可愛いあの娘は失語症 | ナノ

哀れな俺は二日酔い


 朝からカレーを食うのが流行ったのはいつだったか。飲んだ翌日にしては早くに目が覚めて、やることも無いから名前の言い付け通り米を解凍して鍋を温めた。ガキの作ったカレーは予想に反して随分辛口だ。
 杉元のいない職場は結構静かで仕事が捗る。明日から盆休みではあるが予定はひとつも無い。これならば俺だけでも出社させてもらえないものだろうか。

 去年は確か、付き合っていた女のだまし討ちを食らって帰省に付き合わされた。その前も同じでもう一つ前はばあちゃんの三回忌、あの時は知りもしない親戚から随分と嫌味を言われたものだ(歳を取るとますますあの男に似てくるとか、お前さえいなければ心労も無かっただろうにとか知ったことでは無い)(大体ばあちゃんが死んだのは寿命だ)。父親の初盆には顔を出してくれと勇作さんが小煩かったのは何年前だったろうか。

「お疲れ様です。お先失礼します」
「休暇、ハメを外し過ぎるなよ」
「ははッ、俺がそんなことするように見えますか?」

 鶴見部長はロシアまで嫁さんの実家に行くらしい。知らない国に積極的に行きたいと思ったことは無いが、海外まで逃げてしまうのもいいかもしれない。
 金曜日、21時、今頃杉元達はどうせあの狭い家でアルコールをしばいているのだろう。名前は海の疲れで泥のように眠っていて、いや違う。

「……なわけねえよな」

 部屋は真っ暗で出勤前と何の様相の変わりも無い。今日から家に誰もいないなんて言うからもしかしたら、などとまるで名前がいることを期待しているようで頭が痛む。
 冷凍室に置いていたウイスキーをグラスに並々注いで一気に煽った。たかだか一杯でどうにかなるものか。二杯目も喉を鳴らしてかっ食らう。そのまま三杯目、ショットグラスではないのに流れるように入ってくる。今は少しも食欲が湧かない(朝にカレーを食っておいて正解だった)。

「……風呂」

 こんなに酒を飲むのは年末ぶりだ。気持ち悪い。あの日あれだけ飲んだのは付き合っていた女と別れたからだ。だったら今は何なのか。自分の思考回路が、自分のことなのにまるで分からない。冷水のシャワーを浴びるとまだ飲めそうな気がしてきた。





「尾形あけおめー」
「まだ31日だ。酒買って来たぞ」
「うわ、ウイスキーの5リットルボトル買う奴初めて見た……」

 狭くてボロくて汚いアパートで三人がぎっしりこたつに詰まっている。すでに飯は食い終わったようで狭い流し台には鍋の残骸が放置されていた。

「彼女と年越しの予定じゃなかったっけ。……あ、もしかして」
「そうだよ悪いか」
「今回は何が原因?」
「クリスマスに指輪渡さなかったから」
「ッピュウ! 尾形ちゃんの失恋にかんぱーい!」

 白石がいやに楽しそうにしている。他人の不幸は蜜の味を体現するこの男とは対照的に、明日子が気の毒そうに……いや違う。これは「この前も別れた話をしていたのにもう新しい女なのか」と困惑する顔だ。

「今年だけで何人目ー?」
「ヤリ捨て入れねえなら五人。去年よりはマシだな」
「来年は最高記録狙っていこうぜ」
「馬鹿言え、そろそろ落ち着かせろ」

 落ち着く気無いじゃん、買ってきたウイスキーをコーラで割りながら杉元が怪訝な顔を見せる。

「そもそも何でクソ尾形にぽんぽん女ができて俺にはできねえんだ……」
「魅力の違いだろ」
「経済力もじゃね?」
「んだと! テメェら今すぐ出て行け!」
「杉元の良さをわかってくれる女性もそのうち現れる。心配するな」
「俺に優しいのは明日子さんだけだよぉ」

 とか言って杉元に女ができるのが嫌なんだろうな。
 二人の様子を微笑ましく思う程度には酔っている。ここに来るまでに瓶のまま飲んだウォッカが悪かった。頭がクラクラする。あんな物飲んで平気な顔をしていられるのはロシア人ぐらいだ。

「今回の子はどうだったの?」
「料理ができねえ以外は結構良かった」
「前の人の方がよかったな。あの年上の」
「花沢家と没交渉だって言ったら別れ話切り出してきた奴か?」
「それじゃないけどそんなフラれ方するんだ……」
「あー、じゃあ親がいないっつったら翌日から連絡付かなくなったアイツか」
「尾形ちゃん……アイス食べる? 俺の分もあげちゃうよ」
「食う」

