可愛いあの娘は失語症 | ナノ

高鳴るあの娘は夜盲症


「それで、佐一さん溺れ掛けたんですよー」
「そのまんま死んじまえばよかったのに」
「そういうこと言っちゃダメです! 佐一さん死んじゃったらわたし凄く悲しいんですから」
「俺が死んだら?」
「まあそれも悲しいですけど……」

 だったら死んでやる。
 しっかりとした食事の賜物か、多少ふらつくものの足取りは好調だ。洗い物をする名前の背後に立つも彼女は「座っててください」と振り向きもせずにスポンジを泡立てる。

「面倒だろ。食洗機買ってやるよ」
「あの、前にも言ったと思うんですけど、そういうお金で全部解決しようとするところ、あんまり良くないから直した方がいいですよ」
「……別にそんなつもりじゃねえんだが」
「すみません。出過ぎたこと言っちゃいましたね」

 顔が見えないだけに彼女の小声が気に留まる。今まで金で解決出来ることにしか取り組んでこなかったのは確かだ。
 だったらどうすればいいのかと食って掛かるには目の前の女は若過ぎる。少し声色を落としたかと思えば次の瞬間には「白石さんの頭をカニが挟んで」とか楽しそうに思い出話を語り出して、女はこれだから分からない。

「尾形さんはお盆休み何するんですか?」
「名前に日本史叩き込む」
「え、帰ります……」
「冗談だ。特に用事もねえよ」

 この空気感の中どうやって風呂場まで行ったものか。冷房を入れっぱなしにしていたとは言えさすがに頭が気持ち悪い。仕事用に整えた髪も髭も触った感じ随分と汚らしくなっている気がする。
 そう思ったら途端に恥ずかしいというか、いてもたってもいられない気になった。名前の髪は海水浴帰りとは思えない程度には艶やかだ。きっと家でシャワーでも浴びて来たんだろう。

「もう寝ますか?」
「いいや。……眠いんだろ。あっち、寝室だから勝手に寝てろ」
「帰らないでって言ったのにそれはちょっと傷付きます」
「……すまん」

 俺のせいで名前は家にも帰れず眠ることもできずにいる。22時、普段ならとうに寝静まっているはずなのに今日のこいつはやけに威勢が良い。
 珍しいなと声掛けると少しだけムッとしたような顔が振り返った。

「電車でイッパイ寝たから眠くないんです、ってさっきもお話しましたけど」
「名前がいるのに驚いて聞こえてなかった」
「なんか尾形さん雰囲気変わりました?」

 いつもよりサッパリしているのに分かりにくい。
 単純に吹っ切れただけではあるが、わざわざそれを伝えてやる気にもなれなかったので手を伸ばした。
 すんなりと名前が近寄って来る。自分でやったというのにその結果にゾッとした。こうなってしまうと簡単で、指先を彼女の地毛が滑る。

「夜に寝なかったら昼夜逆転しちゃうんですよ」
「ああ、学生の時そうだった。給料が良いからしばらく夜勤続きでな、バイト代なんざたかが知れてるってのに」
「何のバイトしてたんですか?」
「用心棒」
「警備員さん?」
「まあそんなとこだな」

 その時あの一年続いた女と別れたのだ。もともとあいつが指輪が欲しいとか抜かしやがったからバイトを増やしたのだ。それなのに相手をしてくれないからとか言っていとも簡単に別れ話を切り出された。
 どう回想したところで俺の記憶なんて薄暗いものばかりでうんざりする。考えまいとしたところでふとしたときに思い出してしまうのだ。一生、ろくに良いことも無いまま俺は死ぬんだろう。
 ただ今回目の前にいるのは内容は違えど俺と大差ない境遇の哀れな人間だ。何を期待しているんだか、こいつならば俺の醜悪な記憶を上書きしてくれそうな気がする。

「やってみるか?」
「うちの高校バイト禁止ですよ」
「そっちじゃねえ。昼夜逆転、どうせ連休終わりまで誰も帰って来ねえんだろ」
「え?」

 困ったふりをしながら彼女は確かに目を輝かせている。幸いなことに、昨日の俺はもともと酒を割って飲むつもりだったから飲み物も軽食も山程ある。
 暇を潰すための道具は無駄にデカいテレビの他に無いが、コイツの夏休みの思い出があるんだから退屈しないだろう。そうこうしているうちに彼女は何かに気付いたか、はっと目を見開いた。

