可愛いあの娘は失語症 | ナノ

居座るあの娘は口内炎


 合鍵ありがとうございました。助かります。お金使わせて頂きました。ありがとうございました。冷蔵庫にご飯入れてます。おいしくなかったら捨ててください。

「……箇条書きかよ」

 月曜の仕事を定時に終えて、家の中は当然電気も冷房も付いていなかった。人がいる訳でも無いのに痕跡だけはしっかりしていて、トイレットペーパーは三角に折られているし洗濯物は綺麗に畳んでテーブルに積んである。
 アイロンを探した形跡なのか棚の中が少し荒れていた。昔の女が言うに俺は神経質な方らしい。確かに食器を拭かずに乾燥させていた痕跡は気になるし、冷蔵庫に納められた皿のラップがピンと張っていないことが癪に触った。
 アイツは若いんだからこれから仕込めば癖も直るだろうと考えている。明日も来るとも限らないのに俺はきっと疲れて頭がおかしくなってしまったのだ。

「電話……は後でいいか」

 自分に言い訳をするように独り言を呟きながら、スーツをハンガーに掛け煙草をふかした。置き煙草でもしていたらアイツは手を付けるんだろうか(多分灰皿が綺麗に磨かれて終わりだ)。
 見掛けによらず図々しいあの女はシャワーも浴びていたようである。浴室に水滴が残っていて、シャンプーが僅かに減っていた。確かに俺は神経質かもしれない。
 ただ少しも悪い気はしなかったのである(そう、ラップさえ除けば)。いつもより早めに切り上げて早速換気扇を回しながら電話に手を掛けていた。最近煙草の本数が明らかに増えている。

「まさか本当に来るとはな」
「すみません! 社交辞令だったんですよね……」
「冗談だ」

 ワンコール目で反応した彼女は、電話の向こうで苦笑いでもしているようだった。こっちからは換気扇の音が響いているんだろうに、あちら側からは物音一つ聞こえやしない。

「ご飯どうでしたか……?」
「まだ帰ってシャワー浴びたばっかだ。早く電話しねえとすぐ寝ちまうだろ」
「あッ、はい……、感想とか要りませんので!」
「先に求めてきたのはお前だろうが」

 昼食の残りを銘打った料理はしっかりと栄養バランスが考えられたワンプレートで、多少量は少ないが文句ない見栄えだった。思っていた以上によくやるものだが、まだ食ってもいない。

「お金、助かるんですけどやっぱり気まずいです。今度お買い物行きませんか?」
「土曜日迎え行く」
「えー、悪いですよ」
「家と学校好きな方選べ。11時でいいか?」
「じゃあ学校の方で……」

 別にこいつと俺の家の中間地点が学校という訳では無い。ただ明日子も通うあの学校は絶妙に会社と俺の家、苗字家からも離れているし休日であれば誰もいないだろうから都合が良いのだ。
 これと俺みたいなおっさんに関わりがある事を、明日子ら以外から知られると何かとマズいことになる。自衛隊上がりで猟友会に足しげく通う杉元と違って、俺はただ歩合で稼ぐ企業の一従業員だ。

「嫌だったら断ってもいいんだぜ」
「え? 嫌だったら電話出ませんよ」
「……そうかい。ガキはさっさと寝ろ」
「尾形さん、お仕事お疲れ様でした。ありがとうございます」
「お前もな。寝坊すんなよ」
「おやすみなさーい!」

 電話が切れる。
 アイツの作った飯は中々美味かった。母さんは作らなかったような味付けで、そうだ、思えば今まで付き合ってきた女は誰一人だって料理をしなかった。
 火曜日、水曜日と過ぎて結局金曜日まで見知らぬ味付けの料理は絶える事無く毎日補充され続けた。うまかった、一行だけショートメールを送りありがとうございますと返答が来ること四日間、いつも俺から何かを起こしている。

「協力してやる……とか、何だったんだろうな」

 最近独り言が増えた。
 今週をフルに使って不死身の杉元は終わらない残業に追われていて、俺は定時退社を決め込んでいる。家にいる時間と比例するように煙草も酒も増えて、仕事中も何かにつけて杉元やあいつの事を考えている。あのクソガキは一体杉元の何に惹かれたのだろうか。先日の会議では杉元の暑苦しいテレフォンアポイントで発生したクレームの処遇について鶴見部長が呆れ混じりに話していた。少なからず仕事が出来る男だから、とか言う理由では無いだろう。

