短編 | ナノ

わたしの頭の悪さならあなたはよく知っているじゃありませんか。脳天に重いげんこつを貰った。脳震盪でも起こすんじゃないかと思ったけれど、わたしって結構頑丈に出来ているようだ。
彼は何にも話すことなくツカツカとわたしの前を歩いている。ハイヒールは歩幅の広いテルミさんを追い掛けるには向いていなかった。それでもたまに立ち止まって、でも振り向かないでわたしの足音を待ってくれる。それがどうしようもなく申し訳なくて、涙が服を濡らしていく。

空が白んでいくのが嫌だった。昼と夜が逆転している。テルミさんとの生活が合わなくなったせいだ。全部この人のせいなんだ。世界を救うため、とか正義の味方みたいなことを言って、テルミさんはわたしを置いていく。スニーカーを履いても裸足になってもテルミさんには追いつけなかった。だったらわたしは逆方向に走るだけだ。もう二ヶ月も前からこんななのに、今更何なんだって悪態をついてもテルミさんはわたしに合わせてはくれなかった。

「もうこんなのやだ」
「あっそ」
「テルミさんは?」
「お前がいなくなる方が嫌」
「だったら離れないでよ」
「無理」
「じゃあいい」
「ガキかよ」

テルミさんの見えない首輪が、その足取りを明後日の方向に走らせる。やっと振り向いてくれた彼は悲しそうな顔をしていた。



霞む背中を掴みたいんです



ナインはわたしをテルミさんから、できるだけ遠ざけたいようだった。トリニティと四人でお茶をする回数もめっきり減ってしまっている。一人でこのカフェでココアを飲んでいると、騒々しく現れた三人となんとなく気まずくなるのにも慣れたものだ。
そういう時トリニティだけはわたしと同じテーブルについてくれるけれど、この子がいなかったらわたしは空気になってしまうのだ。

「この間何してたのよ」
「(二人で会った日のことだろうな)」
「俺様が何しようが勝手だろ」
「あんた、自分の置かれてる立場が分かってないの? おかげでこっちは大迷惑したんだから」
「はいはい悪かったな。大魔導士ナイン様」
「ナマエ」
「え?」

さっきまでわたしなんていないみたいにしていたのに、ナインは怖い顔でわたしを呼び付けた。なんでも持っているナインは、わたしからなんでもとっていってしまう。

「この男と関わるのはやめなさい」
「やだ」
「これは命令よ。ナマエのことを心配して言ってるの」
「……やだ」
「じゃあテルミ、あんたがナマエに関わるのをやめなさい」
「クソ、言われなくてもそうするよ」

テルミさんの物分かりの良さにわたしは失望してしまったんだ。話してみると結構優しいところとか、見掛けによらずよく喋舌るところとか、それだけじゃなくてこの人の全部が好きだった。ナインはわたしからなんでもとってしまう。残ったのは劣等感だけだった。

お酒を飲んだのはその日が初めてだった。追い出されるかと思ったけれど、こんなガラの悪い店に秩序なんてない。ふらふらになったわたしは流れのまんま知らない男の人に連れ去られて、それから毎日のようにこんなふしだらな生活を送っている。
外からはクラクションの音が聞こえた。低い声が喧嘩をしていたり、窓の外では女の人がまたわたしみたいに男の人に肩を抱かれて歩いている。わたしはちょっとだけ変わった。クラスでの地味な姿しか知らない皆なら驚くように、唇を紅く潤ませて、肌を露出して、首筋には歯型とかがついたきり治らない。たまに虚しくなるけれどテルミさんのことを考える暇が無いのは落ち着いた。名前も知らない人のベッドで眠りに落ちて、夢も見ないで目が覚める。そしたらまた知らない家に行って、最後に寮に帰ったのはいつなんだろう。

「ナマエちゃん、よかったよ」
「じゃあ十万」
「それは高過ぎるんじゃないかな」
「嘘、あなただったらお金なんていらない」
「かわいいね」

頭を撫でられる。キスをされる。結局この人もお金を払った。お財布には汚いお札が貯まっていく。気持ち悪い。けれど気持ち良い。テルミさんから身体を触られたことはなかった。テルミさんは、壊れ物を扱うみたいにわたしと距離を置く。もしかしたら最初っから嫌われていたのかもしれない。

「わたし帰るね」
「もう少しゆっくりして行けばいいのに」
「たまには学校行かないと、単位が危ないから」
「またね」
「うん、また」

どうせ二度と会わないのに、形式ばっかりな、別れの挨拶をしてわたしは本当に帰路に立った。学校に行くつもりはない。そんなことしなくても生きていけるのを知ってしまった。
帰り道に立っていた人なんて無視してしまおうと思っていた。


