可愛いあの娘は失語症 | ナノ

愛しいあの娘は夢遊病


「……頭痛え」

 記憶が無いがどうやら寝室までは歩けたようだ。
 ベッドから落ちた衝撃で目を覚ました。15時、最悪な盆休みの始まりである。
 リビングは昨日のままで、グラスに残ったウイスキーを鼻をつまんでシンクに流す。今はこの臭いを嗅いだだけで嘔吐できてしまいそうだ。

「味噌汁飲みてえ……」

 具材は何でもいいからきちんと出汁を取ったやつで、それからさっぱりした物を食いたい。当たり前だが冷蔵庫の中には調味料が並ぶのみである。仕方がないので味噌をそのまま舐めるも塩辛いだけだった。
 今日が夏期補習の日ならば名前が来ていたんだろうか。馬鹿げている。平日だったらそもそも俺が家にいない。
 携帯を見ても着信はおろかメッセージすら入っていなかった。何を期待しているんだか、ソファに座り込んでテレビをつけると芸能政治に引き続いて海難事故のニュースが延々流れている。そうだ、あのお喋り女が杉元と会ったというのに何も連絡をしてこないなんておかしい。

「クソ、何で出ねえんだよ……」

 人がせっかく心配してやっているというのに、名前は電話に出ない。もしかして本当に何かあったのではないだろうか。杉元達は結局電車で海に行ったらしいから鉄道事故で、いいやそんなこと起きていたらとうにニュースになっている筈だ。
 答えなんてひとつしか無いのに目を逸らしているだけなのだ。名前は俺のことを、傍迷惑だが杉元と自分の為に蔑ろには出来ない扱いにくい存在としてしか思っていない。協力してやるとか大口を叩いてきたくせに特に何もしない大法螺吹きで、これ以上関わり合いになどなりたくない筈だ。

「水……」

 名前がいたら背中をさすってくれただろうか。その前に、そんなに飲むなと止めてくれたに違いい。あいつがいればあんな量の酒を飲むことにもならなかった。どうしていないんだよ。門限がどうとか、家に一人だったら関係無いだろうが。そもそも俺がいないのが分かっていて勝手に出掛けやがって。たまたま日程が悪かったんだ。杉元のやつ、俺が忙しい時にばかり計画を立てるなんて何のつもりだ。

 俺のことなんて置き去りにして高速道路には渋滞が出来ている。帰る場所は賃貸マンション、待つ人はいないし必要とされることもない。そんなの俺にとっては当然のことで、今更何も望まないつもりでいた。生きていても仕方無いが死ぬ理由も無いので生活をしている。俺のような人間は得てして長生きをするものだから、少なく見積もってあと50年、誰とも深く関われずに生きていく予定だった。

「気持ち悪……」

 もう一度吐こう。
 立ち上がった途端視界が反転した。足に力が入らない、そのまま頭を打って、意識が遠退いていく。もし神がいるなら、このまま俺を殺してくれ。





 次に目が覚めたのは当然リビングの床だった。あれから何時間経ったんだろうか、外がほの暗いのでおそらく20時前だろう。
 ただどうしたことか毛布が掛かっている。こんなもの用意した記憶はない。

「頭痛え……」
「尾形さん! 大丈夫ですか?」
「……なんで、お前が」

 この時間に名前がいるということは夢を見ているのだろう。夢なんて母親が死んだ日以来見ていない。あの時と同じく最悪だ(いいやそれ以上かもしれない)。
 彼女はエプロン姿のままこちらに寄ってきて、水とお茶どちらが良いかと聞いた。水、答えた筈なのにスポーツドリンクを差し出される。支離滅裂だからやはり夢だ。

「飲めますか?」
「口移しなら」
「変なこと言わないでください! 寝惚けてるんですか!」
「あ? ……現実?」
「飲み過ぎです!」

 重くて運べませんでした、どうやら本物らしい名前が苦笑いしている。意識がハッキリしてきた。
 名前は矢継ぎ早にここに来た時の状況を話し始めた。一方の俺は、いざ彼女を目の前にすると何の言葉も出てこない。

「着いたら倒れてるからびっくりしました! お部屋もお酒臭いし、何か嫌なことあったんですか?」
「別に、何も」
「あんまり心配させないでください。昨日も連絡つかないんですから」
「お前だって……電話」
「え?」
「心配した」
「スマホ海に落として壊れちゃったんです」
「……アホか」

 アホとは当然俺のことだ。昨日の夕方に杉元から着信があったのは気付いていた。ただ無視をしていて、今日はあのザマだ。
 自分一人で勝手に名前から見限られたと思い込んで、不貞腐れて、テーブルに頭をぶつけて気絶して、加えて夢と現実の区別も付いていないなんて間抜け以外の何者でもない。

「日焼けしたな」
「やっぱりそうですか? 戻るかなあ」
「そのままでも可愛いから安心しろ」
「だから変なこと言わないでくださいってー」

 依然吐き気は残っているが、安心のせいか喉元につっかえていたものが取れていく。スポーツドリンクを飲んだところを確認すると彼女はキッチンに戻って行った。

「昨日は佐一さんのおうちにお泊まりしたんです。あっ、もちろん明日子ちゃんと白石さんも一緒ですよ。尾形さんもいたらよかったのに」
「門限は?」
「皆おばあちゃん家で、おうち、誰もいませんから」
「……良い匂いがする」
「お味噌汁とほうれん草のおひたしと、今豚肉のポン酢炒め作ってるのでもうちょっと待っててください。できたら帰りますね」

 立ち上がったら俺の身長でも見下ろせる程チビなくせに、床に座っているせいで彼女が大きい。勝手知ったる他人の家で、俺よりずっと手際良く準備をしている姿を見ていたらもう駄目だった。
名前ちゃんのこと好きだろ、杉元の台詞が耳に残っている。俺は少しも異常では無い。アイツが悪いのだ。

「体調悪い。一人になったら死ぬかもしれん」
「そんなにお酒飲む方が悪いんです。二日酔いじゃ死にません」
「なあ」
「何ですか」
「名前、帰らないでくれよ」

 火を止めずに顔だけこちらを向けて、彼女が困ったように笑った。初めて名前が、俺の目を見ている。

「アハハ、初めて名前で呼ばれました」
「なわけ」
「本当です。尾形さんわたしのことだけ呼ばないし……、お邪魔じゃありませんか?」
「名前を邪魔だとか思ったことなんて一度もねえよ」

 ああそうだ、不死身の言う通り俺は名前の事が好きだ。
 もし足取りがいつも通りハッキリしていたらすぐにでも抱き締めたい。しかし今の俺は迂闊に立ち上がると余計名前に迷惑を掛けてしまうだろう。そもそも普段通りならば絶対にこんな事は言っていない。
 出来上がった料理をテーブルに準備する様をただ目で追っている。隣に座ったからと言って触れなかった。彼女との距離感はこの程度で無ければいけないのだ。

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