投げ出すあの娘は側弯症
「こんにちは。今日は良いお天気ですね」
「雨降ってんだが」
「あーあ、大会二日目は延期ですって」
せっかく準備したのに、と名前が重箱を抱えたまま助手席に座った。今朝方から急に降り出した雨はとどまるところを知らず、ワイパーが追いついて来ない。ドアの内側に滴る雨粒を彼女は丁寧に拭いている。エアコンの風が濡れた服には冷たいらしく、流れるように切られてしまった。
「今日は映画とか見たいです。あと宿題するので教えてください。もともと勉強教えてもらうって話でした」
「言葉の綾なんだろ?」
「あ、尾形さんって大学行ったんですか?」
「まあ一応」
「共通一次ってどんな感じでした?」
「バカにしてんのか。そこまで年寄りじゃねえっての」
頭をぐしゃぐしゃ撫でると名前は恨めしそうに、せっかく準備したのに、とバックミラー越しに繰り返した。どんなに綿密に段取りを組んだところで人生というものは大体、不測の事態に振り回されるものである。名前が珍しく髪を整えていたことなら知っていたが何も言ってやらなかった。彼女は、そこまで気にかけてやる程の人間でも無いのだ。
「日本史が全然覚えらんないんです」
「範囲が広過ぎる。もう少し限定しろ」
「日露戦争と日清戦争のあたり? あの時代は血の気が多過ぎるんです」
「仕方ねえな」
家に着くなり冷蔵庫に重箱をぶち込み、座るやいなやノートを広げて彼女が呟く。闇雲に暗記しようとしていたのかノートには単語が呪詛のように並んでいた。効率が悪いというか、ガキっぽいというか、書かなければ覚えられないのだと反論が飛んできたが書いた上で覚えられていないのだから救いようが無い。
「まず、世界地図があんだろ。こっからここまでが明日子の親父さんの国で、こっちが杉元の国な」
「杉元さんは総理大臣ですか?」
「平民。杉元は喧嘩っ早いから、清……中国と戦ってこっちの島を手に入れてたんだ。ただ自分の国を広げたかった明日子の親父さんはそれが気に食わなくて、フランスとドイツ人と一緒になって返せって吹っかけてきやがった。これが三国干渉な」
「なんでフランスとドイツなんですか?」
「何かと利害が一致してたんじゃねえの? 杉元に断られて腹立った明日子の親父さんが……」
適当に始めた説明を彼女は熱心に聞いている。まるで初めて聞きましたと言わんばかりの反応には頭が痛くなるが、一応理解はしているらしい。
「――で、この後が第二次大戦」
「ありがとうございました! すごいなー。尾形さんって何でも知ってますね」
「この程度ならいつでも教えてやるよ」
「歴史好きなんですか? 北原白秋とか足利尊氏みたいな強い男とか」
「その選択肢はよくわからんが、人間より銃の方がよっぽど強くて好きだな」
「てつはう?」
「AK-47とか64式7.62mm小銃とか、カッコいいだろ」
「アハハ、それって型番ですか?」
「……何笑ってんだよ」
「だって」
画像検索をして見せる俺の傍で名前が悪戯っぽく笑っている。
何かおかしなことをしたのだろうか、自覚が湧かない。彼女はお茶を二人分用意して、ゴクリと一口飲んでから言葉を続けた。
「尾形さんの好きなものとか、初めて聞くなーって思って」
「大体いつもお前が一方的に喋ってるからだろ」
「尾形さん口数少ないし」
「学校じゃ大人しい方なんだってな。明日子から聞いたぜ」
「明日子ちゃんと比べたら全人類大人しいですよ。わたしは普通です」
普通、噛みしめるように彼女は行った。普通の女子高生ならば休日にこんな、拳銃好きの得体の知れない男の家に単身乗り込んでくるものだろうか。大切な休日を家族の為の雑用に費やすものだろうか。名前が特別な人間かといえばそれは随分語弊があるが、少なからずまともでは無い。
「尾形さんのお話聞きたいです。好きな食べ物とかよく聞く音楽とか、参考にします」
「俺と杉元とじゃ全く違うぞ」
「だったらいいや」
「ここまで割り切ってる奴も珍しいな」
「アハハ、結構他人のこととかどうでもいいです」
今日の名前はいつもと少し違う。
