可愛いあの娘は失語症 | ナノ

ブルーなあの娘は萎縮症


 香ばしい匂いで目が覚めた。ドアは半開きになっており、人工的な灯りが脳を覚醒させていく。
 昨夜はきちんと距離を置いて寝た。名前はすでに起きていて、律儀に朝食を準備している。少しも気配で目が覚めなかった。眠りは浅い方だったのにやはり、この数日で俺も随分変わったものだ。

「おはようございます」
「……早いな」
「もうお昼過ぎですよ。お顔洗って歯磨きしてきてください。髪もボサボサです」
「ああ」

 呆れたように彼女が笑う。よっぽど寝過ごしたのか、ベランダには洗濯物が干してあるし映画を丸々一本見終えた痕跡もあった。
 鏡の中の自分は先日とは違いアホ面ではないものの、確かに頭が滅茶苦茶だ。情けない姿を見せてしまったが不思議と少しも動じていない。

「何時にお家出ますか?」
「適当でいいだろ。どうせ白石は遅れて来るだろうし」
「そしたら食べ終わって、片付けたらすぐ出ましょう!」
「シャワー浴びたい」
「尾形さんって本当綺麗好きですよね」

 少なくとも件の白石よりはそうだろう。
 朝飯、と言うには遅過ぎる軽食を終えて向かった風呂場は案の定濡れていた。人のことばっかり言いやがって、名前だって十分潔癖だ。
 先日の反省を活かして服はきちんと用意してある。ドライヤーも使って、リビングに戻ると名前は昨日アイロンを掛けたワンピースを着てすでに他所行きの準備を済ませていた。

「まだ明るいですね」
「暗くなるまでアイツのボロ屋で暇潰せばいいだろ」
「明日子ちゃん、もういるのかなア」
「知らねえ」

 黒のポロシャツが縮んでいる気がした。いいや、多分俺が太ったんだ。
 不摂生ではなく規則正しすぎる(とは言え今は太陽に逆らっているのだが)生活のせいでしかしまあ健康になったものだ。誰かさんのおかげで、今血圧を測ったら恐らく自己ベストを叩き出せるだろう。





「名前ちゃん! 連絡着いて安心したよ」
「あ、えっと、たまたまスーパーで尾形さんにお会いしたんです」
「尾形もスーパーで買い物とかするんだ……」
「んだよ、悪いか」

 酒と肴を手土産に靴を脱ぐ。名前の考えた「たまたまスーパーで鉢合わせた」という筋書きは杉元の足りていない頭にすんなり溶け込んだようで会話が一旦終わった。
 杉元は俺の顔を見るなりハッとして、部屋の隅に雑に置かれたハンガーラックから見慣れたジャケットを取り上げるとこちらに投げて寄越した。

「この前ジャケット忘れてってただろ。持って帰れ」
「普通こんな時に渡すか? 荷物になるからお前にやる」
「尾形の服なんて小さくて入るか」
「邪魔だな。名前、寒くなったら着てろ」

 あの日飲みに行った後会うのは初めてだ。まさか休日にまでコイツの顔を見ることになろうとは思ってもいなかったし、あの時の会話のせいで心境が動くことも予想していなかった。
 極力こいつの顔は見たくなかったのだが仕方が無い。名前がそわそわと部屋を見渡している。俺の家とは違って狭いだけにそう見るものも無いはずだが、こいつの事なのでテレビ台に積もった埃でも掃除してやりたいとか考えているんだろう。

「明日子さんは親父さんの手伝いが終わってから来るって。適当に座ってて」
「ありがとうございます!」
「座布団」
「尾形は地べたに正座でもしてろ」

 機嫌良さそうに名前が右手を髪に掛けた。きちんと出会って1ヶ月程だろうか、このガキも随分厚かましくなったものである。
 はいはい俺は都合の良い男ですよ、溜息を吐いて煙草を言い訳に外に出た。真夏の照り返しが目に痛く、汗が背中を伝うのが不愉快だ。

「尾形ちゃん早いねー」
「……一本やる。お前も吸ってけ」
「マジで? ラッキー!」

 手ぶらの白石が都合悪く(いや、この場合は都合良くか?)やって来た。折角二人きりにしてやったのにすぐにコイツが来てはあまりに不憫だ(不憫の対象は勿論名前に気を回してやった俺のことである)。
 名前ちゃんはもう来てんの、とか、白石も俺ではなくアイツのことばかり気にしている。いや、コイツから下手に構われるとそれはそれで気色悪いのだが。

「愛しの佐一くんと二人きりだ。今頃盛ってじゃねえの?」
「名前ちゃんと杉元に限ってそれはねーだろ」
「お前も俺も邪魔者だとよ」
「あのさあ、違ってたら悪いんだけど」

 いつかの杉元のように、しかし幾分素っ気無く白石が呟いた。

「名前ちゃんのこと好きだろ」
「なわけ」
「最近の尾形ちゃん結構気持ち悪いぜ。自覚してる?」
「お前よりはマシだ」

 どいつもこいつも、俺が名前を好きでなければならないと言わんばかりに決め付けてくる。周りから言われてその気になる程流されやすい人間では無いからまあもとよりそうだったんだろうが、指摘されると反発したくなってしまう。
 貧乏たらしく根元まで吸って、白石がもう一本をねだってきた。まあいいだろう、箱を渡すと遠慮無しに二本取られてしまった。

「返せよ」
「俺は別に構わねーと思うけど? 尾形ちゃんもそろそろ幸せになって良い頃合いだろ」
「年の差考えろ。オッサンと女子高生だぞ」
「尾形ちゃんがオッサンだったら俺はジジイじゃん。まだ若いんだから自信持てって」
「三十路の言うことは違うな」
「それって人生の先輩にする態度?」

 さすが人生の大先輩様は懐が広い。俺が名前の事を好きだって、決め付けに掛かってその上で興味無さそうに煙草をふかしている。
 どう考えても許される筈がないのだ。ガキを誑かして破滅に導こうとする悪い大人で、それでも道理に沿っているのは彼女が一本筋を通して俺を他人と割り切っているおかげである。

「俺がどう思ったところでアイツは杉元に憧れてんだよ。つけ込む隙もねえ」
「やっぱり好きなんだ……さすがに引くわ」
「煙草返しやがれ」
「クゥーン」
「白石、尾形! 待たせたな」
「あーあ……時間切れかな」

 堂々とした出で立ちで明日子がやって来た。二人きりの時間を楽しませてやれないのは申し訳ない反面愉快でもあった。
 杉元がもっと人でなしならば幾分やり易かったのに、戻った空間で彼女は業務用タピオカをコーヒー牛乳に沈めて顔を伏せていた。

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