いじけるあの娘は無精者
花火のせいで所々焦げたシャツをゴミ箱に突っ込んでいた。名前はそれを取り出すと豪快にハサミを入れて、換気扇下に積もった灰を拭っている。
昨夜は人生の絶頂と言わんばかりに楽しんでいた彼女が、今はどん底を見てこの有り様だ。俺とは比較にならない精神の落差である。
「繕ってくれねえのかよ」
「夜ご飯がお肉かお寿司だったらやってましたけど」
「どっちにしたって俺の金だ」
「家事だって労働です。尾形さんと違って縫い物とかやったことないからポイント高いんですよ」
杉元には自信あり気に言っていたくせに。五徳にこびり付いた(前の住人の)油汚れを磨く名前は絞り出すように剽軽でいた。いつか怒らせた時にそうしたのとは違い、今日の不本意の対象は彼女自身なのだろう。
何があったかは想像通りで、一時帰宅した父親に暴言を吐かれたらしい。こんな家出て行く、とか息巻いて玄関を飛び出しても追っては来てくれなかったんだと。昨日の俺と言動が丸きり同じなもので笑ってしまった。
「やっぱりお父さんは出来損ないの娘より優秀な子供の方が大切だったみたいです」
「ハハッ、俺とお揃いだな。親近感湧くわ」
「こんな話して嬉しそうなのって多分世の中で尾形さんぐらいですよ」
だからうちに来たんだろう。自分より不幸な人間を見ていると安心するのは人の常である。
名前が喜ぶのならいくらでも不幸せになってやろう。実際のところ、何をしても振り向かれることのない状況はこの上なく哀れなのだが彼女は少しも理解していない。
「なあ、名前」
「……あの、それやめて頂けませんか?」
「あ? 何かしたか?」
「その、改めて名前呼ぶやつです。また何か言われそうで怖いです」
「ああ……悪かった」
そんなつもりは無いのだが、名前が言うのならばそうなのだろう。居直って見せるならばこの女の名前を呼んでいたいのだ。
最初の内は、意地でもコイツの名前を口にしたくなかった。だから対照的に明日子とか杉元とか、白石のことは必要以上に名前を出して名前のことは蔑ろにしていたのだ。
俺の細かな拘りなど当人には少しも伝わっていないだろう。眉をしかめて反発する姿は純粋に、昨日のことだけを考えている。
「分かってるかは知らんが、名前を迷惑だとか帰って欲しいとか本気で思ってるわけじゃねえから」
「嘘ばっかり」
「……本心なんだが」
「でも、わたしもすみません。勘違いだったら恥ずかしいんですけど、明日子ちゃんに言ったのは誤魔化しただけなんです」
本当は仲良しだって思ってます、彼女が俺の肩を叩く。ああ、昨日のアレか。
コイツは結構的を射ている。あの時否定されたから俺はあんなにも拗らせてしまったのだ。それからいやに責任を感じているようで、そうするべきは俺の方なのにしきりにすみませんとかごめんなさいとかを繰り返した。
「気にしてねえからいい加減やめろ。それより俺だって」
「だったら、あの……あっ、いえ、やっぱり何でも無いです」
「何だよ、ハッキリ言え」
「本当に何もありません! シャワー借りてもいいですか!」
「部屋着持ってけよ」
「尾形さんじゃないんですから下着だけで歩いたりしません!」
「アレは心底申し訳なかったと思ってる」
バタン、大きな音を立てて部屋を出て行ったかと思うとすぐに戻って来た。足音を立ててクロゼットから俺のシャツを漁りそのまま出て行く。なんだ、結局似たようなもんじゃねえか。
「俺も風呂入ってくる」
「アイス食べてもいいですか?」
「腹下すから一個にしとけよ」
「いただきまーす」
風呂場に薄く残る例のシャンプーの匂いで過去の記憶が一気に吹き出した。誰かが論文で、人の記憶は嗅覚に深く根付いているのだと説いていたのを思い出す。
名前以外の女との記憶と言えばいかに面倒だったかと身体の具合だ。言われたら言われるままに付き合って来たが、三ヶ月以上続いた奴は共通して相性が良かった女である。このシャンプーの女とは五ヶ月程度続いていた。
「……嘘だろ」
思えば数日抜いていない。昨日はとてもそんな気になれず、名前が来ることなんて二度と無いと思っていたから後回しにしていたがとんだ誤算だった。
風呂場だと排水溝に詰まってしまうとは有名な話だ。それから白石がよく外回り中にコンビニのトイレですっきりしてきていたことも、いいや正気に戻れ。俺としたことがそこまで堕ちてなるものか。