我ら不動の不感症
「尾形、この後どうだ? 二階堂と宇佐美も連れて飲みに行くんだが」
「生憎用事がありまして」
「ああ、女か。すまんな」
月島課長から誘われることなど滅多に無いが、かと言って新妻よろしく夕飯を用意しているであろう名前を蔑ろには出来ない。当たっているんだか外れているんだかわからない決め付けを根拠に四人が席を立った。俺が断った事に安心した二階堂兄弟が鼻で笑っている。
「あまり遅くなるなよ。お疲れ」
「ええ」
「クソ尾形ー飲み行くぞー」
「……誰が行くか」
「だから言っただろ。尾形主任が俺らの誘いに乗るはずが無い」
次に現れたのは不死身と谷垣だ。杉元には何かと聞きたいことはあるが少なからず今ではない。
営業部で疎んじられていると思っていた俺が今日に限っては誰かれ構わず声を掛けられて妙な感覚がする。最近の俺は取っ付きやすいと、事務方の女達も給湯室で話していた。心なしか雰囲気が明るくなったんだと、ガキと戯れていたら嫌でも表情が柔らかくなるんだろう。
鏡で見た俺は確かに(割合、今までよりは)優しそうな顔をしていた、我ながら。名前の前でも俺は自然とこの表情なんだろうか。
「おかえりなさい! お風呂にしますか? ご飯にしますか?」
「……そんなセリフどこで覚えてきた」
「古いドラマの再放送やってました。両端に黒い線があるのってどうしてですか?」
「フルハイビジョン世代とは見上げたもんだな」
エプロン姿ではいるが飯はとうの昔に出来ているようで、玄関を開けると名前が駆け寄ってきた。必ずしも定時で帰宅出来る訳では無いと教育するには今が持って来いである。
社会人の厳しさを少し語ると彼女は真っ青な表情をして見せた。こいつがこの先どうするかは知らないが、絶望は先に与えておくに越したことは無い。
「働きたくないなア……あっ、尾形さんお酒飲みますか?」
「飲む」
「よかった、今日のご飯味付け濃い目なんです」
名前は良く働いてくれる。栄養バランスが綿密に練られた一汁三菜が疲れた身体に染み渡り、休憩無しに働いた疲れが吹っ飛ぶ感覚がした。
皿洗いを買って出ると彼女は遠慮がちに微笑みながら、ありがとう御座いますとか、教え込んだ反応を決め込んだ。一昨日の一方的な反感から随分と距離が縮んだ気がする。
「ああ、明日も出勤になった」
「おやすみなのに?」
「名前の為に早く帰ったせいで、いくらか仕事が残ってんだよ」
「ごめんなさい……」
当然名前の所為では無いのだが、こう言うと決まって愛らしく謝るから面白いのだ。実のところ今日は上司がいなくなったのを良いことに仕事をぶった切って来ただけである。
「来週三者面談なんだろ」
「もしかしてプリント見ました?」
「この前自分で言ってたじゃねえか。姉ちゃんの国体がどうとかって」
「そうでしたっけ……それで何かありますか?」
いつの間に持ってきたのか、名前の通学バッグから覗くクリアファイルには進路調査票と印字してあった。家出中のガキがどうやって親を召喚するのかは見ものであるが、どうせ担任に適当な法螺を吹いて日程を変えんと努力するのだろう。
「行ってやってもいいぜ」
「え? なんで尾形さんが?」
「今は俺が保護者だから」
「えー……まあ、そうですけど」
「俺じゃ不満か?」
「そういう問題じゃなくて、どう考えてもオカシイです!」
名前の恋路に協力してやる、家出したならば置いてやる、行動だけを取ったら俺は暫定的な保護者に他ならない。エプロンを洗濯機に放り込んで名前がソファの下に座った(いつからかそこがこいつの定位置になっている)。
「一緒に住んでんのに?」
「そもそもそこから変かも……」
「ネカフェ難民やらパパ活よりはマシだろ」
「尾形さんがいなかったらわたし、きっとソレしてました」
「俺がいなけりゃそもそも家出もできてねえだろ」
「アハハ、確かにそうかも」
突飛な行動の裏付けになれているならばそれ程幸いなことは無い。
もし名前に同い年の男がいたのならソイツの家に転がり込んだんだろうか。高校時代はどうあっても大昔のことでよく覚えていない。それ以前に、最近の若い奴は妙にませているので理念を把握していないのであるが。
