短編 | ナノ

 はみ出し者のくせに常識からイマイチ外れ切れない尾形さんは、いつも始業よりズット早く出勤して終業よりどんと遅く退社する。だからたった一日の無断欠勤で大騒ぎになるのだ。二日目には死亡説まで流れ始めて、駆り出されたのが同じチームのわたしだった。

「え、生きてます?」

 普通女ひとりを見送るだろうか。宇佐美が面倒臭そうに、レイプされそうになったら
呼んでと言っていた。多分アイツのことだから助けを求めたところで大笑いしながら動画でも撮影して、そのままネットに流すんだろう。
 部屋の中でひょっとしたら腐りかけて、溶け出している尾形さんを想定して110番を準備していたのに床に転がっていたのは生体だった。

「ばあちゃん……?」
「失礼ですね、ミョウジですけど」

 いつもの土気色の顔と、覇気のないドロドロした目をしている尾形さんではない。お堅過ぎるぐらいに髪を固めて髭を整えて、ツンとした姿しか知らないので目の前の人間っぽいのが誰だか暫くわからなかった。声もいとけなく、乱れた髪が額に張り付いている。
 元々ベッドで寝ていたんだろうけれど、水を求めて落ちたんだろう。ローテーブルに置いたペットボトルが真横を向いてカーペットを濡らしている。ひとまずは水分補給をしてやらないと、冷蔵庫を開けても中には調味料とお酒が入っているばかりでしようがないので蛇口に手を掛けた。猫のキャラクターが愛らしいマグカップはこの人の趣味なんだろうか。

「お水、飲めます?」
「ストローないと、無理……」
「無いから口開けてください」

  倒れる尾形さんを仰向けに転がして、半開きの口をむけてそのまま水を注ぎ込んだ。狙いを外して顔や首に垂れているけれど一応飲めてはいるだろう。しゃがみ込むわたしの下で尾形さんが溺れている。咳き込む元気があるうちは人は死なないと思う。

「熱計りましたかー? 熱、聞こえてますー?」
「だれだ、あんた……」
「せっかく視力良いんですからちゃんと見ましょうか。ミョウジです、ミョウジ」

 真っ赤な目で尾形さんが見上げるけれど焦点が合っていない。キットもう3回ぐらい同じやり取りをするんだろう。汗ばんだ額は触れるまでもなく熱くって、しかし嘔吐の跡は無い。救急車を呼ぶには心許ない体調の崩しようで頭が痛くなる。
 部屋の隅まで飛び散ったスマートフォンは充電が切れている。恋人とか家族とか、いるんなら押し付けようがあるけれど残念な事にこの人は正真正銘の独り身らしい。緊急連絡先にあった029で始まる番号は現在使われていなかった。

「ばあちゃん、俺うどんたべたい」
「だからおばあちゃんじゃなくてミョウジですって。あーもうめんどくさい!」

 地べたに尾形さんを転がしたまんま、宇佐美に着信を入れたけれどワンコールで切られてすぐに写真が送られてきた。うわ、あいつ合コン行ってる。レイプされた? されてない。陰茎どころか上半身も起こせない相手にどう犯されるというのだ。
 鶴見さんも谷垣も奥さんの体調が優れないとか言っていたし、誰も頼れる人がいない。看病、しないといけないんだろうか。どうしてわたしが貴重な週末を尾形さんなんかに費やしているんだろう。

「仕方ないです、何か食べられそうなもの買って来ますから。鍵持ってっていいですよね?」
「ミロのみたい」
「はいはい、体温計も買って来ますのでお財布お借りしますよ。どこにありますか」
「鞄の、前ポッケのなか」

 ミロとかポッケとか、いつもの嫌味な尾形さんからはおおよそ想像がつかない単語が出てきて混乱する。このマンションの一階にはコンビニエンスが入っていて、道路を挟めばドラッグストアもある。この好立地でなければ宇佐美の合コン先に押し掛けたけれど、あのまま放って置いたら今の尾形さんは本当に死んでしまいかねないので仕方ないのだ。
 お財布には五万円も入っていたので、看病グッズと一緒に自分の夕飯も買ってしまった。エレベーターが戻ってくる。本当にわたしは、週末に何をしてるんだろう。

