可愛いあの娘は失語症 | ナノ

呆れた俺のエゴイズム


 タクシーを拾って帰宅すると、理路整然と置かれた名前の荷物が目に付いた。テーブルの片隅に高校日本史や生物の教科書が並んで、洗面台には女っぽい色合いの歯ブラシが乾いている。ベランダに干された洗濯物の中には当然名前の服が下着を含めてかかっており、ベッドの上の枕、型の違う充電ケーブル、ほんの数日で俺の部屋も随分と煩くなったものだ。
 名前からはいつまで経っても連絡は来なかった。どうせ今頃杉元達と楽しんでいるのだろう。

「……一人だと広いな」

 郵送するならば最低限はまとめておかなければならない。大切な休日をこんな事に吸われるのも不本意であるが部屋を片付けた。
 十数畳のリビングもやたらと多い収納も、そもそも俺一人には分不相応だったのだ。鍵は渡したままであるがこれを切っ掛けに転居するのもいいかもしれない。
 タバコをふかしながらぼんやりと、いつか持ち掛けられた転勤話を思い出していた。あの時は確か、不完全に笑う名前も知らないあの姿が気になって断ったのだ。

 自分では自分のことをそこそこ賢くて仕事も出来て、好みの分かれる顔ではあるが執拗に嫌われるでも無く、平均値よりは随分まともな人間だと思っていた(ただ性分に難があり、それはどうせ治らないと目をつぶっている)。
 誰も俺のことを知らない場所に行けば底抜けに明るい人物を装えるのではないだろうか。俺の生い立ちも花沢家のことも知らない奴らの中で、特段金も持たずに質素な暮らしをしていたらその内適当な相手が見付かって、死ぬまでまともに生きられるのでは無いだろうか。

 当然今までもこう言ったことを考えたことが無いわけでは無い。思案を枯らすのはいつも有象無象のような女達だった。今度は普通に愛せるのではないか、愛されるのではあるまいかと期待をして結論を先延ばしにしていたのである。
 わかってはいたが都合良く物事が進まず、別れたら翌日には次を、また次をと過ごしてこの有り様だ。幸か不幸か今の俺には何も無い。

「…………」

 どれだけ考えたところで結局痞える姿を消したいだけなのだ。後先も考えないで俺から切り捨てた。胸の奥に空いた穴は喉奥で広がって、その内頭が痛くなった。
 テレビを点けても音楽を流しても少しだって気が晴れない。いつか気の迷いで始めたソーシャルゲームはサービスごと終了していた。ひとりでいると、人生はこんなにも空虚だ。

「あいつ、どんだけ宿題残してんだよ」

 過去に帰られるならば一体俺はどこまで巻き戻すのだろうか。ずっと、三十年程度前に戻って母親とあの男を引き合わせずに自分が生まれて来ないように仕向けたいとばかり考えていたが今はまるでそんな気がしない。俺も頭がおかしくなってしまった。
 ただの一人のガキのせいでここまで調子が狂わされて、それでも憎み切れずにいる自分が不甲斐無い。こんな事ならばあいつのことなんて知らずにいればよかった。

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