「お泊りセット持ってきてません!」
「服なら俺のでも着てろ」
「歯ブラシと、……尾形さんってコンタクトですか?」
「裸眼で2.0」
「え、凄……。じゃあコンタクトのケースもありません」
「行くぞ」
「え?」
「車出せねえから近所のコンビニ。の前にスポンジ貸せ」
「でも、尾形さん」
「何でも金で解決するやつ、直した方が良いんだろ」

 強引にシンク前を立ち代ると彼女は少し驚いて、それから嬉しそうに笑った。拭いてますね、布巾で丁寧に磨いて棚に戻していく。
 知らないうちに名前は俺の家に馴染んでいった。特に教えてやったわけでもないのにお椀と皿を所定の場所に戻して、箸を片して、なんとなく甲斐甲斐しいものだから濡れた手で頭を撫でると名前は「髪で拭くな」と怒ったように鏡まで駆けていった。





「夜もまだ暑いんですね」
「盆明けたら多少マシになんだろ」
「あッ、尾形さん! こんな時間にも自転車の人がいます!」
「指差すな」

 ただ近場のコンビニまで歩いているだけだと言うのに、彼女は絶え間無く道行く造形物に感想を連ねている。星が少ないとか、24時間営業のお店は寝るべきだとか、蛾がデカいとか、もしこの女を夜の遊園地にでも連れて行ったら卒倒するのではなかろうか。

「コンビニ近いんですね!」
「マンションの一階にありゃもっと楽なんだが」
「ゴキブリとか出るみたいですよ」
「それは勘弁だな」

 光に吸い込まれるようにコンビニの自動ドアをくぐる。風呂上りで濡れた頭には店内の度を越えた冷房は刺激が強く、真夏にも関わらず冬を連想してしまった。
 律儀に必要なものをリストアップして来た彼女は一目散に日用品コーナーに向かっては感嘆を漏らしている。

「入浴剤とか置いてるんですね」
「大体なんでも揃ってんだろ」

 いくら裕福な家の娘だといってもまさかコンビニに初めて来たわけではあるまいし大袈裟だ。とか言う俺の考えを見透かしたように名前は「普通の女子高生はあっちのコーナーしか使いません」と菓子と飲料売り場を指差した。

「美容パック? よくわかんねえがコレ使えよ。多少は日焼けに効くだろ」
「そんなのわたしにはまだ早いです!」
「若い頃から手入れしてた方が歳食った時に苦労しねえぞ」

 年上の女と付き合っていた時に常々言われていた。あいつは化粧品を海外から輸入しては勝手に俺のカードで支払って、それに比べたらコンピにの品など安いものだ。
 目についた物をとりあえずカゴに入れながら、名前は大分恐縮している。そうだ、何でも金で解決しようとする態度を諌められたばかりだった。

「あれ? 尾形さん、ソレは?」
「……あ、いや、間違えた」
「スキン……」
「すまん、つい癖で……そう言うことじゃねえんだが、あの」
「素肌用の化粧品とか? いつも使ってるんですか?」
「……そんな所だ。今日は要らねえけどな」

 流れるようにコンドームの箱を手に取ってしまっていた。何をしているんだ、俺は。
 幸か不幸かコレが何なのか分かっていない名前の襟首を掴んで菓子コーナーに引き摺った。さすがのガキは切り替えが早く、新発売と銘打たれたチョコ菓子に歓声を上げている。
 いくつかカゴに突っ込んで、レジに行くとコンビニとは思えないぐらいの結構な金額を示された。カードで支払う様を名前はいつかのように気まずそうに眺めている。

「あ、えっと……、ありがとうございます」
「飯の礼だ。初期投資は大体こんなもんだろ」
「今日だけで多分使いきれませんよ、こんなに」
「だったら明日も明後日もいたらいいだろ」

 狼狽える姿があまりに初々しくて、ぐしゃりと頭を撫でると彼女は恨めしそうに見上げながら手櫛で整える。長い夜に黒髪が解けていった。

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