めでたいあの娘は呑気症
「尾形さん、髪下ろしてたらやっぱり違う人みたいです」
平常心を保とうと躍起になる俺の気など知らず、名前は駆け寄って背伸びをすると頭を触ってきた。どこを取っても貧相な身体つきではあるもののやはり女で、丸みを帯びたラインをぶかぶかの服が取り繕っている。
「……固めてくる」
「お風呂上がりですよ?」
突き飛ばすことは出来ない為にやんわりと後ずさった。呑気な名前はアイスは要るかと聞いてくる。今の俺が冷やすべきは口でも喉でも腹でもない。
「……寝る」
「まだ22時ですよ?」
「まさかお前の口からそんな言葉が聞けるとはな」
「尾形さんのおかげで夜に強くなりましたから」
「さすがに今日は付き合えん。映画でも見てろ」
寝室のドアを開き、閉じたのにすぐ光が射し込んで来た。名前が立っている。リビングの冷気が漂ってくるものの夏の気温が篭る部屋で、逆光輝く彼女は俯きながら決まり悪そうに佇んでいた。
「まだ眠くねえんだろ。明日仕事なんだ。頼むから寝かせてくれ」
「帰った方がいいですか?」
「んな事言ってねえよ。せめて冷房が効くまでは部屋にいろ。折角風呂入ったのにまた汗かいたらどうすんだ」
「尾形さんも同じじゃないですか」
「俺はあんまり汗かかねえし」
「明日は一日主婦やるんですからあんまり関係無いです」
「あのなあ」
俺より先に名前がベッドに潜り込んだ。真ん中より少しだけズレて、このまま横たわるならまず確実に身体が触れ合ってしまう。
セミダブルベッドに、どけと言っても名前は動かなかった。頭の隅に仲直りセックスとかいう不埒な言葉がチラついている。アホか、そもそもこのガキとはキスすらしていないしする気も無い。
「尾形さん、今からわたしワガママ言いますね」
「聞いてやったら出て行ってくれるか?」
「聞いてくれたら出られなくなっちゃいますけど」
「……言うだけ言ってみろ」
「あの、尾形さん」
掛け布団を口許まで被って、名前が恥ずかしそうに呟いた。
「腕枕と……あと、この前みたいにされて寝たいです」
「……膝曲げて寝てもいいか?」
言われた通りに名前の小さな身体を抱きかかえている。妙に冷たく感じるのは相対的に、俺の体温が高いせいだ。
名前の手はしっかりと俺の腕を固めていて、よかった、と時折呟かれながら機嫌良さそうに握り締められた。彼女の甲高い声色が鈴の音に聞こえてしまう程度には俺は駄目になっている。
「お前、余所でこういうこと絶対すんなよ」
「しませんよ! 尾形さんだけです」
「杉元は?」
「ちょっと手が掠めただけで顔が真っ赤になっちゃうから無理です無理です!」
「ああそうか。本当性格悪いよな」
「え? 普通じゃないですか?」
「俺のことどう思ってんだよ」
「普通のおうちで言う、親戚のお兄ちゃん?」
三親等以内ぐらいであればこんなスキンシップ当然に出来るんだろう。ソフレ(添い寝フレンドの略称だったはずだ)とかいう都合の良い言葉が流行ったのは五年程前の話だ。当時下手を打てばランドセルを背負っていた名前には分かるまい。
「早く寝たいですよね……今日だけですから。ごめんなさい」
「本当に悪いと思ってんのか?」
「思ってます! だからわたしに出来ることだったら何でもします」
頭の中は性的な事しか浮かんで来ない。思春期の時分に薄かった性欲がここに来て暴発しているんだろうか。とは言えこの状況でヤリてえとか、思わない男がいればそれは不能である。
あまつさえ好きな女が腕の中にいるのだ。泣けなしの理性が「さすがに捕まる」と警笛を鳴らしている。歯止めになることと言えばその程度で、あー、駄目だ。寝よう。
「……明日は6時に起こしてくれ」
「了解です! 早起き得意なんです」
「そこだけは信頼してやってる」
「だけじゃ嫌です。お弁当作りましょうか?」
「明日は食う暇ねえと思うから盆明けに頼んだ」
「え……?」
首を傾げたつもりなのだろう。腕にグッと重みが加算されて、すぐに居直った。何か変な事を言っただろうか。心当たりがまるで無いので聞き返すと名前は絞り出すような小声でいた。
「お休み終わってもいていいんですか」
「最初からそのつもりだろ」
「……お世話になります」
やけに素直に返事をして、その後名前は黙っていた。エアコンの轟音と腕の中の呼吸音はいやに心地良くて、次に目が覚めたのは午前五時である。