戸惑うあの娘はド近眼
エプロンが無いばかりに彼女の制服は少し汚れてしまっていた。「もうできますよ」食材を机に並べて、明日子が出汁を取っている。
水炊きなのかすき焼きなのか分からない乱雑な鍋がカセットコンロの上でがなり始めた。烏龍茶、人肌のコーラ、グレープジュース、発泡酒が二本と並ぶ。家主がコホンと柄に合わない咳払いをした。
「えー、本日はお集まり頂き有難う御座います。二人の夏休み開始と明日子さんの赤点回避を祝って……かんぱーい!」
「かんぱーい!」
向かいに座る彼女が遠慮がちに乾杯、と呟いた。小蝶辺明日子と苗字名前、両手に花とは言い難い二人に囲まれた杉元は一気に缶を空けて二本目に手を掛けている。部屋が狭いものだから杉元と足が触れ合っているようで、彼女は一丁前に顔を赤らめていた。左手で髪をいじりながら恨めしそうに俺を見ているがこれ以上何をすれば良いと言うのか。
「もう食べてもいいよね?」
「まだ火が通っていない。馬刺しでも食べながら待つか」
「オイ明日子、勝手なもん買いやがって」
「他人の金で食べる馬刺しは旨いな! 名前!」
「え、えー……」
コーラがぬるい。
「名前ちゃん、ジュース飲む?」
「ありがとうございます!」
「お酒は?」
「ダメですよー、わたしまだ17歳です」
「17ってヤバいよな……俺の10歳下じゃん」
「佐一さん27歳なんですね!」
「まだギリギリ26歳だけどね。白石は30で、尾形っていくつだっけ」
「杉元より1年人生の先輩だ。敬え」
馬刺しがぬるい。
年齢だなんて、どうでもいい会話の中で鍋が煮立ってきた。器を持つと明日子にまだだと注意された。明日子は性格こそガサツであるがこと料理に関しては目を見張るものがある。一方のチビ女ときたら大して腹が減っていないようでヘラヘラしていた。
「名前ちゃんがこんな時間に遊べるなんて珍しいよね。お母さん厳しいんでしょ?」
「尾形さんが電話してくれたんです」
「尾形が! お前、金が絡まねえと動かない奴だとばかり……」
「さっきからお前は俺のことを何だと思ってんだよ」
「名前ちゃーん、こういう男には気を付けるんだよー。会社じゃ問答無用に残業強要する嫌な上司なんだから」
「それは杉元の作業効率が悪いからだろ」
「鍋、そろそろいいんじゃね?」
「白石! 名前がいるんだから汚い箸を突っ込むな!」
白石が箸を伸ばしたところを明日子が制止する。女の考えることはよくわからないもので、その様子に彼女は悲しそうに笑った。
女と言うものは古今東西特別扱いをされると無条件で喜ぶものだと思っていた自分の価値観が崩れていく。
「大丈夫だよ、明日子ちゃん。そう言うのも楽しいっていうか」
「名前の優しさに感謝しろよ。全員器を出せ。私がこの洗いたてのお玉でよそってやる」
料理の拘りはあるが盛り付けに関しては無頓着な明日子によって、ただでさえ訳のわからない鍋がますます不明度を増した。全員に器が行き渡り、俺はこっそりしいたけが入った自分の分を白石と取り替えた。
「いっただきまーす! お、こいつぁヒンナだぜ」
「ひんな?」
「明日子さんのお母さん方の言葉で食べ物に感謝する意味なんだよ。ヒンナヒンナ」
「……ヒンナヒンナ」
熱いからろくに口も付けていないくせに、彼女は恥ずかしそうに笑いながら小声で呟いた。最早何に顔を赤くしているのか、幸いにも酒は飲まされていないので安心である。
「杉元、肘が当たっているぞ。大切な名前を傷モノにする気か」
「あっ、ごめんね。狭くて」
「え、いえ! 気にしないでください……」
明日子ときたら余計なことしかしない。座り順を間違えたか、俺の真向かいの杉元はわざとらしく肩をすぼめた。
この家のテーブルは世にも珍しいちゃぶ台だ。正座する彼女は少しばかり背が高く見える。もし本当に身長が高かったら、この遠慮っぽい笑い顔も違ったのだろうか。
「だから尾形の家がいいっつったのに」
「そういえば尾形ちゃんの家って外からしか見たことねーな」
「私もこの前初めて上がったぞ。すぐに出禁を食らった」
「他人が来ると汚れるだろ。特にお前らは遠慮しねえし」
「え?」
「なんなら車も簡単に乗せてくんねえよな」
