可愛いあの娘は失語症 | ナノ

企むあの娘は多幸症


「……まあそうだろうよ」

 いるはずがない。
 目が覚めたのはやはり昼過ぎで、南中を過ぎた陽射しがカーテンの隙間を縫って隣に作ったスペースを虚しく照らしている。昨日はどうしてあんな事をしてしまったのだろう。
 三十近くのオッサンが、急に抱き締めたかと思えば訳のわからん理屈をまくし立ててきたら結果はこうなるなんてサルでも理解できたはずだ。

「暑……」

 誰もいないリビングの冷房は消えていた。汗で身体がべとべとする。
 風呂場には水滴がたっぷりと散っていた。名前はおそらくシャワーを浴びてそのまま帰宅したんだろう。排水溝に自分のそれと較べて長い黒髪が絡み付いている。

 シャンプーが切れ掛けているからキャップを外して水を入れた。女物のよく分からんがアホみたいに高いボトルは到底使う気になれない。手に取るだけ取って、ガツンと香ったのは昨夜の名前の匂いだ。
 これから死ぬまで纏わりつく嫌な記憶がまた一つ増えてしまった。原因は全部俺にある。俺がどうしようもない人間だから、他人と一緒に自分にまで深手を負わせてしまうのだ。もっとも名前にとっての俺は今までの女とは違い、傍迷惑な知人程度であるからすぐに忘れてくれるんだろうが。

 何も考えたくないから顔から温水を被った。美容効果覿面の水圧が高いシャワーヘッドに変えさせられたんだった、顎の古傷が僅かに痛む気がする。あの時は何故崖から転落なんてしたんだろうか。よく思い出せない。
 もう何分こうしているか分からないが、いい加減喉が渇いてきた。下着はあるがシャツのストックが無い。分かりにくいと言って、名前が全部クロゼットに仕舞ったんだ。

「あ……」
「うわ、あ、えっと、見てませんから!」

 首のタオルとパンツ一丁でリビングに戻ると、トランクを拡げた名前が俯いていた。ああ、荷物を取りに帰ってたのか。
 どうしようもなく安心して、名前の前に屈み込むと彼女は強く「服を着ろ」と言い放ち右手で髪を掴んだ。





「名前、もう服は着た。……すまん。怒って帰ったもんだとばかり」
「怒ってるのは今です! ちゃんと下も履いてください!」
「暑いからいいじゃねえか」
「帰ります!」
「わかった、着替えるから荷物置けって」

 随分な荷物を引きずってきたものだ。古今東西、女は重装備である。いつか付き合った奴もたかだか日帰り旅行なのにまるで海外にでも行くつもりかと言うほどのスーツケースを用意していた。

「ちゃんと履きましたか?」
「履いたからこっち向いてくれ。悪かったな、嫁入り前なのに」
「まあ、もういいですけど……」

 ただし当時の女と比べて服飾品はあるものの、教科書と眼鏡ケース、充電ケーブルに薄手の毛布と、名前の準備は宿泊というよりは合宿だ。
 外行きの服ならばすでにこの家に置いてある。部屋着や下着ならばこの季節だ、洗って干しておけば一日と経たずに簡単に補填できるだろう。女のことなのでこの様子でさえ「一泊二日」を主張するのかもしれないが、ともすればいくらかこの家にいるつもりなのかもしれない。

「重かっただろ。言ってくれたら車ぐらい出したんだが」
「そのつもりだったんですけど、なんか、ぐっすり寝てあったから申し訳なくて」
「何時に起きた?」
「お昼過ぎぐらい? 朝に一回起きちゃったんですけど二度寝しちゃいました」
「だったら起こせよ」
「尾形さん、丸まったまんまビクともしなかったんですよ」

 一丁前に余裕をこいて名前が笑う。自分は寝相が良い方だと思っていたがとんだ勘違いだったようだ。仰向けは苦手ですか、なんてからかってくるので何となく頭を撫でた。赤の他人が家にいて、ここまで熟睡できたのは初めてだ。

「朝……っていうか、夕飯ですけど、起きてすぐご飯食べられる人ですか?」
「低血圧とは言われるが朝は結構食う方だ」
「意外ですね。昨日の残り準備するので髪乾かしてください。風邪引いちゃいます」
「……悪い」

 言われたままに洗面台でドライヤーを宛てながら、鏡に映る俺は見たことがない程とぼけたツラをしていやがった。平和ボケとか、ウスノロとか、そう言った類の自分の表情が知らない人間のようでゾッとする。一方であの大荷物ならばしばらく名前が帰らない事を考えて安心しているのだ。
 俺はこんなに率直な人間だっただろうか。リビングではエプロン姿の名前が昨夜の残りを温め直している。この姿を見るのももう何度目だろうか。

「……昨日は悪かった」
「寝始めの時歯軋りしてた件ですか?」
「嘘だろ」
「嘘です」
「もうお前のことなんぞ知らん」
「怒らないでくださいってー!」

 中途半端な広さのこの部屋にはダイニングテーブルを置くわけにもいかず、申し訳程度にバーカウンターを買っている。今まで朝食と言えば座りもせずに荷物を置いて済ませていたのだが、名前は当たり前のようにそこに食事を並べていた。
 はい、と、彼女が味噌汁二人分をカウンターに置いた。「いただきます」起き抜けの身体に染み渡るように塩分が食道を抜ける。ようやく本格的に目が覚めてきた。隣の名前は背筋をピンと張ってほうれん草を咀嚼している。

「この後お洗濯しますね」
「自分でやるからあんまり気ぃ遣うなよ」
「……尾形さんはもうちょっと気遣いした方がいいと思いますけど」

 昨夜のことを言っているんだろうか。名前は俺の顔を見ようとしない。
 もともと人の目を見て話せる奴でもなかった。器用にもやしの根まで箸で抓むコイツは、普段通りのはずなのにどうしても雰囲気が違う気がする。

「今年のお盆休みって凄く長いんでしたよね」
「有給使えばな」
「尾形さんはお休みされるんですか?」
「いや、出勤」
「うちとは違うんですね」

 つまり苗字一家が帰り着くのはおおよそ十日後だ。一人の家で、こいつはどうやって過ごすのだろう。それから俺自身もどう暇を潰したものか。
 考え込む彼女の横顔が心許無い。あの荷物なら少なくともあと二日、何か用事を作れば引き延ばせるだろう。服なら洗濯すれば何とかなるし、足りない物は買えばいい。この家にガキの興味を惹けるものなんてひとつも無いから、遠出でもしてやったら喜ぶだろうか。
 俺の事なんて少しも気にせず、名前が何かを思い付いたように顔を上げた。

「だったらその日は主婦みたいにしてますね」
「その日は?」
「さすがに一週間以上もあったらやる事無くなっちゃいそうです。宿題もそんなに出てませんし」
「……お前」

 まさか連休中ずっといるつもりなのか。

「ご迷惑だったら帰ります……、尾形さん何も予定無いって言ってたから調子に乗っちゃって、ごめんなさ」
「なわけあるか、いい加減にしろ!」
「えッ?」
「どうやって引き留めるか考えてたんだよ。……悪いか」
「え、あの、尾形さん?」

 名前といたら大体の事が杞憂に終わる。まずは食材を買い足して、枕も準備しよう。昔の女の置土産で足りないものがあれば追加すればいい。
 目を白黒させる彼女を置いて、一丁前に喜んでいる自分の気色悪さにはもう慣れ切っていた。余計な事は考えないに限る。元々生きていたってどうしようもない人間なのだ、俺は。少しぐらい道理に反していたところで今更誰も責めはしないだろう。

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