 白石から同情されるなんて終わりだ。花沢家と絶縁状態にあるのも母親がガキの頃に死んだのも俺にとってはあまりに当然な事で、まさかこんな障壁になるとは考えていなかった。大体成人過ぎて実は腹違いの弟がいました、なんて言われたところで仲良くしようと思う奴の方が稀だろうに。
 この一年も女の方から寄ってきて、個人的にはきちんと大切にしているのに唐突に振られる年になった。こんな状況を続けて八年が経つ。二十歳の頃の女が一番長続きした気がする(とは言えそれも一年そこらだ)。

「尾形ってそもそも結婚願望あるわけ?」
「独り身の方が落ち着くタイプだろう。犬は人につく、尾形は家につくと言うからな」
「わけわかんねえよ。俺だって普通の家庭を持ちたいとか考えたら悪いか」
「えー、意外ー!」
「郊外に家買って、子供は二人で嫁は専業主婦かパートか? 毎日帰ったら飯が用意してあると嬉しい」
「尾形のくせにまともなこと言ってやがる……」

 杉元がわざとらしく身体を震わせる。まあ、いいことあるって。アイスを取ってきた白石に肩を叩かれた。今日のこいつはやけに機嫌が良いと思ったらパチスロの年間収支が珍しくプラスだったらしい(プラス5と自慢げに指を開くが、単位は万ではなく千である)。

「尾形ってどういう子が好みなの?」
「ばあちゃんより年下で明日子より年上なら何でもいい」
「んなこと言ってるからいつもハズレ引くんだろ」
「尾形も人の子だ。理想ぐらいあるだろう? もっと具体的に言え」
「守ってやりたいと言うよりは補ってやりたい人」
「まるでわからん」
「……料理するときしっかり出汁取る女? 前提として俺の家に引かない奴で」

 抹茶アイスとウイスキーの食い合わせは最悪だ。どんなに酒を飲み干しても次から次へと杉元が補充してくる。
 酔っていた、普段よりもずっと。理想だとか、具体的にと言われていつもの自分なら無視をしているが口をついては要素が出てくる。最初こそ面白がっていた杉元が真剣な表情で身を乗り出してきた(こいつは見かけによらず恋愛話が好きな少女趣味な奴である)。

「可愛くてヒール履いても俺の身長超えなくて、よく笑って面倒見がいい女。それから家と車を汚さない……頭が悪いのは御免だな。会話が成り立たん」
「うんうん、それでそれで?」
「ひとりで勝手に喋ってるやつがいい。スレてなくて、普段は口に出さねえけど俺のこと心配してくれて……めんどくせえ、俺のことをちゃんと愛してくれるんだったら誰でもいいわ」
「どうしようクソ尾形のことがいじらしく見えてきた……。応援しちゃいたい」
「飴ちゃんいる? 俺の分もあげちゃう」
「いる」

 俺のどこが悪いんだろうか。付き合ってくれと言われたからそうしてやって、ブランド物の服が欲しい天然石のアクセサリーが欲しいと言われたら買ってやって、迎えに来いと言われたら深夜でも車を飛ばしてやった。そのくせ「百之助は本当にわたしのことを愛しているの?」なんて揃いも揃って同じ類の抗議をしてきやがる。
 大体人の愛し方なんて親も教えてくれなかったんだ。だから言われた通りにしてきたのに、どうしていつもこうなるのか。

「来年は尾形に素敵な出会いが訪れる事を祈って初詣に行くぞ」
「賛成ー! 尾形、それさっさと飲んじまえよ」
「さすがに、酔った」
「水飲みな?」

 白石からグラスを受け取り、一気に飲み干した途端後悔した。これは水ではなく芋焼酎だ。

「白石てめえ、ぶっ殺すぞ!」
「こっちが本物の水だ。飲め、尾形」
「信用できん。……便所」

 公衆トイレを彷彿とさせる臭いに一気に血の気が去っていく。気持ち悪い。ここは自宅でなく杉元のボロアパートだった。
 黄ばんだ便器が目に映っていっそう気分が悪い。どうしてあんなに飲んでしまったんだろう。コロリと貰ったばかりの飴が便器に落ちて水が撥ね白目を掠った。最悪だ。

「おえぇ……ごほッ、うぇ」
「尾形が吐いているぞ!」
「いい大人だから心配いらねえだろ。明日子さん上着持った?」

 俺をここまでした張本人だというのになんと無責任な。三人の興味はすでに初詣に移っているようで、身支度の音がする。
 ガチャン、薄いドア越しの音に出払ってしまった事を察して殺意が湧いてきた。呪われろ。





 あの日以来吐くまで飲むことなんて無かった。
 幸いにも今日は自宅であるが、芳香剤と、どんなに掃除をしても下水から沸き上がる臭いが混ざり合って不快なことに変わりはない。胃の中の物が簡単に逆流してくる。
 こんな週末の夜にいい歳こいた男が独りで吐くまで飲んで、誰に介抱されるでも心配されるでもなく、きっとあの日アイツらは俺のことなど忘れて各々の私利私欲を神に祈ったのだ。

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