「去年乗せてやったじゃねえか」
「それって尾形が車で来たくせに飲んで帰れなくなった日のこと?」
口々に俺の家に関する妄想が垂れ流される。綺麗そう、案外汚い、家具は必要最低限に違いない、猫とか飼ってそう、実は杉元宅より狭いのでは、所狭しと本を置いてそう、チビ女はぽかんとした顔をしてどれに肯定も否定もしなかった。明日子の見聞だけで話が広がっていく。
「名前ちゃんもっとお肉食べな?」
「え、あ、大丈夫です、気にしないでください」
「こうして明日子さんが赤点を回避できたのも名前ちゃんのおかげなんだから」
「名前ちゃん何点だったのー?」
思えばここに来て、彼女は極端に口数が少ない。
もともと「え」とか「あ」とかが口癖のようにおどおどしているのだが、それでも自分の主張は中々ハッキリしていて大人しいレッテルを貼られたおしゃべり女というのが俺の見解であったが、杉元を前にすると緊張しているのだか途端に借りてきた猫だ。
テストの成果を聞かれても答えたのは彼女ではなく明日子だった。
「名前はすごいぞ! 学年で7番だ!」
「一学年十人ぐらいなんじゃねえの」
「尾形さん違いますって! その20倍ぐらい多分います!」
「へえ、結構やるじゃねえか。明日子は?」
「こ、この話は終わりだ!」
やっと意味のある言葉を話したかと思えば俺に対してしか返答しない。彼女は特段左手も右手も、お箸とお椀に添えるばかりで、最早何の救難信号も出さなかった。たまに横目で杉元の傷痕を眺めてはふわっとだらしない顔をして、時計が20時を回ってもずっと同じ調子だ。
「良い匂いするね。シャンプーどこの使ってるの?」
「え、あっ、よくわかんないんですけど……お母さんが使いなさいって言うやつで」
「すーぎーもーとー、変態みたいなことを言うな!」
「ごめんって。狭いから余計に気になったんだよ。尾形の家だったらなあ?」
「俺の家は案外汚くて狭そうなんだろ」
「女子からは良い匂いがするものだ」
「明日子さんは石鹸の匂いしかしないのに?」
「たまに凄い臭いの女もいるぜ?」
白石が意気揚々と汚い話を繰り出し始める。こういう時の白石はいやに活き活きしているが、残念なことに奴の経験談はすべて水商売の女だ。水商売。営業の仕事をしていると頻繁に上司や取引先、挙げ句の果てには部下からも誘われる。
嫌な事を思い出して、酒を飲もうと手を掛けると杉元が制止した。今日は車だ。酒には逃げられない。
「あれ、ビール無くなってない?」
「買いに行くか。白石頼んだ」
「めんどくさい……」
「あ、わたし行ってきます!」
「セーラー服じゃビールは買えないでしょ。尾形行ってきてよ。車でぶーんと」
「歩いた方が早えだろ」
「使えねえな。名前ちゃんは待ってていいよ」
ここぞとばかりに彼女が助けてくれと左手のサインを出す。面倒臭い。俺は何をしているんだ。
「テスト頑張ったんだろ。これで好きな物買って来い」
「あ、ありがとうございます!」
「じゃあ一緒に行こうか」
「はい!」
万札を受け取るや彼女は立ち上がり、長いスカートを翻した。なんだ、素直に礼を言えるじゃないか。
杉元の前で見せる姿と俺の前での人懐こさはどちらがこいつの本物なのだろうか。言うまでも無く奴の対面では取り繕っている。女なんて、結局いくつでも女なのだ。
二人が家を出て、流れるように俺と白石もベランダに向かった。一本ちょうだい、図々しく白石が手を差し出す。メンソールだと言ったところで聞かないだろう。
「なんか、名前ちゃんに甘くない?」
「……可哀想だし」
「たしかに厳し過ぎるよなあ。俺だったら家抜け出しちゃうぜ」
「仕事中も簡単に脱走するしな。お前のせいであの後全社員GPS管理になったんだぞ」
「辞めて正解だったぜぃ!」
「殺すぞ」
「クゥーン」
7月の生温い風に煙草の煙が薄く流れていく。可哀想だから、とはいつかも話した気がする。それは同時に昔の自分が哀れな人間だったと認めることにもなる。
「ていうか杉元達遅くね? コンビニすぐそこなのに」
「寄り道してんだろ」
「あれ? ……あっちの、パトカーじゃね?」
「マズいぞ。白石、明日子連れてすぐにアイツら迎え行け!」