短編 | ナノ

メロディ

夕焼け空にサイレンの音が響いている。田舎の文化に、まとわりつくような郷愁を感じた。自分には何も無いはずなのに、本で見知った知識が引っ張り出されるように、不意に、当たり前の感情が胸の奥から吹き出してくる。
実験室で生まれた自分に何がわかると言うのだろうか。ディーエヌエイに刷り込まれた欲求に身を任せるのはヒトのフリをするのにとても都合が良かった。腹が減るから仕事をして、月に一度増える貯金残高に一喜一憂する(尤も過不足の無い支給が約束されているので、収入の少なさに落胆することなど無いのであるが)。つまらない。そんな言葉が出てきたのは生涯の誤算だった。

「お兄さん、ちょっとそこの。こんな時間に何してるの」
「私のことでしょうか」
「そう、あなたです。身分証出して」

落ちかけた夕陽はその女性を照らし切れなかった。頭一つ分背の低い彼女は、ふんわりとしたワンピースに、身体に合わないぶかぶかのカーディガンを羽織っている。見た目なんてとてもやわらかそうなのに、つっけんどうな物言いで私に詰め寄ってきた。

「身分証と言われましても、生憎そのようなものは携帯しておりませんので……」
「そんなはずないでしょ、免許証とか保険証とか、ナンニモ持ってないっていうの?」
「ええ。職業柄」
「……、言いにくいけどすごく怪しい」

職業柄というのは本当半分だった。確かに諜報部なんてところにいたら、安易に身元のわかるものを持っている訳にはいかない。しかしそれとは別に、私は自分自身を証明する物を持たなかった。名前という名前は無いし、かろうじてある誕生日もその日に意味があるのか怪しいものである。紙一枚で己が何者か証明できるのならばそうして欲しいものだ。

「この辺にね、最近通り魔が出るの。だから知らない人ってとっても怖いんだけれど、あなた、一体どこからきたの」
「困りましたね。私、これでも一応統制機構の人間なのですが」
「えっ、あの?」
「諜報部大尉のハザマと申します。何なら本部に確認を取られても構いませんが」
「へー、あア、そんな」

女性は決まりの悪そうな対応を見せて、それから頭を下げた。申し訳ありませんと一言敬礼をして、返された踵が儚かったもので、気付いたら私は彼女を呼び止めていた。

「通り魔が出るのでしたら、あなただって危ないですよ。よろしければご自宅までお送りしますが」
「結構です。すぐ近くだから」
「一般市民を護るのも私どもの勤めですので」
「でも、知らない方ですし」
「それはお互い様ですよ」

有無を言わせず彼女の足取りをついて行く様ときたら、質の悪い輩のようでいい気はしない。すぐ近くだとか言いながら彼女の家は歩いて三十分以上歩いたところにあるといった。
どうやら喋り好きである彼女と、見掛けによらずの饒舌が謳い文句の私が意気投合するのは時間の問題だった。次第に日は完全に谷底に沈んで、代わって月明かりが彼女のカーディガンを光色に濡らしていく。街灯が無い世界の最後の曲がり角で、彼女は確かに笑っていた。

「わたしね、友達が通り魔に殺されちゃって。だからこうやってパトロール」
「ご苦労ですね。警備を強化するように伝えておきますよ」
「よかった」

友達とかいうのが嘘であることなら人生経験に乏しい自分にもすぐわかった。彼女は背格好に合わないカーディガンにほんの少しでも虫がつくとすぐに払うし、右腕の腕時計はゴツゴツしている。月にたまに左の薬指の指輪が反射した。
辿り着いたアパートはワンルームっぽく部屋がひしめいている。ここまで不釣り合いを見せ付けられて、どうして彼女の話を素直に受け止められると言うのだろうか。

「よかった」
「前に進まれてはいかがですか」
「まだ難しいかな」
「つい先程お会いして、まだお名前もお伺いできておりませんが、私には貴女はとても素敵な女性に見えますよ」
「ミョウジってなるはずだったの」
「私に名前があるのならば貴女に差し上げたいのですが」
「やっぱり怪しい人ですね」

彼女は後ろ暗く笑った。その微笑だけで、私の生涯の誤算は夜の黒に消えていった。


20150902

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