短編 | ナノ

小指の先から溶けだしてしまったのだ。


1.
「ナマエさん、大佐に提出する書類をお願いできませんか」
「ごめんなさい、わたし指が無くなっちゃって」
「ああ、そうでしたっけ」

手を洗ったりシャワーを浴びたりする度に、彼女の身体は少しずつ水に溶けてしまうようになった。ずるずると剥がれるように身体が水に流されていって、今のナマエさんには利き手の指と腹部が半分無い。指の先から溶けたんだからってここからなくなるわけではないんだね、とか笑っている顔もおそらくそのうち排水溝に消えるのだろう。

「食事ってできるんですか?」
「うん、小腸とか半分無いのに漏れないし」
「不思議なものですね」
「最近膝も溶けちゃったけど足って普通に動くの」
「不気味ですね」

ナマエさんの身体が溶けて消えていくことについて驚くほどすんなり受け入れられたのは、おかしな事柄に慣れてしまった自分だけでなく当の本人があまりに呑気なせいでもある。断面図の無い手を出して、指輪が付けられなくなったことを憂いている。もっと先に気にするべきことがあるのだろうが、彼女はあくまで平然としていた。

「それでしたら、チェーンでも差し上げましょうか」
「ありがとう。あの、通してかけてくれない?」
「ああ、片手では不自由ですものね」

彼女の細い首にまとわりつく髪を払って、耳朶が欠けるように無くなっているのを見てしまった。ピアスを空けたいと話していたことを思い出してもどかしい気持ちになる。こうして少しずつなされる変化に彼女自身が鈍感である程度に、身体が消えていくことは日常の些細な出来事だった。

「帰ったらご飯作るよ」
「洗い物は私がしますので」
「嫁想い!」
「夫になったつもりはありません。食器を割られるとたまりませんからね」
「びっくりしたねー、洗ってる途中に親指無くなっちゃったの」
「溶けた部分はどうなるんですか?」
「水じゃないの?」

その日のだし巻き玉子はそれでも四角く象られていた。時間は前の何倍もかかっていて、台所は荒れていたし、それでもほんのり塩のきいた薄味は変わらないままだった。


2.
「お暇をいただこうと思って」
「病院には行かれましたか?」
「ううん、だってこんなの、どっこも取り合ってくれないから」
「それでは休職の手続きは難しいですね。いるだけで構いませんので」

不恰好な皮の手袋の下にはいよいよ掌すら無くなっている。机の上でぺしゃりと潰れる様子がどんどん広がっていった。多忙にあれから一度も彼女を抱いていないが、服を脱がせると、もう腹は一部と言わず全部、この身体を繋ぎ止める役割もしていないんだろう。

「頑張り過ぎだよ、休憩休憩」
「それでは手が空いたら肩でも揉んで頂きましょうか」
「手なら空いてるよ。ばーん」
「向こう側が見えますね」

歯を使って取った右掌には綺麗な丸い穴が空いていた。そこから見える景色が青くて、なんとなく綺麗に見えてしまったのだ。


3.
「ハザマくん、今日ね、お母さんが来たの」
「身体のことは何か言われましたか?」
「ううん。お母さんね、何も気付いてないみたいにしてるの。わたしお風呂上がりだから全部見えてたはずなのに」
「脱衣所で服を着ろとあれほど言いましたよね」
「あっ、ごめんなさい」
「もし来たのが見知らぬ男だったらどうするおつもりですか!」
「でもね、うちオートロックだから」
「同じマンション内に不審者がいないとも限りません。もっと自分のことを大切にして下さい」
「ハザマくんって過保護」
「当然のことを言っているまでです。最近物騒ですし、いつでも私がいるわけでは」
「それでね! お母さんが」
「ああ……そうでしたね」
「お母さんが、彼氏さんにっていっぱい卵持って来てくれたの。産みたての」
「ありがたい! 今度こそご挨拶しなければなりませんね」

彼女の家族には会ったことが無かった。彼女は穴だらけの人間だ。履歴書は嘘だらけで、唯一本物の名前ですら綴りを間違っていたのだ。もしかしたら彼女も私と同じようにいるはずのない存在なのかもしれない。こんな百年前にポンと現れた世界でそれを否定する術など誰も持たないのだ。
しかし母親なる人物は実在するらしく、であるが家族写真の彼女以外の登場人物は綺麗に全員分虫喰い穴が空いていた。わずかながら見える髪色は皆彼女のそれと同系色だった。不自然な穴の周りにある筈だった現実が、彼女をミステリアスに彩るのだ。その日ナマエさんは片脚を失った。けれども問題なく歩くことはできるのだという。


4.
「ナマエさん、その……」
「ダメ。だって無いから」
「ですが」

見えるところだけ見れば彼女は彼女なのに、夜が夜ではなくなった。しかし彼女は無い舌を絡ませるようなキスをする。口をゆすいでいる時についに舌が欠けてしまったらしいが、お喋舌りも食事もなにも差支えないのだ。ひょっとするとこれは悪い魔女がナマエと共謀して自分に見せている幻なのではないかとも思う。ただ巧妙に外見を繕うものだから確認のしようがないのだ。

