫁だよ」
「……ああ、例の。念願叶って離婚でも成立したのか?」
「やっぱりお前に聞いた俺が馬鹿だった」
飲み干した缶をグシャリと握り潰しながら、威嚇するように杉元が鼻を鳴らす。
2本目のコーヒーを流し込むコイツ曰く、幼馴染みの嫁──昔惚れていた女が妊娠したらしい。出産祝は渡すとして、まずは本人に何かを贈りたいのだと言う。警戒に使った俺の労力を返してはくれないだろうか。
「他人の女の為に時間を費やす程暇じゃねえんだ。俺じゃなくて他を当たれ」
たとえば谷垣とか、と名前を出すと杉元は苦い顔を見せた。すでに当たっていたらしい。
白石にそこまでの甲斐性は無いし、同じ部署の牛山からは「子種」と最低なアドバイスを頂いたそうだ。こう言う時に最も頼りになる鶴見部長と杉元は仲が悪い。
「二階堂なんて『杉元の耳と腕と脚』とか言いやがるんだぜ? 第七営業部って歪み過ぎだろ」
「へえ、いつも俺は後回しか」
「まだこの前の飲みのこと根に持ってんのかよ」
杉元と最後に居酒屋に行って、まだ一ヶ月と経っていないのに随分昔のことのように思える。毎日家に帰ると名前の口から「憧れの佐一さん」を聞かされている弊害だろうか。
溜息と一緒に吐いた煙が大きな掌に払われた。臭いが付くからさっさと答えろとか、頼んでいるくせに傲慢な態度が鼻につく。
「んなもん何が欲しいか聞いて言われた通りのもん買ってやりゃいいだろ」
「それじゃダメなんだよ。わかんねーかなあ」
「じゃあ現金でも書留で送ってやれ」
だから違うのだと、杉元が唇を尖らせた。
「だったら知らん。そう言うのは女に聞け。明日子は何て言ってんだ?」
「新しいナイフ。……この前の狩猟で折れちゃったみたいで」
「ああ、旦那からそのまま刺されるだろうな」
本当に俺の所にやって来たのは最後の最後だったらしい。俺と杉元の仲などこんな物だ。顔と同じくキズだらけのスマートフォンに聞いてみろと突き返そうとする最中、やはり名前の顔がチラついた。
恐らく杉元の足りない頭にもいの一番に彼女が浮かんだのだろう。見掛けに反してコイツの中身は気色悪い程に繊細だ。先日の俺の言葉が名前と杉元のやり取りを妨げているに違いない。
「……名前なら昼は暇だろ。一番まともなんじゃねえの」
「やっぱりそうだよな……」
罪滅ぼしか場繋ぎのつもりの意味の無い一言が今この場所では大きな波紋になるのだ。次の溜息は不本意ながらも杉元と同じタイミングを数えてしまった。会話が潰えて缶コーヒーも空になっていると言うのに杉元はバツの悪そうな顔をしたまま少しも動かない。
根元まで火種が迫った煙草を指で挟んだまま、俺もまた何も出来ずに立っていた。空調のけたたましい音に包まれるこの場所は、気まずさ以外の何も生まない。
「あのさ」
口火を切ったのは杉元だった。
「お前、なんで名前ちゃんから弁当作ってもらってんの」
「あ? 親戚のガキだって言ってんだろ」
「でも……いや、何でもねえ」
何かを言いたげな杉元を置いて俺は喫煙所を後にした。自分で巻いた種の回収が追い付かない。どうしてあの日名前の事を自分勝手に暴露してしまったのだろう。あの日に戻ることができるならば、人混みが嫌だとかいう安っぽい文句を言わずに名前の隣から離れなければ良かったと後悔してももう遅かった。