短編 | ナノ

頭上は気持ち悪い程の紺色で、変なところに来てしまったと、ナマエは考えるのです。雲ひとつない空の隙間から、たまに一等星が覗いては消えました。何んでもない。ナマエに見えているのは一面の砂漠です。
ここに来てからもうどれぐらいが経ったことでしょうか。あまりに時間があるものですから、ナマエは、髪の毛を結っては解いて、爪の間の甘皮を剥いでは棄てて、砂の上に空想上のお姫様を描いては消してを繰り返しておりました。そうこうしていても陽は沈んだまんまで、チットモ次元は進まないのです。キット自分は死んでしまったのだわ、とナマエは少しずつ少しずつ絶望致しました。ハザマは何も喋舌らないで、一つの抜け殻みたいに仰向けになって、その閉じた瞳が開かれることはありません。
二人は駆け落ちた恋人でした。お互いのことが何よりも大切ないたいけな紳士と淑女でした。何に阻まれたというのでしょうか、二人の逃避行は確かに成功致しましたが、ハザマはその時に、ほんの一瞬心持が弛んで、そしたらこのように中身が無くなってしまったのです。
相合傘に自分の名前と大好きな彼の名前を描こうとして、ナマエはハッとしました。いよいよ彼女は、隣の骸のような男のことが思い出せなくなってきております。ナマエはここにきて、チョットずつ確実に物事を忘れていっておりました。自分の着ている服の意味だとか、ペアリングの理由だとか、そろそろ呼吸の仕方も忘れてしまいそうで、文字を憶えているうちにと大事に温めていた言葉を砂に遺します。

「あア、陽が登らない」
「寒くはありませんか?」
「わたしはチョットだけ寒いから」
「隣で寝てもいいですか」
「嫌だ、服の間に砂粒が入ってしまった」
「あー、折角二人きりなのに」
「そろそろ貴方が見えなくなりそうで」
「わたしは怖いの」

声の出し方を忘れてしまわないように、思い浮かんだ言葉を必死にナマエは掻き集めました。思い出話を口にしては、空気の中に溶けていくように一つ一つ潰えていきます。二人の出会った時のことを、初めて手を繋いだ時のことを、愛し合った瞬間のことを、逃げ出した夜のことを、誓い合った約束を、ナマエはポロポロと紡ぎますが、ハザマの耳にはキット届いていないでしょう。
ここは物忘れの砂漠でした。神様は誤った男女をここに導いて、記憶を食べて退屈を満たすのです。真実の愛とやらがあるのならば二人は抜け出せるのです。

「昔お伽話に聞いたの、神様は人の思い出を食べ尽くしたら、次は目を奪って、聞こえを奪って……最後まで手は残しているって。人の温もりを感じる術は最後の最後まで取っているの。残酷だって、でも慈悲深いっては思わない? わたしは最後の瞬間まで貴方の体温を感じ続けていたいから」

ナマエにはもう、目の前の男が誰なのかがわかりません。そしていよいよ視界も暗くなっていくのです。
意識が無くなるのはそれから暫くの話でした。ナマエは全てが無くなるその時まで、ハザマと指を絡めて、キット幸せでした。


「……どこでしょうか」

ハザマは起き上がると、白い部屋をぐるりと見渡しました。腕には点滴の管が延びております。
着衣は白い部屋着でありました。丁度入院患者が着るような服には、べっとりと自分のにおいが着いておりましたので、何日間かここで眠りこけていたことを理解するとハッとしました。
こうしてはいられない、自分にはしなくてはならないことが山ほどあるのです。丁寧にハンガーに掛けてある自分の黒いコートに袖を通すと、ハザマは一目散に病室を抜け出しました。

「少し肌寒いですね……おや」

仄暗い夜道を歩きながら、冷ややかな風にハザマは肩を竦めました。それからポケットに手を突っ込むと、不愉快な砂を感じて、咄嗟に手を出します。するとその拍子にシルバーの指輪がカランとアルファルトに転がり落ちました。

「ナマエのですよね。しかしどうして」

自分の左手の薬指にも全く同じデザインの物がついております。
その右手には、起きた時から何故だか生温かい人肌の感触が纏わり付いておりましたが、家に帰って、手を洗う頃には綺麗さっぱり違和感ごと流されておりました。

翌日の紺色の空に、ハザマは薄っすらと、物忘れの砂漠を思い出しました。怖くて目が開けずにハザマはナマエの話を、気を失ったフリをして聞いておりました。
ただそうやって気絶のフリをしていくうちに、ハザマは眠ってしまって目が覚めたらベッドの上にいたのです。しかし、自分が長い夢を見ていたとはコレッポッチも思わないのです。

「おはようございます、ナマエさん」

ハザマは誰もいない影に挨拶をするようになりました。ナマエは神様に跡形も無く奪われてしまっておりまして、ただハザマはそのことに一つの疑問も持ちませんでした。
真実の愛があるのならば、物忘れの砂漠からは帰ることができました。ハザマにはそれがあって、ナマエには無かったというだけの話なのです。ハザマは何一つも忘れてはおりませんでした。ナマエが砂の上にしたためた、これからもずっと一緒にいようね、とかいう、月並みな言葉もシッカリと憶えているのです。

「もう人を信じるのはこれが最後にしますので」

何もない場所に一言喋舌りかけて、ハザマは指輪を抜いて砂に埋めました。



20150805

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