短編 | ナノ

ハザマさんがいなくなってしまった。

歯ブラシとか、下着とかハザマさんの食べかけだったチョコ菓子とか、全部あの日のまんま残っている。情けないことにわたしは何ひとつ理解できずにいた。元々オカシナ人だったから、たとえば猫みたいな気まぐれな人だったから、いつかこうなるんじゃないかとはわかっていたのだ。心構えならできているって思ってたけれど、本当に帰ってこなくなってからわたしは酷く弱っていた。精神が脆くなるとご飯が食べられなくなって、身体まで衰弱して、このまま飢え死にでもするのかなあと思ったら目の前が真っ暗になった。ビタミン不足のわたしは夜目が効かなくなった。

「いってきます。次はいつ帰ってくるの? 今回の仕事は長丁場になりそうですので、帰ったらシチューが食べたいです。頑張ってね、待ってるから」

カセットテープみたいに呟き続けている最後の会話も思い出に補正がかかって、本当にそんなことを喋舌ったのかさえわからない。ただわたしはあの日から時間を繰り返しているみたいに毎日シチューを作って部屋の鍵が開くのを待っている。これを食べられればいいのだけれど、ハザマさんのいない世界に味は無かった。
毎晩馬鹿みたいに身体が熱を帯びて、ハザマさんのくれた言葉を反芻しては泣きながら夢に逃避している。ハザマさんは夢の中にさえ帰ってこなかった。ただ真っ暗な部屋にわたしがひとりだけぽつんと座っていて、呼び鈴の音に目が醒める。起きても誰もいない。ポストがカランと鳴る音に飛び跳ねても入っているのは公共料金の明細書とか、宅配ピザのガラガラなチラシだけだった。

「ただいま帰りましたってね、いって欲しいのに。あーあ、いつまでこうしてるんだろうね。死んじゃったのかなあ。そんなばかな」

声の出し方をわすれないように、暇つぶしに一人で思ってることを口にする。何回目かわからないハザマさんの追悼式をした。拝啓、ハザマさま。そちらの天気はいかがですか。わたしの世界はあなたがいなくなった穴を埋められずに、いつも雨ばっかり降っております。悲劇のヒロインぶっている。夕飯の材料とそれをいれるゴミ袋を買いに外に出た。ふらふらの足取りは何回も車に撥ねられそうになった。ここでもし死んでしまえたら行く果ては天国だろうか。そこにはハザマさんはいるんだろうか。
パーカーをドアノブに括って首を引っ掛けても、寸でのところで勇気が出なくてわたしは一人で死ぬこともできない。いつかハザマさんが言っていた。あなたが死ぬ時は私があなたを殺す時です。ハザマさんがわたしを殺したんだ。わたしはハザマさんがいなかったらあすをいきられない。
いよいよ歩いているのも辛くなって、起きていても視界が不意に真っ黒になる。脳に血液が回ってないみたいに、頭は締めつけるように痛んだ。呼吸は浅くて眠ってもすぐに起きてしまう。それなのに夢ばっかり見て、もしかしたら起きた時隣にハザマさんがいるんじゃないかって期待して目を閉じる。最近は毎日そんな感じだ。冷蔵庫の中でチョコ菓子が小さくなっていた。目が覚めて、いつもと違ったのは隣に知らない人がいたことだった。

「(ハザマさんのにおいがする)だれ?」
「誰だろうな」
「ハザマさん?」
「そんなに会いてぇの?」
「ハザマさんがいないと死ぬ」
「じゃあ死ね」
「どこかで生きてるはずなんです」
「奪っちまってごめんな」
「殺してやる」
「うわー冗談に聞こえねー」

その人はわたしに背中を向けていた。どうやって部屋に入って来たんだろう。泥棒さんだったらえらいことだけれど、久しぶりの体温にひどく安心した。酸欠の脳のせいで思考回路が朧げで、知らない人の声がハザマさんのそれに聞こえてしまう。キット今のわたしは外に出たら皆がハザマさんに見えてしまうんだ。

「ちゃんとメシ食えよ。そしたら戻って来るかもしんねぇから」
「ハザマさんがいないと食べられません」
「弱ってるテメェを見るのが嫌なんだってよ」
「じゃあ食べる」
「よしよし、聞き分けの良いガキで手がかかんねぇわ」

後ろを向いたまんまの知らない人がわたしの頭を乱暴に撫でた。気持ちよくって、目を閉じたらそのまま気絶するみたいに寝てしまったようだ。次に起きた時隣はいつも通りの空席だった。夢を見ていた。だけれどご飯を食べてみようと思った。
三食食べて、きちんと外に出て眠って、規則正しい生活をしていると明るい気持ちになれた。夢の中の知らない人が命の恩人になったなア、ナンテ考える余力ができた頃に、鍵の開く音が聞こえたのだ。

「ただいま帰りました。遅くなってしまい申し訳ありません」
「お、おかえ……り」
「あれ? もしかして迷惑でした?」
「ううん、今度は本物?」

山吹色のフードを取り払って、見えた緑は確かにハザマさんだった。夢じゃないかって頬をつねったり目を閉じて深呼吸をしたり、それから身体に触れてもやっぱり待っていた人だ。何回もこうやって、帰って来る光景が夢の中に現れたんだ。現実だと気付いても意外にも自分は冷静でいて、歓喜の言葉も恨み言も出ないでただちょっと、一、二時間帰宅が遅くなった時みたいな顔をしてしまう。

「約束でしたからね」
「夜ご飯シチューだよ」
「偏った食事をするな、も付け加えておくべきでしたね」
「その服趣味悪いです」
「私もそう思います」

ハザマさんが帰って来ない間にわたしのシチューの腕は格段に上がってしまった。冷蔵庫の乾涸びたチョコ菓子をゴミ箱に投げ捨てて、わたしは現実を噛み締める。



20151104

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