戯けるあの娘は飛蚊症
「鍵開けてるから勝手に入ってこい」
チャイムが鳴ったのはきっかり12時前だった。
なんとなくコイツは、タイムリミットのギリギリを攻めて来そうだと踏んでいたが案の定だ。二度目のチャイムのすぐ後にドアが小さく音を立てる。泥棒のように静かに上がり込んだ彼女は控えめな声でお邪魔しますと靴を脱いだ。
「あ、尾形さん!」
「んだよ」
「髪下ろしてるとこ初めて見ました!」
「風呂上がりだからな」
「あんまり尾形さんって感じしないです、違う人みたい」
どうやらこのガキの中で俺は常に大人らしかった。
セットしてなかったら子供っぽくなるね、とか言っていたのは何個前の女だっただろうか。確かそいつがうちに化粧品からシャンプーから置きっ放しにして出て行ったのだ。一年やそこらの話だと言うのにずっと昔のように思えた。それに比べて目の前のクソガキとはもうずっと昔からいるような気がしてしまう。
「お前の私服も初めて見る」
「……そんなに見ないでください」
「パーカーなら多少デカくても気になんねえしいいと思うぜ」
杉元の家で見せていた礼節の塊のような正座姿とは打って変わって、彼女はソファに浅く腰掛けて足を伸ばした。ちょっとしたワンピースのように、身体をすっぽりと隠すパーカーはどこか背徳的な雰囲気を醸し出している。色こそ淡い暖色であるが、サイズ感はそうだ、男の服を借りている様相そのものなのだ。
「昼飯は?」
「もう食べちゃいました。尾形さんまだならお買い物行きますか?」
「ついでに服買いに行くぞ」
「え? 」
「俺まで通報されたらたまらん」
文句を言う声を無視して強引に連れて来たというのに、いざ服屋に着けば彼女は次はあの店、やっぱりこっちと一丁前にウィンドショッピングを楽しんでいた。服って案外安いんだと喜んだ瞬間やっぱり高いと目を伏せる様はたかだか駅ビルに来ただけとは思えない、ちょっとした見世物である。
「何か着てみろよ」
「え、いいんですか!」
「試着はタダだろ」
彼女の家は思っていた以上に裕福なようで、確かにぶかぶかのパーカーは杉元の持っているそれとは違いしっかりとした生地でできていた。不釣り合いな長めのスカートも、よく見たら昔の女が好んでねだってきたどこぞのブランド物(この女がひどい金食い虫で、一時期は歩合給すべてを横流しせんばかりに服やアクセサリーを買ってやっていたのだ)であるし、ならばいっそう体格にそぐわない衣類しか買い与えられていない彼女が哀れに思える。
「どうですか……?」
「ガキっぽさは抜けたな」
「そうじゃなくって、変じゃないですか?」
「もう一つ下のサイズがいいと思うが」
最初に目を付けて以来何度も前を通りかかっては視線をやっていた店で、彼女はストライプシャツっぽいワンピースをずっと眺めていた。スーツぐらいしか買わない自分にはこの服を何と呼ぶのかはよく分からないが、本人が気にする程でも無い、何の変哲もないただの服だ。
俺の返答が気に食わなかったようで、チビ女は試着室に響き渡るような溜息を吐く。何だコイツは。
「あの、可愛いかそうじゃないかって聞いてるんです! 言わせないでくださいよ!」
「は?」
「……なんでもないです」
「お前が可愛いなんて当たり前のこと聞いてる暇があったらさっさと脱げ。レジ行くぞ」
「え、尾形さん何恥ずかしいこと言ってるんですか!」
「恥ずかしいのはお前の声のデカさだ。他にも欲しいもんがあったら持って来い」
「え……っと」
「買った分は俺の家に置いときゃ問題ねえだろ」
それきり彼女は大して何も喋らなくなり、淡々と似たり寄ったりなデザインの服を手にしては身体に宛てて、会計横で死にそうな顔で俺を見上げていた。男が金を出して当然であると信じ切っていた昔の女達とは正反対のこの態度が疎ましくもあるし面白くもある。
クレジットカードを通して、サインをする所を見ながら彼女はポツリと字が下手と呟いた。多少ではなくカチンと来た。
「ごめんなさい。あの、ありがとうございます……」
「あーあ、酒飲みながら昼寝する予定だったのによー」
「すみません! お金、卒業したら働いて返しますから!」