「今穴だったらあるだろって思ったでしょ」
「そんなことはありません!」
「でもね、キスはしよ? できるうちにしとかなきゃ今みたいに後悔するから」

それから彼女は写真を撮ってくれとせがんだ。理由なら手に取れたが応じてやることが出来ない。その理由も彼女は解っていたようで、それでもカメラを首から提げて、そのうちにごとりと指輪と一緒に落として壊してしまった。髪はしっとり濡れている。年中快適さを保つこの都市の気温が、ほんの少し上がったのだ。この時だけが彼女が溶けてゆくことを恐れる会話をした日だった。


5.
砂埃が舞う風の強い日だ。こんな日に外に出すべきではなかったと今なら後悔できる。ねエ、目薬をちょうだい。彼女はあまりに平静なのだ。差しますよ。ポタリと薬液が彼女の瞳を潤し、そしてスルリと目玉が涙と一緒に零れてしまった。

「ナマエ、さん! 痛くはありませんか!」
「痛い? ううん、もう片っぽがあるから」
「帰りましょう。それから、もう……」

こうなることを予想していたかのように、涙が溢れて頬を伝う瞬間に髪で片目を隠してしまった。しかしどんなに俊敏でも、覆い切れない、隙間、から、心底恐ろしい事案である。
彼女の身体は溶けて流れてしまう。知識として知っていたことで、その馬鹿げた話は結果を見ることですんなり頭に入ってきた。けれど目の前で現実として、いとも簡単に身体の一部が溶け出す様を見たのはこれが初めてだった。

「帰るんでしょ?」
「ナマエさん、レリウス大佐に診て頂きましょう。あの人ならば何か知っているかもしれません」
「あの人苦手だよ」
「ナマエさん!」
「もう間に合わないって。今日は何食べようかなあ」
「いい加減にして下さい!」

私の怒声にナマエさんは大きく肩を震わせた。

「自分の症状が異常だと何故焦らないのですか! 毎日毎日身体の一部が無くなって、どうしてもっと悩まないんですか!」
「お医者さんになら行ったよ、でも何も言われなかったって話したじゃん!」
「だからレリウス大佐にと言ったのです!」
「あの人ならなんとかできるかもしれないけど何にもできないかもしれないよ。それに悩んでないわけじゃないの!」
「だったらどうして笑っていられるんですか……」

彼女はいつも笑顔だった。出会った時から今までずっと目を細めて嬉しそうに楽しそうに笑ったままだった。上目遣いの目蓋の縁に溜まった涙をティッシュで拭って、しかし腕は振り払われてしまった。

「ハザマくんなんて知らない!」

走り去る後ろ姿を追い掛けることができなかった。


6.
ナマエさんと顔を合わせなくなって数日が経つ。数少ない休暇が折り重なって、本当ならば帰ったらどちらかの家にどちらかがいる筈だった。レリウス大佐は連れて来いと言ったものの、人が溶けるなんてあの異形の化物でもあるまいし丸切り信じる様子を見せなかった。小指の先から溶け出してしまったのだ。そうして幾月か過ぎて、少しずつ彼女は水の中に消えている。
デスクの上に無造作に置かれた封筒を見つけたのは帰り掛けのことだ。二枚の便箋の冒頭にあった明後日22時に公園で、そこまで読んで荷物をまとめた。短針は8と9の間にあった。

その公園は私の家と彼女の部屋の丁度真ん中にある小さな、遊具はブランコしかないような粗末な広場だ。特に思い入れがあるかといえばそんなこともなく、ただ恋人になる前にはよくここで別れた場所である。分厚い雲が月明かりを遮っていた。藤棚の下のベンチに腰掛けて、私は彼女を待っていた。焦る気持ちを抑えようと、イヤホンをかけて趣味でも無い重たいバンド音楽を流しながら目を閉じる。彼女がいつも笑っていたのはきっと私を気遣っていたのだ。穴だらけの経歴は気にならなかった。しかし溶け出す彼女を見ていると、実はナマエさんなんて最初から存在しなかったような気持になってくるのだ。まるで自分のように。

「お兄さん、ちょっと」
「あ……ああ、私ですか?」
「もう12時だよ。こんな所で何やってんの? 身分証は?」
「私、統制機構大尉なのですが……」

いつの間にか眠ってしまっていたようで、自警団の声掛けに目を覚ます。彼は私が統制機構の人間だと知ると慌てた様子で敬礼をして立ち去って行った。12時。ハッとして辺りをいくら見回しても自分以外の人間がいない。
彼女の家の方角になんて向かわなければよかったのだ。地面が濡れていた。コンクリートの凹みには泥水が溜まっていて、郷愁を誘う湿気のにおいが走る自分の鼻についてくる。
もう、角を曲がれば彼女の住むアパートに着くのだが、私は道を引き返して家路を目指していた。ひどい雨が降って来たのだ。濡れて風邪を引いてしまってはいけないし、やはり彼女の家になんて行くべきではなかった。
行きには気が付かなかった、道路の右端に転がる傘を拾い上げると、破れた穴から信号機の点滅する赤色が射し込んできた。ポケットの手紙はインクが滲んでいて読むこともできない。

「今日は雨だ」

再確認するように水溜りを踏み鳴らす。聞きたかった言葉も読みたかった台詞もすっかり流れて、ただ存在だけはまとわりつくように乾かなかった。


20151031

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