「あ、やっぱり尾形さんがいなかったら明日子ちゃんのおうちに行ってたかもしれません」
「その話はもういい。で、どうすんだよ」
「こんな若いお兄さんが来たら先生もビックリするかなーって……」
「行くわけねえだろ、進路の話だ。考えてんのか?」
「あっ……いいえ」
全然考えられません、決まり悪そうに名前が苦笑した。俺は当時、ばあちゃんに迷惑を掛けたく無かったから一人暮らしが出来ることと、学費が比較的安いこと、確実に浪人しないことだけを条件に進路を考えていた。
苗字家には苗字家の事情があって、それが名前となれば尚更である。今更体育大学を受験したいと言ったところでコネはあれど実技はてんで望みが無いのだろう。
「家からは出たいんですけど大体全部却下されますから、このまんま就職でもいいかなーって思ってます」
「大学ぐらい出とけ。出来れば院まで」
「大学院? 考えたこともなかったです」
「今年入社した鯉登って奴が院卒なんだが凄いぜ? スタートラインから給料が違う」
「そっかー……そうなるとやりたい事まで見付けなきゃいけませんね」
受動的に生きてきたんだと。親の言われるままにスポーツを一通り嗜んで、センスが無いと見切られてからは言い付けをキッカリ守り、勉強しろと言われればして家事をしろと命令されたら一人でこなして、この女の人生とは一体何なのだろうか。
俺とは別のベクトルで異なる窮屈な人生を、しかし名前は当然のように諦めて受け入れている。指針を示すのはいつの時代も大人の役割だ。他人に誇れた人生では無いがそれなりに金を稼いでいる俺の言葉であれば多少の参考にはなるだろう。
「せっかく料理上手いんだからそういうのやればいいんじゃねえの? 調理師とか栄養士とか」
「……知ったような口きかないでください!」
途端に激昂して、立ち上がると俺を睨み付けた。顔を赤くして拳は握りしめて、眉間に皺が寄っている。目の奥が揺れていた。ああ、俺は失敗したのだ。
「……悪かった」
「わたしも、すみません……急に大きな声出しちゃって」
したくてしたい訳でも、やりたくて出来るようになった訳でも無いのだ。名前はただ小間使いのように、望まれたままのスペックを以て生まれたままに恵まれた姉弟の為に働いている。
「名前……無神経だった。でも、お前の作るもん全部美味いし、何か作ってる時は楽しそうだったから」
「……尾形さんだからです」
何度も聞いて理解していたはずなのに出てくる言葉は無神経の真ん中を走っていた。へたり込むようにソファを向いて、彼女が上目遣いに俺を見た。
「尾形さん、無愛想だし口数少ないけどいつも美味しそうに食べてくれるから。ご飯作ったら後片付けしてくれるから。ありがとうっていっつも言ってくれますから」
「んなの、当たり前だろ」
当然のことを当然と享受できなかった子供は捻くれた大人になる。それを体現しているのは他でも無い自分だというのに、それでも名前は俺に一々気遣って言葉を選んでいた。
当たり前の言葉を受け取るといとも容易く号泣してしまった。尾形さん、俺を呼ぶ声の傍らには「お父さん」とか「お母さん」とか、自分には縁遠い続柄も連なっている。どうしても答えられない自分が嫌になった。
痛ましい。
名前に空いた穴を埋めるには世間に祝福された杉元が適任なのだろう。しかし杉元が名前を受容れるかと言えばそうは行かず、解っていながらもどう仕様も無く落とし込むことが出来ない。足りていない者同士が補い合うのは世の常であるが、家族が、家庭が、同じ部分で分け合えない人間ならば前提として誤っている。
自分の事しか考えられない俺を名前は許してくれるだろうか。俯いて、涙が服を濡らしている。
「なあ、何も思い付かねえんなら××大受けろよ」
「何かありましたっけ」
「あそこならうちからすぐだろ」
「え?」
一転、彼女は目を丸くして俺の顔を見た。
俺は一体何を言っているんだ。続く言葉が見当たらず、暫く室内に妙な空気が流れる。