「ナマエちゃん」
「……」
「ナマエ」
「……」
「ナマエ」
「うるさい」
「馬鹿なことしてんじゃねぇよ」

脳天に重いげんこつを貰った。初めての接触がこんなだって思ったら少し悲しくなった。こんなことがしたいんじゃないのに。
腕を掴まれているわけじゃないけれど、引きずられるように、テルミさんの後ろをついて見慣れた街に帰って来た。穏やかな街並みが肌に合わないと感じている。田舎の情景も都会の喧騒も路地裏の誘惑も、思えばぜんぶわたしには不釣合いだった。居場所がない。
郊外の無口なマンションの角部屋で、テルミさんはポケットから鍵を出した。ガチャン。部屋からはテルミさんのにおいがした。ベッドと冷蔵庫とテレビがあるだけの寂しい部屋に彼が住んでいるのを知ったのはこれが初めてだった。

「風呂入ってこい。煙草臭ェ」
「わたしは喫わないから」
「だったら尚更だよ」
「……はい」

狭いお風呂場でシャワーを浴びて、雑に置かれた服を着る。テルミさんのにおいがした。ぶかぶかなシャツを羽織って、鏡に映るわたしは子供みたいだ。
入れ替わるようにテルミさんもシャワーを浴びていた。ここには暇潰しの道具も無い。彼は下着にローブという変な格好で出てきて冷蔵庫を漁った。

「水」
「いらない。テルミさん、お腹どうしたの」
「転んだ」
「ふーん」

三本の傷痕は生々しくて、でも触りたくなった。髪から水が滴って、肌には拭き残しが目立つ。雑な人だなあ、部屋は片付いているけれど。
フードが湿気でへたり込んで、いつにも増して顔がよく見えない。何かを話したいけれど何も出てこなかった。窓を遮るカーテンの隙間から、少しだけ昼の光が溢れている。今日はいい天気だった。

「テルミさん、帰る」
「その格好で? 捕まっても知らねぇぞ」
「あ……、わたしの服」
「明日買ってくるから我慢しろ」

口を縛られたゴミ袋の中には、さっきまで着ていた露出の多い服とハイヒールが詰め込まれていた。わざわざ取り返す気にもなれなくて、明日までここにいるのかと考えたら涙が出てきた。二人きりになりたい、なんてあれだけ願ったのに、いざ叶ってみるとこれだ。今のわたしは汚い。テルミさんに触れられるような女の子じゃなくなってしまった。
テレビが点いて、お昼のワイドショーでは和やかなニュースが流れている。平和なもんだなあ、テルミさんはこんなにも時間に追われているのに。毎日休み無く世界を守る為に準備をしてるってのに、世の中は、わたしも含めて、呑気なものだった。
すぐにチャンネルはドラマに変えられた。けれどいつも見ているということでも無いらしく、テルミさんはつまらなさそうに髪をいじっている。

「腹減ってねぇの」
「あんまり食べないから」
「トリニティが作ったやつあんだけど」
「……仲良いんだね」
「あっちが世話焼きなだけだろ」
「仲良いんだね」

彼女はここによく来るんだろうか。テルミさんはトリニティと結構楽しそうに喋っていた。その時は気付かなかったけれど、今になったら、わたしはまるでとりえがなくてテルミさんと話せるだけでも畏れ多かった。今更何を妬む必要があるんだろう。妬みたくないから自分から離れたのに。
涙がボロボロ落ちていくのは見て見ないふりをされてしまった。背の高い彼はわたしの肩を乱暴に抱き寄せた。ガツンと頭が胸にぶつかる。首が痛む。

「もうこんなの嫌だ」
「ナマエがいなくなる方が嫌って言ってんだろ」
「わたしってテルミさんの何なの」
「恋人って言ってやれねぇでごめんな」
「どうしてだめなの」
「ナインがお前のこと心配してたぜ」
「テルミさんは?」
「心配じゃなかったらこんなことしねーよ」

腕にこもる力が、グ、と強くなった。
テルミさんはいつか、わたしのことが好きなんだって言った。けれど言っただけで、わたしには触ろうとも、話し掛けようともしなかった。お前は俺様のことなんか嫌いだろって言うテルミさんの目が悲しそうに揺れていた。
見上げると、その時と同じような目でテルミさんはぼんやりと窓の方を眺めていた。長い前髪がひとかたまり顔に垂れている。ぼとりぼとりと、雪崩みたいに髪の毛がテルミさんを隠していった。

「髪切ったら?」
「そのうちな」
「わたしもテルミさんがいなくなるのが嫌なの。いなくならないでよ」
「約束できねぇ」
「死んじゃうかもしれないから?」
「死にはしねーけど」
「テルミさんって何歳?」
「数えんの諦めた」
「わたしより大人?」
「そりゃな」
「わたし大人になっちゃった」
「テメェはまだまだガキだよ」
「テルミさん」
「好きだってか?」
「うん」
「ナマエちゃんはかわいーな」

わたしたちはちょっと笑った。今だけはテルミさんと普通にお話ができて、それは嬉しいけれど明日になったらまた他人みたいに、もう話すことは無いかもしれない。
これからテルミさんはもう帰ってこないかもしれない。それならそれでよかった。

「ガキは大人しく寝てろ」
「まだお昼だよ」
「昼夜逆転してんだろ。子守唄歌ってやるからよ」
「あはは、テルミさん音痴」

起きたらテルミさんはいなくて、お洋服が袋に入ったまま置かれているんだろう。霞んで行く背中は掴めなかった。


20150817

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