「俺より稼げるようになったらな」
試着中、とりわけ気に入っている様子だった服を着た彼女は何度もガラスに映る自分の姿を眺めている。
大きな紙袋を自分で持つと言い張ったが、手持ち鞄ですら持たせていることが心許無くなって引ったくると彼女はやはりすみませんと謝った。知り合ってまだ一月と経っていないのに、どうして俺はこんな、コイツなんかを気に掛けているんだろうか。
「わたしって尾形さんに何ができますか?」
「別に。いるだけでいいんじゃねえの」
コレは、いるだけでいいんだ。生きているだけでなんとなく面白くて可哀想で、だからコイツが幸せになれば何かから俺が救われるんだ。
どう足掻いても素直に笑わない彼女がゆったりと、ご飯忘れてましたね、なんて言っている。そう言えば元々そんな用事だったのを思い出したら途端に腹が減ってきた( 人体とは不思議なものである )。
「食材も買って帰るか」
「え? 尾形さんのお料理食べられるんですか?」
「お前が作れよ」
「えー……尾形さんにだけは作りたくないです」
「あ?」
「だって味にうるさそうです。昨日もヒンナって言わなかったの尾形さんだけですよ」
「お前も俺のこと何だと思ってんだ」
時間が経つのは早いもので、時刻はすでに16時を回っていた。こいつがそわそわしているのは正確すぎる腹時計のせいに違い無く、今から買い物に料理をこなしていたら間違いなくヒステリックな母親からの叱責が待っていることだろう。
大体食事なんて一日二日抜いたところで人間は死にはしないのだ。人間が死ぬのは──いつか眺めた景色がフラッシュバックして食欲がさっと引いていく(母さんはさいごの方で、飯を作るばかりで少しだって口にしなかった)。
「……荷物置いて着替えたらそろそろ帰れ」
「えっ、まだバスの時間までちょっとあるので軽食ぐらいなら大丈夫ですけど……、そんなに字が下手なのコンプレックスでしたか?」
「うるせえ。最近運動不足なんだ。歩くぞ」
「え、えー……」
「んだよ、俺と歩くのは嫌か」
「そう言うのじゃないですけど」
また通報されるかもしれない、と彼女が心配そうに漏らしている。そもそもアレは酔っ払いの顔に傷のある、反社会勢力と思われても仕方無いような男とセーラー服の組み合わせあってのものだ。
「状況が全然違うだろ」
「それもそうですね! 尾形さんのおかげです」
「金出すだけでこんなに喜ぶ女とか初めてだわ」
「尾形さんってお金持ちなんですね」
少なくとも杉元以上、苗字家以下だろう。買ってやった服はすべて俺の家に置いて来た。チビ女は妖精のように、大き過ぎるパーカーを翻しながら陽気に歩いている。夏の夕方はじっとりと暑く、コンクリートから照り返った熱気で汗が滲んだ。
「明日から補習なんですよー。いやだなー」
「夏休みなのにご苦労なもんだな」
「二年は午前で終わるからまだマシです。でも補習終わりに遊びに行ったって遠出できないし、なんか……、仕方ないけど自由な時間が無いまんま終わっちゃうのってかなしいです」
「家でだらだらしてたらいいじゃねえか」
「お母さんに嫌味言われちゃいます。図書館とか行こうかなア」
「だったらうちにいろよ」
言った後確かに俺は後悔した。
時間が止まったように、苗字名前がただ歩くのを止めている。馬鹿げている、何がおかしくてろくに知りもしない女を家に置こうとしているんだろうか。ただそれは杞憂であり、彼女は次の瞬間的外れに「光熱費がもったいないです」と言った。時間が動き始める。俺は一体どうしてしまったと言うのだろうか。
「少しでも申し訳ないとか思ってんなら、そうだな……飯、大目に作っててくれ。金は渡しとくからよ」
「え、でも」
「わざわざ作ってもらったもんにまで文句言うか。オートロックの暗証番号はメールで送っとく」
「ほんとにいいんですか……?」
「逃げ場所ぐらい必要だろ。テーブルに合鍵置いておくからちゃんと鍵閉めて帰れよ」
家からバス停までは、思いの外すぐに着いてしまった。彼女は最後まで申し訳無さそうにしていたが、俺の気のせいでなければ少しばかり嬉しそうでもあった気がする。