可愛いあの娘は失語症 | ナノ

どよめく自分は肝硬変


 昼過ぎの太陽に邪魔をされて、嫌々目を開けると名前はすでに昼食の支度をしていた。
 人の感覚は嗅覚が数割で残りが、と考えるより早く彼女は「お顔洗って歯磨きしてきましょうね」といかにも母親臭い言葉を投げ掛ける。俺の知る限りでは、女子高生とはここまで落ち着いておらず母親はこれ程立派ではなかった。しかし起き抜けの正論に反撃ができる程頭も回らない。

「おはようございます。いつ見ても髪ぼっさぼさですね」
「……寝相は良い方だと思ってたんだが」
「それって冗談ですか? 前も言いましたけど、尾形さん寝てる時すっごく暴れてますよ」
「嘘だろ」
「半分だけ嘘です」

 確かにいつも以上にひどい頭をしている。ある程度の長さが無ければ髪を上げた時に落ちてくるんだから仕方ないが、これならば昔の頭の方がマシだったかもしれない。
 しかし鏡で見る自分はお世辞にも話し掛け易いとは言えない容貌をしているし顔にもデカい傷を作ってしまっている。これで昔のような坊主頭にでもしようものならカタギには見えないだろう。

「お酒抜けました? 買い出し行きましょうよ」
「……。………、明日から仕事なんだが、お前はどうすんだよ」
「え? 邪魔だったらネカフェとか行きますけど」
「んなこと言ってねえだろ」

 啖呵を切って家出したものの、とうの世帯主は一切彼女の動向を気にしていないらしい。俺の知る限りでは名前の携帯は一度たりとも震えていなかった。
 玉ねぎと乾燥バジルだけが具材のコンソメスープが食道に染み渡る。このまま家で匿っているのが心底勿体無い。

「……本当は、海、行きたかった」
「え、尾形さんが?」
「なんでもねえ」
「買い出しの後行きましょうよ。クラゲが出るから入れませんけど」
「夜になるだろ」
「尾形さんの体力が保つなら大丈夫です! 他に行きたいところありますか?」

 昔海で振られたことがある。なんとなく俺のことが信用ならないとか、その程度の、しょうもない理由だった。夏祭り後は勿論のこと映画を観に行った後、せがまれて夜景を観に遠くの山まで連れて行ってやった時も、遊園地なんてのもあった。

「夜景見に行きてえ。映画と遊園地と、ホテルのディナーもあったな。あとは神社巡ったり旅行したり」
「尾形さん?」
「茨城は行ったこと無かったな。お前の実家とか桜の名所と、それから……」
「尾形さん、ちょっとお話なんですけど」

 名前が俺を見ている。珍しく、目が合った。彼女は眉間に皺を寄せて笑った。

「わたしで上書きしようとしないでください」

 ばあちゃんより年下で明日子より年上で、守ってやりたいと言うよりは補ってやりたい奴。それから料理にほんだしを使わなくて、前提として俺の出自に引かない人間。可愛くてヒールを履いても俺の身長を超えず、よく笑って面倒見が良くって、家と車を汚さない頭の悪くない女。一人でも勝手に喋舌ってくれて、俺のことを心配してくれる。
 回想の傍らでいつか杉元らに語った理想が名前に重なっていく。
 名前は物憂げに俺を直視していた。足りないところなど一つしか無いのだ。完璧な、人間が俺を慈しんでいる。欲しいのはそんな視線ではないのに心臓の下辺りがひどく痛んだ。

「なんて、早く食べてください。桜の時期はまだ先ですから、そのうち連れてってくださいね」
「名前、悪かった。俺は」
「尾形さんは余裕っぽく笑ってる方が似合ってます。だから、そんな顔しないでくださいよ」

 これだけ要素が揃ったところで、決定的に欲しいものが足りていない。美味い筈の昼食の味がしなかった。皆俺と同じはずなんだ。どんなに望ましい要素があっても、結局、自分のことを愛してくれる人間であれば何でも良いと考えているはずなのだ。
 その理屈で行けば名前にとっての俺はこの上無く幸いな存在なのに、スマートフォンのロック画面はいつになっても杉元と、明日子と白石との集合写真である。開いたところで次は同じメンツの別の写真で俺はどこにもいない。

「トイレットペーパー切れかけだったから補充しないといけませんね。あと洗剤、要る物リストアップしとかないと。尾形さん運転大丈夫ですか? いつも甘えちゃってて申し訳ないですけど、よろしくお願いします」
「……ああ」
「明日は何が食べたいですか? って、食事中に考えられないですよね。なんか適当に作っておくので嫌だったら言ってください。しいたけは入れない方針で考えてますから」
「ありがとう」
「尾形さん、夜の海ってこの時期でも寒いんでしょうか? 一応羽織るものとか用意してた方がいいですよね」
「嫌なんだろ」
「そんなことありませんよ! わたし、尾形さんが笑ってるとこ見てるの結構好きなので」
「……そうか」

 頼むからそんな顔で俺を見ないでくれ。期待させるようなことを言わないでくれ。いい年をした大人がこんなガキに惹かれているなど、ただでさえ正常ではないというのに気持ちばかり緩んで判断力が溶けていく。
 食い終わった食器を名前がシンクに持っていき、スポンジを泡立てる。代わりにやると、立ち上がりたいのに身体に力が入らない。どうしようもなく苦しくて喉につっかえるわだかまりを麦茶で流した。名前は何にも知らないように振り向くと、これも洗うのだとグラスを取り上げてしまった。

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