テーブルに置いたスマートフォンの待機画面に明日子の名前が連なっている。明日子さんが画像を送信しました。明日子さんが画像を送信しました。明日子さんがアルバムを編集しました。やめろと言ったのにどうしてこうも余計なことをするのだろう。時間なんて戻らないのに彼女はずっと出自を恨んでいる。
「今日、延期になったから室内練習見た後ご飯食べて帰ってくるんですって」
「そうか」
「お弁当作ったけどいらないって。ひとりで食べてなさいって言われちゃいました」
「だから持ってきたんだろ」
「お姉ちゃんは今度国体の選抜があるんです」
「へー」
「出るのは確定みたいなものなのにお父さんもお母さんも、おじいちゃんおばあちゃんも喜んでて、わたしその日は三者面談なのに総出で応援に行くって」
「大変だな」
「わたしも好きなことしたかった。運動できないけど習い事とか、塾とか、お父さんとお母さんってわたしのことどう思ってるんでしょう」
「知るか」
そんな質問俺にする方が間違っている。
ソファに座って足をパタパタ動かしながら、名前は雨の窓を見やっていた。こんな時でも口元だけが不器用に弧を描いている。初めて話した日も同じ顔をしていた。
「お前って誕生日いつなんだ」
「4月2日です。本当は1日だったけど、学年変わっちゃうからそういうことにしてもらったって」
「生年月日まで家の都合か」
「生まれた時からこうなるって決まってたんじゃないですか」
あまりに不憫だ。
「あっ、またわたしばっかり喋ってました。……そうだ、尾形さんの親御さんってどんな人なんですか?」
「何年か前に花沢って名前の会社役員が銃殺された事件あったろ」
「事件? 刑事さんとか?」
「検索してみろよ」
雨の日にぴったりな陰鬱な話題だ。名前が画面を開いたまま硬直する。この反応は何人目か分からないが最早愉快ですらある。
「三十年後そういう顔になるから」
「……ブラックジョーク?」
「ははッ、どうだろうな」
「あんまり面白くないです」
花沢幸次郎と尾形百之助の顔を見比べながら、彼女は申し訳無さそうな笑顔を取り繕いつつ頭を下げている。
「妾とか言ってもお前にはわからんか」
「メカケ?」
「母親もソレのことばっかでよ、結局一度も気にされたこと無かったわ」
画面を指差しわざとらしく溜息を吐いて見せると物知らずの女子高生も察したようで、気まずそうに目を伏せた。結局こいつも他の誰とも同じだ。きっとこの後は会話が減って、何となく距離を置かれて、そのまま他人になる。
「だからお前の親が何を考えてるかなんて想像も付かねえ。俺にとっては親なんてそんなもんだから別にお前に同情するつもりもねえし」
「嘘ばっかりです。わたしのこと可哀想って思ってるから色々してくれてるのに」
「そう見えてんなら気のせいだ」
息を吐くように嘘が溢れていく。本当のところ、名前にしてやったことは全て同情のつもりだ。親の気持ちは分からないがもし自分がその立場なら目一杯愛してやるのに、本当はこんな話広げたくない。
折角本心を隠しても、名前はひたすら食い下がってきた。経験則とは正反対を行く反応にどこか期待する俺はどうかしている。しかし彼女にとってはどうやっても他人事で、自分より不幸な生い立ちを認めたくない我儘な子供そのものだ。
「尾形さんってやっぱり優しい人です」
「どこをどう取ったらそうなんだよ。アホか?」
「ちょっと不器用なのはどうにかならないんですか?」
「愛情無しで育った人間は何かしら欠けてるもんだ」
「そしたらわたしも?」
「そうなんねえように協力してやってんだろ」
「だったら、そうだ。今からでも愛情を受けたら普通の人になるんですか?」
どこまで捻くれているのか、世にも珍しく、名前が笑わずに無表情で淡々と問い掛ける。
「普通って何だ」
「何でしょうね」
「知らねえよ」
「尾形さんが幸せになったら嬉しいです」
「金にも女にも不自由してねえから別にこのままでいいんだが」
「嘘ばっかり」
そうして彼女はいつものように下手くそに笑った。ご飯食べましょうか、冷蔵庫から重箱が出てくる。
どう考えても二人で食うには多い。作り過ぎだと答えたら夜ご飯にされてくださいとすかさず提案された。いなり寿司も唐揚げも母親の味とはかけ離れていたので、すぐに鬱蒼とした思い出は薄れていった。