「戻りましたよー、尾形さん。生きてますかー」
「***? この前別れたばっかなのに」
「だからミョウジですって」

 倒れたまんま呼ばれたのは経理の女の子の名前だ。こんなところで職場の男女事情を知りたくなかった。来週からどういう顔をして会えばいいのだろう。
 何度言っても自己紹介をさせられて、ようやく尾形さんが水道水を滴らせたまんま、腕の力で身体を起こした。ナマエ? 首を傾げてわたしの目を眺めている。

「まあ、ナマエですけど……。ポカリ飲んでください。ストローも買って来ましたから」
「……ありがとう」

 この人ってお礼とか言えたんだ。
 ペットボトルにそのままストローを突っ込んで渡すと、彼は両手でしっかり握って少しずつ飲み下した。四分の一ぐらい口に含んだところで一旦咽せて、それからもうひとくち、満足したのか冷たいポカリがわたしの手元に返される。

「じゃあわたし帰りますから。動けるようになったらちゃんと病院行ってくださいよ」
「いやだ」

 立ち上がると抵抗を感じた。尾形さんがわたしの服の裾を引っ張っている。
 引き離せば解けそうな力具合が頼りなく、なんだかどうしようもないぐらい可哀想に見えてきた。捨て猫みたいに心細く尾形さんが喉仏を震わせる。

「ナマエ……、かえらないでくれ」

 嫌味と嘲りで出来ていると思っていた彼は案外人間だった。時給代わりの冷凍食品が手元で重く揺れている。普段のこの人と違ってわたしはひとでなしじゃないから、一緒に揺れた良心に倒れてしまった。
 一晩だけですと伝えて、なんとなく尾形さんの髪を撫でると彼は安心したようにすぐさま眠ってしまった。何をやっているんだろう、わたしは。



***



「ん……」
「あア尾形さん、起きましたか」
「ミョウジ? は、どうしてお前がうちにいるんだ」
「自分で帰らないでって言ったんじゃないですか」

 小一時間程テレビを見たり、宇佐美の合コン小噺(一人ひとりの写真を送りつけては顔面に点数を付けてメッセージを送ってくる、宇佐美は悪い人間だ)を聞いたりしていたら床の下の尾形さんが身体を震わせた。さむい、呟く声はまだしおらしい。

「俺がそんなこと言うわけねえだろ」
「わたしがひとりでに来るわけないじゃないですか」
「まあ、確かに……」

 難しそうな顔をしているところ申し訳ないけれどやっぱり今の尾形さんには正気がない。ただ素直にわたしの言葉を認めるような人ではないので、でもとか、いいやとか、口の中で疑問を噛み締めている。
 どうせ今はまともに考えることもできないんだから大人しくしていて欲しかった。さっきからこの人は、テーブルのペットボトルを取ろうとしているけれど全く違う場所をすかしている。あまりにぼんやりしていると遠近感が無くなる気持ちは分からないこともない。

「はい、ストロー要りますか?」
「いらん」
「あーあー溢してる! ジッとしててください!」
「さむい」

 毛布を被せてやっているのに、それでもこの人は文句を付けた。暖房を点けるにはまだ季節が浅過ぎる。コートとか、掛けてやりたいところだけどこの人の家の勝手なんて知らない。
 マグカップにポカリを入れて、ストローを挿してテーブルに置いたら彼は素直に口を近付けた。さっきよりは幾分まともに飲んでいるけれど、閉じ切れていない口の端から服の中に水滴が垂れている。あア、さっき水を引っ掛けたせいで余計冷たくなっているんだ。

「病院行きますよ。タクシー代は尾形さんのお財布から出します」
「いやだ」
「わがまま言わないでください。月曜日仕事なんですから」
「ただの風邪だ。ねてたらなおる」
「治らなかったから無断欠勤されたんですよね」

