短編 | ナノ

この世界に生まれて来てここまで幸福な瞬間があってたまるものか、とわたしは考えている。コレには恐らく巧妙な罠が仕掛けられていて、わたしは、まんまと黒幕の術中に嵌められようとしているのだ。そうだとでも考えなければ納得出来ないような状況に出くわしていると言うのに、コノ人と来ら、いつもと何ら変わりの無い笑顔を貼り付けたまんま涼しく座っている。わたしはひたすら「あ」とか「えー」とか、情けない声を上げるに留めていた。


これから私は多分死ぬのでそのままにしていて下さい


事の始まりを語り出したら数年単位の話になるから省くとして、わたしは明後日が誕生日である。ただし平日であるが為に便宜上行われた誕生日パーティ(参加者はなんとわたしを入れて二人だけ!)で世の中の快楽の限りを尽くしていた。というのはゲームセンターの無意味なメダルゲームで出た大当たりであったり、夕食に寄ったさして高価でも無いビストロであったり、はたまたその後流れるがままに行き着いたカラオケであったりと、一日中遊んだ充実を噛み締める為の行為である。
酔いが覚めてわたしは、自宅まで45分とあるにも関わらず徒歩を所望した。彼は眠そうな顔すら見せたものの否定はせずに、わたしの腕を持つように歩き出す。人混みの中は危ないからと小脇に右腕を抱えられ、歩きにくいと言ったら無かった。
それでも秋の夜風は柔らかくて、若干汗ばむ歩幅の短いわたしに併せるように、彼は一直線にコンビニに寄っては酒を買い、店を見ては次はどこに行こうと話したり、件の公園に至るまでに4,50分が経っただろうか。扁平足の痛みにベンチに座るわたしを尻目に、彼は今日で一番強い酒を煽っていた。

「雨、降りませんでしたね」
「晴れ女だし」
「今日は降らないと決まっていますからね」
「天候調査の情報ってハザマさんまで上がってきているんですね」
「まあ、はい」

彼は大袈裟に溜息を吐いて空を仰いだ。風の無い背景はどこか蒸し暑くって、数日前に感じた秋はどこかに消えている。
ハザマさんは、いつもの帽子をクルクル指で回しながら今日あった出来事を回想した。最初に立ち寄った店には子供が多かったとか、夕飯は思いの外コストパフォーマンスが良かったとか、そうそう、ディナー前の暇潰しが殊の外上手くいってこれ程愉快なものはなかったとか、一つ一つは経験していなければ少しだって嬉しくも無い話ではあるが、わたしは彼の登場人物である。
一日そこいらの思い出話は深いところまで進んで、ついには初めて会った時から自我を持つまでに遡り、幼少期の彼を垣間見たわたしは「コレも人間なのか」って身の丈も弁えず感心したり優越感に浸ったりしていた。
空は白むには早く、街明かりは暗闇を作るには明る過ぎた。
19時と呼んでも差し支えの無い気圧の下で、わたしは彼の顔と雲とを交互に見つめていた。次第に彼はいつも以上に畏まり始めて、ソンナ中わたしは誰にも負けない程度には胸を躍らせている。
ハザマさんと一緒に暮らし始めて早いもので一年と半分が過ぎようとしている。その間わたしはどこに行ってもミョウジで、ハザマさんはハザマさんだった。面白い程に話題は尽きず、浮浪者が集まり始める公園の片隅を視界の外に追いやってわたしはひたすら明日の予定を考えている。

「そういえば」

ハザマさんが何かを切り出す時はわたしは一応警戒している。セカンド・バッグを漁る彼の指は月と街灯りに反射していっそう艶かしく見えた。
実の所わたしは概ね知っていて、それが彼の自信喪失に繋がるんでは無いかと気付かないフリをしていた。とは只の言い訳で、自分自身が気が付かないでいると聞かせて失望しないように保険を掛けていたに過ぎない。小難しい事をやたらめむたら考えてしまうのは昔からの悪い癖だ。このイキサツすら語り始めたら長くなるので省くが、ある程度の期待とそれを受け止める絶望の準備は出来ていた。
彼はセカンド・バックからうやうやしく小箱を取り出した。誕生日プレゼントです、添えられた言葉の重みに応えるに充分な、重厚な銀細工が光る。
中央は長方形の文字盤で、それを巻き付けるバンドは白金たらしい仰々しい光を放っていた。見るに素敵な時計は22日で時間が止まっている。頭の中。期待が締めていくのを、わたしは必死に押し殺している。

「着けて下さいよ」

軽々しい言葉に相応しいぐらい気取らない手付きで彼は時計をクッション材から外す。左手首に巻き付けられた上品な逸品は、しかし手首の直径を大きく上回っていた。
かと言ってこの街灯りと月の燈に過不足は無く、わたしは手首を目一杯空に掲げる。ズッシリとした重量感が心地良い。この世界の光という光を拒絶するような白金の輝きはわたしの心を緩やかに融かしていく。

「円いのより角ばってるのが好きって話たっけ」
「初耳です、本当に」

ならばどれかは嘘だと言うのか。とか下賎な勘繰りは置いて、彼は普段薄い目蓋を見開いて深呼吸した。ホームレスが時折イビキをかく以外は静寂な、中途半端な空間にわたしとハザマさんの間でだけ緊張が走る。

「明日もうちょっとだけ締めて下さい。わたし、なんか壊しちゃいそうで怖いし」
「家に帰ったら調整しますよ。気に入って頂けたんなら」

嬉しいとはわたしの言葉なのに、ハザマさんは全部を遮って有難う御座いますと砕けて笑った。手首ではなく最早腕に落ちた時計は相変わらず止まっている。
それからハザマさんはわたしの注意を惹きつけた。薄明るくてもこの人は綺麗だ。わたしには到底勿体無くて、恥ずかしくなって目を反らすが彼と言えば依然真剣な表情をしている。

「この時計が動かなくなっても一緒にいて下さい。……結婚して下さい」
「え、えー」

気が付けば何だか涙が出ていた。若し言われたらコレを返すとかアレを伝えるとか様々考えていた癖にわたしときたら、気が付けば何にも言えないでただ感嘆符を並べるだけであるのが情けない。ハザマさんは酷くいつも通りを繕っているのに表情は平時と変わらないで、ソレが無性に悔しいので笑って見せる。しかして涙腺はボロボロで、走馬灯すら見えてしまう。

「あの、え、えーっと、わたしでよければよろしくお願いします」

コレは恐らく何かの間違いであって罠に違いない。買って数十分経ってしまった酒はとうに緩くて気も抜けている。
アルコールの塊を補給してわたしは酔えないまんま笑っていた。人生は明日から変わるのか今からなのか、ひょっとしたら一年後かもしれないけれど、コノ人と一生添い遂げるって言うことは変わらないので安心して歩くことが出来る。
月灯りは雲居に隠れてしまった。時計だけが宝石宜しく輝いて、陳腐だけれど仕合わせだなアと考えている。


20180925

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