「土曜日、11時……」

 少し前の自分はこういう時スーツのまま出掛けて素知らぬ女を引っ掛けていたはずなのに、それがどうしたことか、翌日のつまらない用事に向けてシラフのまま眠ろうとしている。自分がどうなっているのかを自覚するのがおぞましくて、あろうことか今までやりもしなかったソーシャルゲームのクエストを無心で回すことにした。こんな姿は誰からも知られたく無い。





「すみません、待たせちゃいました?」
「ああ。死ぬ程待った」
「死なないでください」

 日々の教育の甲斐あってか彼女がなんら悪びれもなく助手席に乗り込む。会わない日々が、いいや何を考えているんだ。
 久々に目にしたクソガキはクソ真面目に夏期補習に通っているようで、通学によって日焼けした腕の赤らみを隠すように相変わらずぶかぶかのカーディガンを羽織っていた。料理がこいつの役割ならば洗濯も変わらないようで、少し毛羽立った化学繊維が陽の光に反射している。

「良い匂いするな」
「尾形さんが選んだやつですから」
「俺好みのやつ渡しといてよかった」
「え、えー……そうだったんですか?」
「……男は大体その匂い好きだから気にすんな」
「だったら変な言い方しないでください!」
「毎日つけてんのか?」
「勿体無いからたまにです!」

 クーラーが寒かったようで、彼女は助手席に向けていた通風孔を閉じながらシートベルトを締めた。暖房を入れてやるには夏が過ぎる。

「またいくらでも買ってやるよ。しかし、んな稀少なもんをわざわざ着けてくれるとは有難いな」
「たまたまです! けど、最近尾形さんなんかオカシイです、可愛いとかなんとか、そんなだから女たらしっぽく見えるんです!」
「あ?」
「白石さんが言ってました。尾形さんは女の人取っ替え引っ替えしてるって」
「俺がどんだけ遊んでようとお前に関係無いだろ」

 喧嘩を売るつもりは無いのに彼女は黙りこくってしまった。それもご大層に機嫌悪そうにしている。
 目的地のスーパーに着いてもこいつは相も変わらず地蔵のようだ。そのくせ野菜中心のいかにも健康に気遣っていそうな食材がカゴに積まれていき、何となく、バアちゃんの事を思い出してしまった。

「機嫌直せって」
「……」
「おーい」
「………」
「何か欲しいものあったら買ってやるから」
「……そういうとこ直した方がいいと思います」

 喧嘩を買うことに慣れていない彼女が精一杯嫌味ったらしく言い棄てたのを聞いて、何故だか途端に安心してしまった。このぐらいの年頃の女はこの程度生意気な方が丁度良いのだ。
 下から目線で睨む目付きの全てが愛らしくて、自然に頭を撫でると堪え兼ねたように彼女は笑った。いつもの、と呟いた名前が笑う。

「尾形さん、自分の頭ばっかり撫でるくせに」
「通報すんなよ」
「アハハ、しませんって。でも……そうだ! 嫌いな食べ物ありますか?」
「しいたけ」
「出汁でもダメですか?」
「鰹出汁がいい」
「じゃあ今日はしいたけの肉詰め作りますね」
「悪かったって」

 名前は500円までと言いながら菓子売り場に走っていった。持って帰ってきたチョコ菓子は真新しく、若々しくってこの瞬間だけならバアちゃんのことを忘れてしまいそうで気持ちの奥で手を合わせた。





「こっちの方が似合うんじゃねえの」
「着替えてくるからどっか行ってください」
「ソレ、引っ込めろよ」

 いつかした簡単なサインをこいつはいつまでも引きずるつもりらしい。右手で髪を触りながら名前が恨めしく俺を睨んでいる。
 先日与えた服は実のところ俺の趣味ではなかった。あんな、出来損ないのオフィスカジュアルのような服よりはもっと休日らしい装いをして頂きたい。俺が勝手に見繕った服をクローゼットからタグが付いたまま放つと、それを抱き締めてきて彼女は嫌に神妙な面持ちでいた。