 肩を抱いて持ち上げた時あまりの高熱とシャンプーの匂いに溜息が出た。汗をあまりかかない体質なんだろうか。この人は多分、倒れそうなのに呑気にシャワーを浴びていたのだ。わたしも上司も、心配していたのに中途半端に余裕な様が癪に触る。女の身に体重を預けるこの状態でいくら悪態を吐いたところで何も響かないんだろうな。
 クロックスを履かせて、タクシーはすぐに拾えた。シートに座っても尾形さんは、相変わらずわたしの肩に頭を預けている。

「ご主人さん随分具合悪そうだけど大丈夫?」
「他人です。さっさと良くなるとありがたいんですけどね」

 うわ言みたいに尾形さんが、水、うどん、ミロ、さむい、欲望を繰り返していた。来週からどんな顔をして会えばいいんだろうか。このまま無断欠勤を繰り返して懲戒にでもなっていただきたい。
 病院でも奥様もどうぞとか診察室に通されたり、妻ならばもっと早くに病院に連れて来るべきだったとお叱りを受けたり、とても夕飯の冷凍食品では割りに合わないのでこの人が治ったら絶対に金銭を要求してやろうと思う。左腕に点滴針を突き刺され、やっぱり尾形さんはわたしの服を握っていた。



***



「食べます?」
「いる」
「……一本ずつ食べるんですね」
「ぬるくなったら二本食える」

 点滴の甲斐あってか尾形さんは少しだけ元気になった。
 夕飯として買っていたうどんを彼は恨めしそうに見ているので、半分寄越すと一本ずつ、大袈裟なぐらいふーふーと息を吹きかけてゆっくり噛み締めている。わたしが使っていた割り箸を彼は何ら躊躇わずに使って、これなら最初から小皿に取り分けてやった方がよかった。

「体調どうですか?」
「きつい」
「そうですか。ご飯食べられるぐらいには回復してあるんで、わたしそろそろ帰りますね」

 頭がボヤけているんだろう、ひとたび帰ると言おうもんなら子供みたいに裾を引っ張るのだ。いやだ、と、尾形さんが頼りなく呟いている。男女が逆ならば可愛らしいのかもしれないけれど相手はあの尾形さんだ。
 常日頃からわたしはこの人にこの世の嫌味の限りを放たれている。仕事が遅い、女は事務か接客でもしてろ、営業成績がちょっと伸びたらすぐに枕を疑って来る。だからわたしはこの人のことを特別視していたのに、ここにいるのはただの病人だ。

「……食べ終わったら薬飲んでさっさと寝てください。これ、粉の方が解熱剤で、錠剤が胃薬です」
「苦い薬はいやだ」
「いい大人なんですから我慢してください。飲まなきゃ治りませんよ」
「治らなくていい」
「仕事行きたくないんなら治して有休取ればいいじゃないですか」
「治りたくねえの」

 相変わらず一本ずつうどんを冷ましながら、尾形さんが吐き捨てるように言った。この人にこんな態度を取って頂きたくない。尾形さんは腹が立つぐらい無神経で、真面目で、嫌な人でなくてはいけないのだ。
 これ以上わたしの知らなかった尾形さんを見ていられない。顎の傷跡が、近くで見たら結構生々しいことやまつ毛が思ってた以上に長いことや、髪をおろすと途端に若く見えることも全部知らないままでいたかった。

「さっきから何言ってるんですか」

 尾形さんはもっと、完璧で付け込む隙の無い人間であって欲しかった。経理の***さんみたいな普通の女の人と付き合っているのはイメージに合わない。マグカップに猫がプリントされているのも、熱が出ると幼くなるなんて以ての外で、そもそも風邪ナンテ普通の人間みたいな状態になって欲しくなかった。

「治ったら、ナマエが帰っちまうだろ」

 尾形さんの手がわたしの腕を掴んだ。体温が高いのも想像と違う。わたしはズット前から この人の何を考えているんだかよく分からない様が好きだったのだ。
 何なら宇佐美の望み通り強姦でもされておきたかった。ドアを開けたら絶命しているか、フラッと失踪していて欲しかった。わたしの名前はそもそも知らなくて、普通じゃないような出自の女性と不倫でもしていて欲しかった。

