※ちょっとだけグロテスクかもしれない
ついにナマエを手に入れることが出来たというのに俺の気持ちは少しも晴れないで、今までずっと生きてきた日陰の、ジメジメした、場所に取り残されている。片腕が引き千切れて痩せ細った彼女は死んだような目を見開いて俺を眺めていた。彼女はまだ若い。きっとあのまま生きていたら縁談話にも恵まれて、子供の三、四人拵えて、可も不可も曖昧なまんま大団円を迎えていたんだろう。
「なあ、また俺のこと呼んでくれよ。百之助って呼んでくれる奴、お前ぐらいしかいねえんだよ」
光は無いのにギラギラとした、彼女の目玉はひたすら虚ろに宙を泳いでいる。時折俺の瞳孔を射抜いては眉を顰めて、反抗的な態度に眩暈がする。
「尾形……」
「そうじゃねえだろ。ほら、呼んでみろよ、百之助。まだ分かんねえのか?」
「ぅ、ゲホッ……痛、い……」
「んだよ、意味の有ること言えんじゃねえか」
こんなことならば左脚も折らなければ良かった。鋸で断ちかけた膝から下の止血なら済ませてあるが、このままならばきっと破傷風になるんだろう。彼女を囲うためだけに見繕った廃墟に薬なんて都合良くある筈も無く、もうそろそろ潮時だ。
だからこそ急がなければならないのに、目下ナマエは思った通りに動かない。虚ろっぽい視線を歪めて俺を睨んで、その他には虫のような息を荒げるばかりだ。
「この期に及んでまだ勇作さんのことでも考えてるんじゃねえよな。あの人は死んだ。俺が後ろから撃ち抜いてやったんだよ。死んじまった奴に操を立てる程お前は高潔な人間か?」
「返、して」
「おいおい、俺は神でも何でも無いんだぜ? 馬鹿なこと言う暇があったら呼んで見せろよ、俺のことをよぉ」
縛り付けている訳でも無いが当然一歩も動けないナマエに近寄って、頭を踏んで見せる。顎が割れるような音がした。そこまで酷くはしていないつもりなのに彼女は一丁前に呻いている。なんとなく全裸に剥いた肢体からは有りっ丈の水分が至る形で漏れ出ていて、血なのか体液なのか分かったものでは無い汁が、僅かに差している月明かりに反射している。眩しい。
「どうして……ですか」
「ナマエが悪いんだろ。誰から頼まれたのか知らねえが期待させやがって、これだから女は信用なんねえんだ」
「わたし、何もしてません」
「カマトトぶってんじゃねえ。そんなに殺されてえのか?
「本当に、わたし……何も」
「黙れ」
右腕の断面を爪先で詰ると彼女は嘔吐しながら絶叫した。痛覚がハッキリしている内はまだ死なない。
戦場でいくらでも観てきた人間の生へのしぶとさには感服する。気狂いになった母上も、腹を斬りつけた父上も、結局最期の方は抵抗すること無く痛みも苦しみも受け入れて目を閉じた。ただ勇作さんだけは俺を振り向いていたのだ。
思い出せば都度に頭の奥が痛み出すのだ。人を殺すのに罪悪感があるならばこういった時胸が苦しくなる筈である。つまりは俺は、何ら、何も感じていない。
「どうしたらよかったんですか……、わたしはあなたを愛せません」
「だから勇作さんのことも殺してやったんだろ。お前の家族も、友人も、全部殺したんだから、俺のことが一等になってもおかしくねえのに」
「あなたは間違って、います」
「何も間違ってねえ」
勇作さんがその日連れて来たナマエは、俺の目を見て俺の名前を呼んでくれた。生まれて初めて名前を呼ばれた。婆ちゃんですら俺のことは名前で呼ぼうとせず、百之助なんて大層な名前は書類に記入する他使い途が無いものだと思い込んでいた。
出会う順番がただ間違っていただけで、ナマエはきっと俺を愛してくれる筈だったんだ。そんな彼女は今や臓物を散らして目玉を片方落として、掠れる喉で呼吸だけを浅く繰り返している。
「俺はこんなに愛しているのに」
やがて息もしなくなって、肉の塊みたいに成れ果てた彼女は最後まで俺の目を怨めしく睨んでいた。けれどナマエは一瞬だけ、慈悲深く涙を流したのだ。
絶命したナマエの唇を喰むとまだ微かに温かかった。彼女が俺を愛してくれることを信じて手を汚したのに、どうして俺は報われないのだろう。
20190922