「開けちゃダメですからね!」
「ガキの裸に興味はねえよ」

 寝室に籠ること5分、出てきた彼女は恥ずかしそうに左下を向いていた。短いスカートの下から膝が覗いている。こんな丈はあの制服には出せまい。

「佐一さんも可愛いって言ってくれるかな……」
「さあな。杉元は明日子みてえな野性味溢れる服の方が好きなんじゃねえの?」
「今度聞いてきてください!」
「はいはい。杉元好みの服を俺が買うわけだな」
「あっ、いやそうじゃなくって……」
「冗談だ」

 新品の服に機嫌良くしているところを悪いがこれから昼食である。
 彼女は面倒臭そうに笑いながら、やはり俺に何かを作るのは嫌だとほざいた。言いながらも手際良く鍋に湯を張っているのだから見上げたものである。

「そんなに見ないでください」
「自分の家で他人が飯作ってるのって面白いから」
「じゃあわたしのおうちで尾形さんがお昼ご飯作ってくれますか?」
「こんなオッサンが来たら父上殿が腰抜かすだろ」
「もしかしたらお父さん、わたしが誰連れて来てもなんにも言わないかもしれません」

 元何かの競技の金メダリストと言う彼女の父親は真っ先にこの娘を見限ったらしい。身長が伸びず、運動神経も人並み、今の控えめな彼女の人格をを作り上げた人物にどうしたことか少しの腹も立たない。
 最初に見た時あれ程哀れに思った笑顔は彼女を彼女たらしめるトレードマークにすらなっていて、そういった自然な変化に気が付いた途端背筋が凍った。

「尾形さん?」
「……仕事の電話してくる。悪いな」
「いえ? ごゆっくり」

 駄目だ。

 あの日確かに、俺はこの女に昔の自分を見出していた。誰にも愛されず受け入れられず、祝福されないまま育った歪な人間の行く末は今の俺そのもので、もし幼い時分に誰かが救ってくれたら未来なんていくらでも変わったに違いないと、そんな希望を押し付けていた。
 それが今はどうだろうか。彼女といて救われているのはどう考えたって現在の自分であり、当初の目的を大きく逸れている。こんなことあって良いはずがない。

 吐き出した煙はいつもより薄かった。肺にニコチンとタールが充満しているんだろうが、常日頃から息を吸うように紫煙に包まれている自分には何が何だかわからない。

「尾形さんできましたよー。座ってください」

 ベランダの窓を名前が叩く。少なからずこいつの前でだけは深刻そうな顔をしてはいけない。
 もう一口だけ煙草を吸って、吐いて、振り向いた先で彼女は恥ずかしそうに笑っていた。簡単に野菜炒めとスープです、案内された食卓にはこの家で初めて、他人が作った手製の料理が並んでいた。
 それが何故だか所帯染みているものだから、つい今まで思い詰めていた事象の全てが吹っ飛んでしまった気になった。

「ふーん、結構美味いじゃねえか」
「ほんとですか?」
「お世辞」
「もう二度と作りません!」
「そんな冷たいこと言うな。冗談だ、ちゃんと美味いぜ?」
「……尾形さんの笑顔ってなんか胡散臭いです」

 お前に言われたくねえ、出し掛けた言葉を飲み込んだ。
 名前は相変わらず遠慮っぽく、人生を諦めた風態で笑う。このまま生きていくと俺のような胡散臭い笑顔に成長するわけだが今忠言したところで馬の耳に念仏であろう。こいつには自覚が無い。具体的にはすべての自覚がないのだ。

「これならいつ嫁に行っても安心だな」
「尾形さんって本当人のことからかうの好きですよね」
「この前」
「え?」
「右手は使わないとか言ってたくせにすぐ裏切っただろ。仕返し」
「すみませんー! でも佐一さんと歩きたかったんです!」
「はいはい」

 今日に及んであの蔑ろな集まりを大切な思い出と捉えている彼女が痛ましい。名前にとって俺と過ごす夏休みは何なのだろうか。
 考えたところでどの道女の、それも一回り年の離れたガキの思考など分かるはずもないので思いついた事にはすべて蓋をすることにした。彼女は飯を食いながら片付けの話をしている。あー、多分、こういうのを嫁に貰うと男は出世するんだろう。

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