差し置くあの娘は滑り症
自分でも気味が悪くなる程大量に食材を買い込んでしまった。家族用の大きな冷蔵庫を買っておいたことに感謝するのは初めてだ。野菜室なんて初めて開いた気がする。
俺よりも俺の家の勝手を知っている名前が手際良く日用品を棚に収めていく。ここに引っ越してすぐの頃に同じように作業をしたものだがその時とは気分が全く違った。
「尾形さんのおうちって本当広いですよね。男の人って皆佐一さんみたいなとこに住んでると思ってました」
「あいつの家が極端なだけだ」
「一人暮らしでこんなに快適なトコに住めるのっていいなア」
「元々一人じゃなかったから」
「え?」
「昔の女が一緒に住むから広いとこに引っ越したいって言ったんだ。まあ二月と保たなかったんだが」
別れたからといってまた荷造りをするのが面倒で、そのままずっとこの住居である。アイツの要望を聞いて2LDKにしなかったのは唯一の功績だ。さすがに一部屋余らせるのは維持費が悪過ぎる。
俺にとってはどうだって無い話であるが、純粋無垢な女子高生殿は何かマズイことを聞いてしまったと言わんばかりに苦い顔をしている。
「あ……えっと、すみません……」
「こうして役立ってんだから分かんねえもんだな」
「悲しく無いんですか?」
「別に。慣れてる」
捨てられ慣れているなんてまったく男の恥であるが、名前はきっとそこまでの考えには至らないだろう。事実、彼女の視線からは嘲りではなく慈しみを感じる。
どこまでも素直な姿が新鮮だ。これまでの女と来たら、妙に知恵があるから質問の一つひとつに何かを探らんとする意図が透けて見えて気に食わなかった。ところが名前から何かを訊ねられたならば、過去の罪や、どうしようも無い経験が昇華されるような気がする。
「今日の尾形さんなんか変です。お酒飲んでるわけでもないのに機嫌が良すぎて、ちょっとだけ怖くなってきました」
「人のことアル中みたいに言いやがって。名前、アイス食うか?」
「お風呂入ってからいただきます」
だから何か危ないものに近寄ってしまったと察する名前の姿も心地良かった。盲信されるでもなく、適度に疑われたり疎んじられたりしている方がよっぽど楽なのだ。
名前は一体俺のことをどう思っているのだろうか。飯を食いながらしたやり取りで流石に勘付いたか、だとして誰からも愛されなかったこの女に何が出来ると言う。
「尾形さん、ここで髪乾かしてもいいですか?」
「やってやろうか」
「自分でできます!」
ただし風呂上がりの彼女は結局少しの警戒心も抱いていなかった。当然のように俺のシャツを着て、自前の短パン(ただしコイツが履くと七分丈になってしまう)を履いて、淋しいからとドライヤーを抱えている。
髪を乾かす名前をぼんやり眺めた。彼女はじっとりと俺を見ながら電源を切り、「恥ずかしいです」と右手で髪を撫で付けもう一度温風を鳴らした。
「昼夜逆転っていつご飯食べたらいいかわかりませんね」
「腹減った時に好きに食ってろ。名前、ビール取ってくれ」
「まだ飲むんですか?」
とか言いながら名前は素直に冷蔵庫に向かった。一丁前に昼夜逆転生活を語るがまだ23時である。今日の名前は昨日と違い、未だ幾分か活動的でいた。
「何かツマミが欲しい」
「トウモロコシ茹でましょうか? 齧り付くの好きなんです」
「……出来れば削いでくれ」
「え?」
「口、開けらんねえから」
傷痕を指差すと名前は申し訳無さそうに笑った。
顎の手術をしてからと言うもののあまり大きく口を開けなくなった。元々ぼそぼそ喋舌る性質だったがあれ以来磨きがかかり、話したことを聞き返される頻度も増えている。
「怪我する前の写真とかありません? 見てみたいです!」
「宇佐美か月島さんなら持ってるかもしれんな」
「会社の方ですか?」
「ああ、あと杉元も」
「じゃあ佐一さんに連絡……あ、スマホ水没したんでした」
「修理は」
「親の名義だから暫く無理です。……永遠に無理かもしれません」
そう言う理屈か。
名前が風呂に入っている間に白石から連絡が届いていた。「明日花火をするから来いよ、名前ちゃんって連絡つく?」こいつは妙なところで勘が利くというか、目ざといところがある。
「家にいても暇だろ?」
「まあ正直、あんまりやることないです……」
「花火」
「え?」
「杉元達と河川敷でやるからその時見たらいいだろ」
「佐一さんと!」
名前の目が煌めいている。残念な事に俺はこの顔を見るためにこいつといるのだ。視線の先にいるのが俺では無いことが彼女の幸福に繋がるのである。
それから一張羅と思しきワンピースとアイロン台、当て布を取り出してスチーム用の水を計量カップに用意した。この行動力が自分に向けられたら、と一瞬でも考えてしまい駄目押しにビールを飲み干した。