「ずっと好きだった。どうしていいかわかんねえから、冷たくしちまってたけどずっと」
「それ以上喋舌らないでいただけません?」

 こんな人間っぽいところは見たくなかったのだ、わたしは。尾形さんに対して幻想を抱いていたのだ。尾形さんのような人が、そんな、普通のセリフで普通のわたしに好意を持っていただなんて知りたくもなかった。
 きちんと冷めたのか彼はうどんを二本ずつかじっている。どこまで本気なのか分かりやしないところは少しだけ想像通りで気持ちに整理が付かずにいる。あとひとつ、訳のわからないことでもしてくれたら簡単に陥落できるのに尾形さんはどうしてもただの人間だ。

「ナマエ、好きだ」
「失望しました」
「よかった」
「……はい?」

 水を置いてやったのにつゆで薬をやっと飲み切って、尾形さんが艶っぽく笑う。おいで、と言わんばかりに彼が腕を広げた。胡散臭いぐらいへたりと笑った彼からは何か少し危ない空気を感じる。
 ローテーブルをのけて、尾形さんの目の前に座った。彼の腕が力無くわたしを包み込む。耳元で満足そうな笑い声が響いている。高過ぎる体温のせいではなくって、恐怖と期待がない混ぜになった汗が背中を伝った。

「ナマエは冷たい顔してる方が興奮するんだ。ずっと俺のこと嫌いでいてくれよ」
「……だいぶ意味分かんないんですけど」
「自分でもわかんねえ、でも気持ち悪ィだろ? ナマエ、いつも俺と話すとき嫌そうにしてるから、それ見てたら気付いてたらこうなっちまってた」

 笑いを堪えられないのか肩を震わせて、尾形さんが上機嫌っぽく喋舌り続ける。別にマゾヒストという訳でもなく、他の誰かと付き合いながらもわたしのことを目で追っていたとか、水を引っ掛けられた時に結婚したいと思ったとか、終始距離を取っているのがたまらなく愉快だったとか、頭が少しも追い付いてこない。
 ベクトルは随分外れてしまったけれど、期待していた通り尾形さんは訳が分からない人である。彼につられてわたしも笑った。二人で笑っていたら隣の部屋から壁をドンドンと叩かれてしまった。

「なあ、帰らないでくれるよな?」
「だったら帰りませんよ。毎日変態謗ってあげますから」
「ははッ、そりゃよかった」

 わたしも好きだとは言ってはいけない。それがとても、苦しいけれど尾形さんが楽しいんなら良いかもしれない。
 飲んだフリをして床に巻いていた粉薬でも舐めさせてやろうか。言ったらそれは違うと真顔で彼が拒絶した。塩梅がわからないけれどそんなものこれから何年も何十年もかけて模索したらいいのだ。

「尾形さん、熱下がってませんか」
「お前の熱が上がっただけだろ」

 頭もオカシクなる訳だ。身体が、怠い気がする。こんな短時間で、きっと思い違いだけれど尾形さんから風邪を貰ったんだ。最初のプレゼントが病って、それすら煌いて見えるのだからわたしはもとより病気なんだろう。

「本当迷惑だからマスクぐらいつけていただけませんか」
「弱ってるナマエが見てみたい。思いっきり冷たくしてやるから」
「尾形さんって何考えてるか全然わかりませんね」

 自分でもわからないと彼は嬉しそうに繰り返す。顔は赤くて呂律は回っていないし、今にも倒れそうな彼はいつもよりも素敵に映った。自分の身体のどこかで、よくわからないけれどドロドロしたものが破裂するような音が聞こえる。感情が溢れた時ってこういう感触なんだ。
 知らない事が増えていくのが心地良い。尾形さんは虚な唇で何度もなんども、好きだと囁いた。破裂音を掻き消して頭の中が書き換えられていく。


20191030

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