「あの、そしたらわたしの家からでも通えちゃいますよ。尾形さんって本当人のことからかうの好きですよね」
「……うるせえ」
この家から程近い総合大学の名前を出すが、そこならば名前の言う通り実家からでも通えてしまう。ただ俺は、このまま名前が近くにいてくれるのであれば何だって構わないのだ。
二倍掛かる食費も、揃わない生活リズムも、家庭の諸事情も、名前がいれば総て解決してしまう。俺だけが名前に依存していて、彼女は素知らぬ顔で色恋沙汰に溺れていたら良い。
「遠くに行きてえんなら転勤話でも何でも受けてやるよ。いっそ北海道でも行くか? あそこなら下宿前提だろ」
「え……?」
「一人で住むより二人の方が何かと安上がりだろうが」
「二人で……えええ」
「何顔赤くしてんだ。今だって十分二人暮らしじゃねえか」
「う、うわー! わたし、何考えてんだろー……」
「知るか」
目元の水滴を拭って名前が笑った。
事実今は同棲状態で、名前が俺の家にいるのは当然で、俺はそれを半分幸福と半分不幸とで享受している。反証材料を見つけた彼女が言い訳ったらしく口を動かす。
「二人だったら食費も2倍なんですよ」
「現にそんだけ払ってるしな」
「出世払いで……。尾形さんって生活水準高いから、バイトしてもちょっとの足しにもなりませんし」
「女に払わせる程終わっちゃいねえ」
「たまにご飯作るのめんどくさいなーって思っちゃうんですよ」
「外に食いに行くか俺が作れば解決だ」
「すみません……でも、尾形さん、もし嫌じゃ無かったら卒業しても遊びに来ていいですか?」
「卒業したら家出るんだろ」
「うーん、まあ、その方向で考えてますけど」
気が抜けたのか、彼女がソファに腕を掛ける。左手は絶えず髪を触って、右手が不安そうに頬を撫でた。
「今日は疲れただろ。ガキはさっさに寝ろ」
「でもわたし」
「泣き疲れてんだろ。歯、磨いて来いよ」
言われるがままに名前は重い目蓋を擦りながら洗面台に向かった。音から察するに、先にコンタクトを外したのだろう。続き様にうがいの音が聞こえた。
三分後、ふら付いた足取りの名前が「ごめんなさい」と頭を下げながら寝室に向かう。すぐ様追い掛けるのも癪で、俺はリモコンに手を掛けた。
「……何やってんだよ」
いつか名前がそうしたように、チャンネルを回しながら独り言ちる。深夜帯の手前、ニュース番組かくだらないバラエティしか流さない民放各局を垂れ流しながら冷凍庫に眠るウォッカの瓶に手を掛けた。冷たい。エアコンの利いたこの部屋では結露は滴ることなく乾いた指先に霜を張り付かせている。
何時間経った時だろうか。
規則正しい寝息が寝室に響いている。今頃こいつは杉元の夢でも見ているのだろう、至極穏やかな表情は確かに目蓋を伏せている。
「大学……いや、今のままでも、男ができるまでずっとこうしてりゃいいだろ。今と何も変わんねえんだし」
いつかも感じたが、やはり俺は独り言が増えた。
寝息を立てる名前を、起きない程度に抱き締めた。今までここまでやわらかく女に触れたことが、果たしてあっただろうか。
「行かず後家になったら面倒見てやる。女ひとり養うぐらいどうってことねえからな」
名前を初めて見た時から、俺の心情は定まっていたのかもしれない。どうかしている。あの時はただ、身の丈に合わない制服を着た女に好奇心を覚えただけに過ぎなかったはずなのだ。
「名前も捨てたいなら用意してやる。だから」
知れば知る程苗字名前が愛しくなった。初めて見掛けて、そして初めて会話をして、その時感じた「過去の自分のやり直し」といった感情では無い本音が口をついては出てしまう。
「ずっと一緒にいてほしい。一生大切にする」
もし彼女が起きている時にこれを言えたらどれだけ俺の気持ちは波打つのだろう。眠る名前が、俺の指先を握っている。この全身が俺の物になる見込みは無いのだから、せめて彼女にとって都合の良い存在になれたらそれだけで結構だ。人間は、欲しい物が手に入って自分にだけ気を回してくれる相手がいれば幸せなんだろ。