可愛いあの娘は失語症 | ナノ

気遣うあの娘はものもらい


「尾形、金曜何かあるのか?」
「先日紹介を貰った新規の事業所に行く予定ですが。ああ、恐らく一発で落とせますよ」
「そうか……おかしいな」
「どうかされましたか」

 月島課長が首を傾げている。
 月曜からこの人に捕まるとは俺も不運だ。わざわざ声を掛けてくるなんて、先日谷垣に鶴見部長の愚痴を話していたところを聞かれてしまっていたのだろうか。

「第一営業部の杉元からその日は尾形に有休を取らせろと言われたんだ。心当たりはあるか?」
「全くですな。不死身から指名されるとは気持ち悪い限りです」
「そうか。ならば俺から断っておく。商談は頼んだぞ」
「言われなくとも」

 杉元が奔放なのは今に始まった事ではない。どうせろくでもないことを考えているのだろうと思っていたが、答え合わせは案外すぐにできた。
 18時丁度に携帯が鳴る。名前には確かに「定時は9時から18時」と伝えていたが、彼女はまだ社会人に残業がつきものであることを知らない。

「尾形さん大変です! 助けてください!」
「俺に出来ることなら」
「金曜日に佐一さん達と海に行くことになったんです! 今回は佐一さんから直接お誘いがあったんですよ!」
「よかったじゃねえか。で?」
「尾形さんに有給休暇取らせてって、佐一さんからお願いされてしまいました! 有休って入社して半年ぐらいしたらもらえるんですよね?」
「そうか、それは俺にはできねえことだな。諦めろ」

 杉元の奴が直接言って来ない理由はわかる。昨年の同じ誘いをこっ酷く断ったのだ。
 そもそも海なんて行って何が楽しいのだろうか。暑いし、濡れるし、ベタベタする。名前からの電話は長くなりそうな予感がしたので喫煙所に向かった。誰もいないのは都合が良い。

「でも、尾形さんいないと」
「車が無えってか? 明日子の親父さんに頼めばいいだろ」
「じゃなくて、あ、通訳のお仕事でその日はいないみたいです」
「だったらレンタカーでも借りさせろ。俺はあいつと違って忙しいんだよ」
「ですよね……すみません。なんか、お盆前に行かないとダメだって話になったんです。クラゲが出るんですって!」
「刺されんなよ」

 だったらもっと早くに企画するべきだろうが。計画性の無さは仕事にも存分に現れていて、杉元はそのノープランを持ち前の体力で全て補っている。あいつが不死身と言われるのは月末に毎度毎度徹夜を繰り返してもピンピンしていることに起因する。

「誘ってもらってよかったじゃねえか。楽しんで来いよ」
「はい。でも……」
「水着は持ってんだよな。悩殺……は、お前じゃ無理か」
「そうやってすぐ変なこと言うんですから!」

 つい昨日に普通がどうだとか、愛情がこうだとか話していた奴と同じ人間と思えない程に電話口の名前は楽しそうにしていた。
 やはりどうあっても女の考えていることは分からない。いつかも感じたが気分の落差が激し過ぎるのだ。

「補習は休むのか?」
「おばあちゃん家行くってことにしました。本当はわたしお留守番なんですけど」
「嘘を吐く時は半分ぐらい本当の事を交えてた方がバレねえんだ。賢いもんだな」

 親戚内から疎んじられているのは本当だったようで、彼女はお盆の帰省にすら入れてもらえていないらしい。祖父母の家は父方も母方も遠方で、毎年休暇をフルに使い、半ば旅行のように自分以外の家族は出掛けるのだと。こう言うのも育児放棄だとか虐待だとかは言わないのだろうか。

「泳げんのかよ」
「前にも言いましたけど人並み以上には出来るんです。でも二流だからこんななんですけど」
「勉強はそこそこ出来る方だろ」
「素行が悪いから推薦枠貰えそうにありませんけどね」
「制服か」
「まあそんなところです」

 4本目の煙草に手を付ける。携帯を耳に宛てがうこの姿勢もいよいよ肩が凝ってきた、このまま20時まで、彼女は喋りっぱなしなのではなかろうか。さすがにそうなると怪しまれるどころの話では無いだろう。

「そろそろ仕事に戻る。溺れんなよ」
「え、仕事中だったんですか?」
「まあな」
「すみません! お邪魔してしまいました」
「別にいいんだが、他に用事は」
「あっ、そうでした!」

 金曜日はご飯を作れません。木曜日にカレーを作っておきます。ご飯は大目に炊いて冷凍しておくのでチンして食べてください。洗濯物も一度にしてしまうので出しておいてください。
 一般的な(しかし俺からすれば理想的な)母親のような所帯染みた台詞を矢継ぎ早に並べて、最後に彼女が一呼吸置く。ぼそりと、尾形さんがいないと、と呟いた。

「だから車は借りろって」
「そうじゃなくて……、尾形さんがいないと変な感じするんです。本当は一緒に遊びに行きたかったんです」
「……また今度な」

 一瞬の内に、どうすれば紹介顧客のアポイントをリスケできるか、宇佐美辺りに代わりを頼んだら上手くやってくれるか、早めに切り上げて合流できないかを考えてしまった自分が気色悪い。電話を切ってしばらく、言いようのない恐怖心というか、不快感というか、とにかく褒められたものではない心持ちに支配された。
 先方の都合があるし宇佐美は使い物にならないし盆前にやっておくことは山程ある。どうかしている。ただの一言ですべてを投げ出す算段をする程、俺は名前の為に動かなくてはいけないのだろうか。

「俺が幸せになったら嬉しい、か」

 俺が祝福されることで喜ぶ人間がいる。単なる会話の流れでしか無いのに、先日の名前の台詞が耳について離れなかった。俺は、別に今更何を求めるつもりもなかったのだ。幸せになったら、軽口を叩くぐらいだったら責任を取るのが道理だろうが。
 認めてしまうが俺だって名前が幸せになることを願っているのだ。歳相応の満面の笑みで、人生を楽しんで、人並みかそれ以上の幸福を手にして、傍にいるのは誰であろうが構わない。他人の人生を馳せるのなんて初めてで頭の奥が痛くなる。俺が彼女の笑顔を作ることは出来ないのだろうか。

「……アホか、俺は」

 最近独り言が増えた。薄気味悪い。
 駄目押しで火を点けた煙草を捩じ伏せる。頭痛の原因はニコチンの過剰摂取に違いないのだ。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -