短編 | ナノ

※ディーブイの話





( 前口上、私は童貞です )

まさか女性の身体がこんなにも柔らかいとは思ってもおりませんでした。そうです、私はしがない童貞で御座いまして、この身体に生まれてからはただの一度も! 女体というものに触れたことが無かったのです。齢何年になるのでしょうか、私には、欲求という欲求はゆで卵が食べたいだとかいう、しょうもない物しか御座いませんでした。どうぞお笑いなすって下さい。普段調子に乗った口を聞いては御座いますが、私、虚無っぽいつまらない人生を歩んで来たのです。

( 起 )( 童貞である )

目を付けた、というよりはピンと来たと申した方がいくらか適切かもしれません。わたくしが見付けたのは、一介の街娘で御座いました。ただちょっと、仕事先で見付けた飯屋にいた看板娘でありまして、彼女は私には、どうしたことか一際魅力的に見えたのです。私は直ぐさま彼女の気を引こうと思考を巡らせました。そこでハッとしたのです。完璧であると自負していた私は、まるで今まで大した不自由を感じたことは御座いませんでした(と言えば嘘になります。時折私の身体を乗っ取る傍迷惑な同居人の我儘に、何度付き合わされたことでしょうか。好物のゆで卵を横取りされたことが何度あったことでしょうか!)。
しかして彼女に出逢い、私はとんでもなく無様で、不器用で、何一つ満たされていないことに気が付いたのです。人間の本能には欲求という物が御座います。前述の横暴な同居人は精神体とかいう欲求の塊で御座いますからら、私の身体を使って何度も何度も、知らない女を抱いておりました。そのせいで私は生粋のサディストの女たらしとして、女性衛士から邪険な目で見られることもしばしば御座います。私は身体だけは、決して童貞なんかでは御座いません。言ってみれば素人童貞であります。快感を得るのは暴虐な同居人だけでした。いいえ違いますね、私は言ってみれば、エーヴイを鑑賞していた童貞です。それを見てもさして興奮しない、何ならどうしてそのような事をするのかと疑念すら抱く人形でした。人のフリをするのに、女性を褒める事は多々御座いましたが、そこには義務感のようなものしか御座いませんでした。
それは人形が人間に変わった瞬間でした。私は、初めて欲を持ったのです。無礼な同居人が頭の中で私を嗤いました。薄ら笑いました。私無しでは活動もままならない脆弱な同居人の、耳障りな高笑いはその日中私の頭の中で響き続けました。煩いと耳を塞いだのは、私の転機に他なりませんでした。

「あの、お身体が優れないのですか?」
「え、あ、の、わたくし、ですか?」
「ええ。だってさっきからズット、頭を抱えてるんですもん。どこか悪いところがあるンだったら、少し休まれて行きませんか」

それでしたらお言葉に甘えて、と、私は他人に嘘を付く事を覚えました。誰よりもこの世の真実を愛する愚直な同居人はそれに怒り狂いながらも笑っておりました。私は今まで、小さくとも嘘は話しませんでした。ただ都合良く言い訳をしてきただけであったり、本来はこうなんですよ、と人をからかってみたり、そう言った実に合理的なことこそやって参りましたが、こうも簡単に精神は欲求に忠実に口を動かすのです。頭なんて痛くない。体調なんて崩さない。私は馬鹿です。こんな同居人とは違って、狡猾でも何でも御座いません。私は産まれたてのガキのようなものなのです。思春期も反抗期も取り逃したつまらない奴なのです。

( 承 )( 未だ童貞である )


私は飯屋の休憩室に案内されて、毛布を被せられました。そのまま横になるとくしゃりと萎れた帽子を見て、彼女は優しく、それはそれは優しく、あの滑稽な同居人とはおおよそ比較にならない優しい微笑を見せて、頭を持ち上げて、帽子をテーブルに置きました。髪越しに感じた体温の暖かいこと! 生粋の低体温者の顔が紅くなるのを感じました。彼女はそれを見て、熱があるようですね、と氷をビニル袋に詰めております。製氷器を掘る馴れた後ろ姿を眺めながら、私はひたすら頭に血が昇ったままであればと願いました。これは遅く来た思春期や青春なのでありましょう。自分程の年齢の男が、憐れだと、いつも人を蔑(省略)同居人が頭の中で笑います。憐れなのは百も承知しておりました。

「コートは、シワになりますけれどどうされます?」
「そのままで、いいです」
「それじゃあ休憩時間が来たら様子を見に来ますんで、ごゆっくり」
「ご迷惑をお掛けします……」
「いいえ、気にされないで」

チラリと見えたネームプレートにはミョウジと書かれておりました。彼女が去った後、小声でその名前を復唱すると、漸く血液が下半身に集まって参りました。(略)同居人は腹を抱えて笑っておいでで、とうとう我慢出来ずに私に直接話し掛けるのです。

( オイ、代わってやろうかぁ? )
「うるさい、黙っていて下さい」
( テメェ女の誘い方とか知らねぇだろ? 俺様なら上手くやれるぜ )
「これは私の問題です」
( しっかし趣味良いなあ、ハザマちゃんってあんな感じのが好みなわけ? )
「知りません」

こんなの側から見れば一人芝居に他なりません。もし誰かが聞いていたら、私は頭の病院に連れられるでしょうか。自分の中にもう一人います、自分では御座いません。私にとってはそれが当然でありますが、そんな人間、世の中に数人しか知りません(数人もいれば十分であることに気付いたのは少し後のことです)。
ミョウジさんを待つうちに、私は眠ってしまったようでした。目が覚めた時、私の傍でミョウジさんはテーブルライトの下書類をまとめておりました。その髪の艶やかなこと、暫く眠ったフリを決め込もうと寝返りを打つと、彼女は、振り向かずにおはようございますと声を掛けました。心臓が急速に動きました。カーテンの隙間から街灯の光が差し込みます。その灯りは、数時間の安眠を理解するには十分過ぎました。

「す、すみません。こんな時間までお世話になってしまいまして」
「いいえ、閉店したんで、体調がよくなるまでいくらでも寝てって下さい」
「そういう訳にはいきません! 何かお礼をさせて頂きたいのですが……」
「そんな、気にしないで下さいって。それよりお客様お仕事中だったんじゃありませんか?」
「上司がいませんので」

形式ばった仕事でありましたし、もう用事は済んでおりました。なので別段急ぐ必要も無ければ、逆に長居をする理由もなかったのです。ただそれは過去の話で御座いまして、今の私はと言えば、どうにかミョウジさんと親密になれないものかと頭を抱えるばかりでした。同居人は何も言いませんでした(彼は時々眠ります。大概は私の睡眠に合わせますが、耳障りな罵声が飛んで来ないこの時間を私はゴールデンタイムだとか秘かに呼んでいるのです)。
それを全て彼女に話せたらいいのでしょう。この場所には彼女が走らせるペンと、秒針と、私の心音しか御座いません。小さな飯屋であります、恐らく今、この辺り一帯には私とミョウジさんしか存在していない。

「あ、そうだ。電気に飲み物! 風邪薬は無いんです、申し訳ないけれど」
「お、お気遣いなく! 体調なら一眠りして良くなりましたので」
「よかった。それじゃあわたし、余っちゃったリキュール消化しなきゃいけないんで、付き合って下さい」

グラスに氷を詰め込んで、赤やオレンジの酒がミリ単位で残ってしまった瓶の中身全部と、終いにソーダ水を注いだ彼女の残飯処理に、私はウーロン茶で付き合うこととなりました。お代を払えば私もアルコールに浸ることが出来るでしょうか。酒を飲んでも思考回路が崩れない自分が疎ましくならないことも御座いませんでした。妙な空間だとは薄々感じております。月明かりを感じない程明るくなった部屋で、帰そうにも帰せない立場の私を彼女はどう思っているのでしょうか。なんとなく、目の前を全て飲み干したら自然と立ち上がらなければならないことは察しておりました。だから時々咳払いなんかをして、少しでも時間を稼ぐ私は何と滑稽なことでしょう!
沈黙は御座いませんでしたが、私はその会話にあまり集中出来ませんでした。どこから来た、料理はどうだったか、趣味は、今夜は晴れている、当たり障りのない会話は彼女の口から溢れ出しました。まるで沈黙を恐れるように、彼女は酒を飲みながら、書類を作りながら、私の顔をたまに見て話すのです。その視線ばかりが気になって、まるで何と返しているのかがわかりません。ただどちらも意味の違う饒舌でありましたので、中々グラスは空きませんでした。

「そう言えば、お客様、お名前は?」
「ハザマと申します。貴女は……ミョウジさんでしたっけ」
「そうそう、ナマエです。ナマエちゃんって呼ばれてるんですけど、お客様は?」
「ハザマさんと呼ぶようにお願いしておりますね」
「上司がいないってことは偉い役職の方なんでしょう? 会社って、社長ーとか、課長ー、とか呼ぶものって思ってました」
「仕事柄そう呼ばれては困る場面もあるんですよ。それに他人行儀ではありませんか? 部長だとか専務だとか大尉だとか。私はそう呼びますけどね」
「ハザマ……さん? ってなんか、意地悪な方ですね」

そう彼女は笑いながら仰いました。的を射た感想が胸に突き刺さるのです。それならばナマエさん(ちゃん付けなんてできるか)はもっと意地の悪い方だと八つ当たりをしてしまうのも感情で御座います。もしかしたら自分に気があるから、こうやって休ませてあまつさえ帰宅を促すことすらしないのでは、とか、願望めいた自己肯定すら垣間見える始末なのです。こう言った時同居人(テルミさん)ならどうするでしょうか。滑稽にも私はテルミさん以外を参考に出来ません。テルミさんはいつもいとも簡単に女を引っ掛けます。レリウス大佐に感謝しているなんて宣っているところを聞いたことも御座います。それが立場でも計画でも精神でも無いことは火を見るよりも明らかで御座いますが、私には理解が及びませんでした。胡散臭いぐらい良い人そうだと言われて、羨ましい程整った身体付きだと言われて、それでも私には分からないのです。

「ナマエさん、唐突で申し訳ありませんけれど、私ってどう見えますか?」
「え? どうって、良い人そうで痩せてて背が高いなアって……」
「(よく言われる)では私をどう思いますか?」
「えーっと……、変わった人?」
「変わったものはお嫌いですか?」
「嫌いじゃありませんけど」
「私はナマエさんが好きです」

やってしまった。これではキチガイです。通り魔でもあればレイプ犯です。テルミさんがしているように、後頭部に手を掛けて(テルミさんと違って優しくします)顔を傾けて、口付けて、舌で歯列を辿って、そうすると女性は勝手に自分を抱き締めて受け容れるのです。ナマエさんもそうでした。落胆しないこともありませんでした。女性はもっと崇高であるものだと信じていたのかもしれません。これが世に言う童貞の幻想というもので御座います。テルミさんは笑うでしょうか。嗤え。私は人肌に感動しておりました。これからどうすればいいのかはよく知っているし、それは知識ではなく動作として憶えているのです。

「嫌ではありませんか」
「びっくりはしましたけど」
「申し訳ありません」
「あの、電気消してください……」
「失礼しました」

制服を脱がせて、舌を首筋から胸に滑らせ、太腿を触り、恥骨を強めに刺激して、その度にナマエさんは身体をびくつかせたり小さく嬌声を上げたりしました。我慢ならなくてすぐに指を突っ込み、痛がる様子に戸惑うなんてもう一人の自分ならしないことでしょう。肌は柔らかく、温かく、指の一本一本に伝わる女体の感覚に私は逐一感動しておりました。私は童貞なのです。
壊さないように出来るだけ優しく、できる限り慎重に、時間を掛けたい筈なのに私はすぐにベルトに手を掛けました。二重のそれが煩わしくて仕様が御座いません。面倒臭い、コートを脱いで、ネクタイを取って、シャツのボタンをいくつか開けて、これでは手順が滅茶苦茶であります。ナマエさんはすでに何も纏っていないというのに、自分だけが四分の三も服を着ている状況に、私は、ただならぬ興奮を憶えたのです(この当時の自分は気付いていないが恐らくこれが事の発端だったのである。物事の顛末はいつも些細な事で決まるものだ)。

「ナマエさん、私を見て下さい」
「ハザマ、さん?」
「慣れないんです。慣れてはいるのですが、それは違うと言いますか……」
「久し振りとかですか? ハザマさんみたいに、綺麗な人が」
「……もっと私のことを話して下さい。私はどう映りますか」

私はどう見えているのでしょうか。それが悪い意味でも、良い意味でもどちらでもいいのです。出会って半日、それも殆どを眠って過ごしていたような行きずりの不審者にさえ、ナマエさんは褒め言葉をいくつも並べるのです。優しそうなお顔、素敵な笑顔、瑞瑞しい緑色の髪、胸に響くような声、冷たくて心地良い体温、私達はお互いの内面をよく知りません。しかしナマエさんは話すのです。言うのです、先程までの言葉を並べただけの会話はそこには無いと信じたいもので御座います。私は童貞で御座います。しがないしがない童貞で御座います。女性に興味が無く、性欲を持たなかった紳士で御座います。身体だけで繋がりたかった欲に塗れた童貞ではなくて、そもそもそのような思考にすら行き着かない筈の童貞でした。
ベルトを外してファスナーを下げて、私はもう何度もナマエさんに口付けました。ナマエさんは何度も私の名前を呼びました。

「ナマエさん、いいですか?」
「あっ、ハザマさん」

綺麗な金色、と言ってナマエさんは目を閉じました。
それは肯定でした。この身体だと女性を孕ませることなんて無いでしょう。それはどんなに悲しいことでしょうか。私はその日愛情を知りました。挿入して、繋がって何度も口付け名前を呼び合って、この瞬間の為に生まれて来たのでは無いかという幸福感を味わったのです。どうしてナマエさんに急に惹き込まれたのかなんて言うのは些細な疑問でした。


( 転、これまでは余興である )( 童貞は棄てました )


私はかくして童貞を喪失しましたが、代わりにもっと大切な物を得たとばかり思い込んでおります。ここからは私のただの告白です。テルミさんは知っておりますが、誰に聞いて貰おうとも思いません。勿論ナマエさんにだって、知られたとしてどうにも出来ないと言うことはあるのです。知った所でどうしようも出来ない現実があるように、そこで私は初めてテルミさんの心境が判った気になりました(気色悪い、こんな奴の気持が解ってどうするというのだ)。

たまたま立ち寄った筈の場所に、もう二度と行くことは御座いませんでした。私はその日付でナマエさんの仕事を奪い取って、しかし同じ場所で働くというわけにも行かないので妥協のように、同じ部屋に住むことに決めました。
毎日毎日、童貞を遺棄したことを良い事にナマエさんと身体を重ねるばかりの日々が続きました。ナマエさんは近くの雑貨屋で働いているそうです。時間を合わせるようにナマエさんは私の帰宅を待って、料理を作って(飯屋で働いていたというのにこの料理の普通であることに私は口を出さないことにしました)、寝て、起きて、おおよそ恋人同士のようで御座います。勿論恋人同士でした。

「ハザマさん、今日はお客様に口説かれちゃったの!」
「また自慢話ですか。私結構嫉妬深いんですよ」
「こんなに素敵な人がいるのに、他に見向きするわけないでしょ?」

ナマエさんの悪戯っぽい上目遣いには頭がクラクラするのです。大切で大切で、いつまでも守りたい気持をテルミさんが嗤いました。精神が強くなっていくのを感じたのはこの頃です。私は自分だけのナマエさんを決してテルミさんに奪われないようにとそればかりを考えておりました。ナマエさんが魅力的であると感じるのは何も私だけでなく、彼女はよく声を掛けられて、帰路で素知らぬ男を追い払った事も一度や二度では御座いません。ただ、ナマエさんについて、恐れているのは前述のテルミさんだけでありました。

「おかえりなさい! 一緒にお風呂入る?」
「お先にどうぞ。私やる事が御座いますので」
「だったら待ってるね」

店員と客とかいう立場が無くなれば、ナマエさんはいとも簡単に私と対等に接するようになりました。次第に身体を重ねる回数が減っていきました。一緒にいるだけでいいのだと感じ始めて参りました。
私とナマエさんが並んで歩いている所を衛士が見たようで、あの男がと周囲の私に対する態度が変わって、私は名実共に誠実な人間となれたのです。悪態を吐く同居人(テルミさん)の事を気に留めていたら、どれ程良かった事でしょうか。とも思えないので私は告白をするのです。


( 閑話休題 )

( 同居人が話し掛けます。すぐに俺様と同じようになる。嗤うのです。この男と同じようになんてなるものかと思いました。私は彼方此方に咲かない種を蒔き散らして性欲を発散させるような精神は持ち合わせていないのです。そうでした、私は最初から今まで、そのような精神は持っておりません )

( 以上 )


出掛けることがあります。話すことがあります。寝ることがあります。距離が近付き時間が経てば経つ程に、私は人間らしく、欲が出始めてしまったのです。
数日間に及ぶ長期の仕事の翌日の事です。目が覚めて、カーテンの隙間からはあの当時のように街灯の灯りが溢れておりました。丸一日も寝てしまったのか。顔を洗おうと身体を起こして、鏡の前に立って、私はふと我に返ったのです。まるで一日の記憶が飛んでいる。疲れが出る身体では無いのにどうしてこんなに眠ることがあるのでしょうか。同居人の声は聞こえません。昔の自分ならばその当然の沈黙をゴールデンタイムだとか呼び有難がったもので御座いました。恐怖で頭が一杯になっていく瞬間は、手足の指先の血の気が去っていくのだということを知りました。ナマエさんは服を着て、寝室で眠っております。部屋は整頓されておりました。まさかそんなことはない(まさかそんなことがあるならば、この部屋は荒れていてナマエさんの服は肌蹴ている筈なのだ)。
何度自分に言い聞かせてもろくに眠れず、しかしナマエさんを起こす訳にも行かず、朝が来てドアがノックされることを待つだけで一晩を明かしました。

「おはよう、起きてる?」
「ナマエさん、起きていますよ」
「だよね、ハザマさん昨日丸一日寝てたし!」
「丸一日……」
「起こしても起きないの。疲れてるんだなーって思って起こさなかったけど」

丸一日眠っていた。その一言に安堵して、全身の力が抜けて参りました。寝付けない一晩をこうも簡単に解いて下さるナマエさんがいっそう愛しいと感じました。

「ハザマくん、今日も非番?」
「一度顔を出さなくてはなりませんが……それより何ですか」
「何って何が?」
「その呼び名です」
「ハザマくん? あのね、呼んでみたかったの! ずっとさん付けって他人行儀で」
「そのように可愛らしいことを言われたら疲れが吹き飛びますね」

そうです。私は呼び名一つでこうも気分が変わる精神なのです。ナマエさんが朝食の準備に部屋を出た後、ハザマくんと、いつかのように復唱して心が安らいでいる所を、同じようにあの男(同居人)(テルミさん)は嗤いました。ゴールデンタイムは終わってしまっておりました。
朝食を食べて、昨晩の疲れがどっと吹き出るのを感じました。

「ナマエさん、帰ったら少し寝てもいいですか」
「まだ疲れ取れないの?」
「申し訳ありません。この埋め合わせは必ずしますので」
「やったー! じゃあナマエちゃんって呼んで!」
「恥ずかしいので呼びません。ああ、今日って仕事?」
「ある、よー……?」


( ブラックアウト )


「ではいってきます」
「いってらっしゃーい!」
「……やけに元気ですね」
「ふふーん、夕飯楽しみにしててね」

少し顔を出すだけの予定が、レリウス大佐に呼び止められて思った以上に時間が経ってしまいました。帰るとナマエさんはおりませんでした。今日は休みだった筈でしたが、今朝の機嫌の良さといい、夕飯の話といい、きっと買い出しにでも行っているのでしょう。明日から数日、ナマエさんと生活が合わなくなります。顔を合わせられるかも怪しいのはナマエさんが出世(雑貨屋に出世なんて、いいように使われていると感じて出来れば仕事を辞めて頂きたいと考えている)したからだと言います。
何も不審なことは無い筈でした。起きるとナマエさんはおりませんでした。また一日眠ってしまった。


( 結、の前の一口上 )


女体の柔らかさなど知らなければよかったのです。私は結局、あの男と似た方向に進んでしまいました。拳の鈍痛に指先の血液が、私を更に興奮させるのです。女声の呻きは何と甘美なものでしょうか。黒血の寄った柔肌は何と美しいものでしょうか。きっと私は元よりこうだったので御座います。自分だけが服を着て、一糸纏わぬナマエに欲情したあの瞬間に全ては分かっていたようなものでした。可哀相と思わない事も御座いません。ただ私は、童貞でなくなったあの瞬間の幸福感以上のものを常に抱いているのです。ナマエは私の為ならばなんだってして下さる方でした。私もナマエの為になら何でも致しました。しかしそれをナマエは嫌って、自分の幸福は私が幸福であることだと言い切ったのです。いってきます、の声に、返答はありません。ただ涙を流して、頷く様を見ると私は晴れやかに部屋を出ることが出来ました。思った通りになりました。ナマエは仕事をお辞めになったそうです。帰るといつもナマエがいることは幸せ以外の何物でも御座いません。心に何か引っ掛かればいいのにと言う気持には気付きたくはありませんでした。


( 転の後結の前 )


やっと休日が合って、何日かぶりに寝顔以外のナマエさんを見ることが出来、それだけで私は報われたような気持になりました。普通の恋人同士のような休日を私達は過ごしました。家に帰り、次はどこに行こうかと話す中で、ナマエさんは段々不機嫌になっていったのです。

「ナマエさん、何かご不満なことでもありましたか?」
「無い」
「どうなさったんですか……。原因が分からないと私何も出来ませんよ?」
「ありません。勝手に思ってるだけ」
「ではその勝手な考えを教えて下さい。ナマエさんの破天荒な発想、私あまり理解出来ませんので」
「……名前」

と、口調。そう続けたナマエさんが何を言っているのかわかりませんでした。しかしあの男の高笑いを聞いてハッとしたのです。私は馬鹿でした。自信が付いてしまったのです。いつか感じた人らしい欲求の昂まりの矛先が見付かりそうになるのを目を閉じました。それから、あの男が怖いのならば、あの男以上のことをすればいいのです。もしくは同じことを、ナマエさんは何が欲しいのでしょうか。それを聞けるのは私だけなのです。

「ナマエさ……ナマエは、何が起こると幸せですか?」
「ハザマくん……! わたし、ハザマくんが幸せなら、それが一番幸せだよ」
「それは困りましたねぇ。私今十分幸せなのですが」
「怒ってごめんね、大好きよ」

先回りしたことにテルミさんはどう感じておいででしょうか。テルミさんは私のことを全て掌握していらっしゃいますが、私はテルミさんのことをあまり知りません。概ね私に嫉妬でもして、ナマエを奪いたいとでも思っておいでなのでしょう。しかしテルミさんなんて敵では無いのです(敵ではありませんでした)。


( ブラックアウト )


「テルミー! 起きてる? 朝だよー」


( ブラックアウト )


「どうしてその名前をご存知なのですか。知っている方はごく限られていて」
「だって昨日言ってたよ? 今まで黙ってて悪ィ、ハザマじゃなくて名前で呼んでくれって」
「昨日は一日寝ていました」
「遊びに行ったじゃん。何言ってるの?」
「名前で呼んで下さい」
「え? テルミ?」
「私は」


( ブラックアウト )


( 結 )

「ねえ、どうして? 痛いし、怖いよ」
「私を呼んで下さい。ハザマさんでもハザマくんでも、お客様でも何でも良かったんです」

欲求の矛先を両眼で見てしまいました。私は呼び名一つでこうも指針が変わる存在なのです。私は、ナマエの腕を引っ張り床に叩きつけました。ボタンを引きちぎるように服を剥ぎ取って組み敷きました。最初はほんの、テルミさんへの苛立ちだったのです。それがナマエへの憤りに変わってしまっただけの話で御座いました。しかしこうして恐怖に怯えるナマエの顔を見下ろしていると、今日までは幸福に埋もれていた、欲求を見つけた気持になるのです。達成感とよく似ておりました。不本意ながらもあの悪魔的な同居人のお陰で私は漸く落ち着くことが出来たので御座います。
ナマエは涙を流しておりました。客観的に見て、彼女は悲劇のヒロインそのものです。被害者そのもので御座います。しかしこれは喜劇でした。

「……ハザマ?」
「まあ今となっては関係の無い話ですが」

手始めに顔を平手打ちすると、じわりと、快感が身体の奥底から呼び起こされる感覚が致しました。次はどうするか。この体勢では蹴りを入れることも出来ません。私は、拳を握り締めて腹を殴りました。出来る限りナマエの表情を見ていたくて、視線を逸らさずに腕を振り下ろした先は肋骨で守られておりました。どうしたことか。的を外したところでナマエが呻かないことも御座いません。

「ぅ、ぐ……ハザ、マ、さん……なんで?」
「ナマエ、唐突で申し訳ありませんけれど、私ってどう見えますか? って、前にも同じ事をお伺いしましたね。覚えていらっしゃいますか?」
「痛、い……あああ!」

掴む胸ぐらがあればそうしたのでしょうけれど、生憎服は取り払ってしまっておりましたので、仕方無く、髪を掴んで上体を起こさせました。脱力した身体には堪えたようで、痛みに顔が歪んでいきます。目には涙が溜まっておいででした。ナマエの泣いた顔を見るのは初めてのことで、それがまた、たまらなく愛しく思うのです。

「聞こえませんでしたかー? 私って、どう見えますかー?」
「ひっ、え、あ……あの、ハザマ、くんは……」

大声を出した私に、いいえ、どんな状態であろうと私そのものに恐れをなしている彼女は、身体がガタガタと震えて、何かを話そうにと口が開いては閉じ、息だけが漏れ、蛇に睨まれた蛙のように微動だに致しません。ナマエのこのような姿を私はこれまで想像することも御座いませんでした。童貞の頃の自分が性行為自体に興味すらなく憧れも抱かなかったことを思い出し、全ての点が繋がったように思いました。私は童貞の時、テルミさんのする愛の無い捌け口のような、暴力的で独善的なセックスを傍観していたのです。

「ハザマ、くんは……別の人、みたいに」
「(私は私だ)では私をどう思いますか? …………。どう思うかって聞いているんですよ」
「あ、……ぐ、ゲホッ」

言葉を上手く話せない彼女に、何を感じることも無く、ただ欲求に従ってとうとう腹を殴りました。柔らかな肌の下には私同様、当たり前に内臓がありそれはそこそこの手応えが御座います。ナマエの吐いた血が頬に掛かりシャツを汚しました。倒れることは許さず、しかし殺さないように、調整して同じ場所を打ってみると、どんどん彼女は反応すら示せないようになって参ります。それでもなんら不満は御座いませんでした。

「変わった……人」
「変わったものはお嫌いですか?」
「……」
「私はナマエが好きです」

あの日の光景は本来こうあるべきであったのです。口付けると、力無くナマエの舌が絡められました。血の味のするキスを私は心の底から望んでいたのでしょう。指も入れずに力任せに挿入することだって大きな望みの一つだったのです。私は漸く幸福になることが出来ました。あの時にこうしていれば、タチの悪いレイプ犯で御座いましたが、今の私には確かな愛情が御座います。

「ナマエ、もっと私の事を話して下さい。私を見て下さい、私の名前を呼んで下さい」
「い、だ……痛い、ごめん、なさい……」
「私こう見えて、今とても幸せなんですよ。いかがですか? まさかこうなるとは思っていなかった、とでも言いたいのでしょうが、ナマエを愛する気持ちは変わりませんよ。ああ、また血を吐いてしまわれましたね。カーペット、真っ白なものでも新調しましょうか」

私はあの日をやり直そうとでもしているのでしょうか。積み立てて来たものの崩壊がまた心地良いと感じたのはその一瞬後のことで御座います。何度も何度も腰を打ち付けて、それでも足りないと言うのに一秒一秒が、まるでこの為だけに生まれてきた様な多幸感に包まれておりました。失神しては痛みで正気に戻り、声も出ずに無くナマエを見て、これが自分がしていることだと実感し、私は笑いが止まりませんでした。今まで何を恐れてたと言うのでしょうか。テルミさんの高笑いよりも醜い声が部屋に響いております。反響した自分の声が耳に入って、テルミさんの声なんてものは掻き消されました。もしかしたらゴールデンタイム(とか言うのは名ばかりで、テルミさんなりに私に気を遣っているだけの滑稽な時間です。今ならテルミさんの言うことが手に取るようにわかります)なのかもしれません。全てを手に入れた実感を得て、私はその日の睡魔に意識を奪われるまで、最早人形のように美しいナマエさんを只管愛し続けました。


( 結果論を出す前の言い分と過程 )


最後にまともな会話を交わしたのがいつかなんていうのは、考えることすら無意味なことでした。私が愛したのは優しい会話でも温かな過程でもなければ、凡庸な日常ですら御座いません。あれから私は、回復力に乏しい彼女に合わせて一月に数回程、愛を確かめ合いました。ここから申し上げますのは平凡な神経に成りすました余所行きの言葉で御座いますので、仮初として聞き流して頂きたいものであります。


( 戯言 )

私はナマエを当然今も愛しております。二人で笑い合う日々は幸せなものでした。私はしがない童貞で、しかしそれに拘りを持つことも御座いませんでした。狂わせたのは彼女の一声で、原因は同居人のからかいです。彼を恨めばいいのでしょうか。それとも自分の特性を理解せず本の些細な事で壊れてしまう精神の弱さがいけないのでしょうか。そもそも私は彼女に出会わなければよかったし、体調が優れないなどと嘘を吐かなければよかったのかもしれません。後悔をしない瞬間がどこにあると言いましょうか。愛した人を傷付けずにはいられない性癖なんて出鱈目なのです。本当は壊れずに、いつまでも優しい柔肌を抱き締めていたかったのです。何と謝れば許して頂けるのでしょう。時間が巻き戻って、それでもここには確かにボロボロになったナマエがいるのです。離れたらいいのに放さずにはいられないのです。私はナマエを愛しております。大切な物を見付けたと実感していたのです。どうすればいいのでしょうか。どう間違っても同居人の嗤う声が消えません。私はオカシクなってしまいました。ナマエ、私を殺して下さい。

( 全部口から出任せです。以上 )


打撲に飽きて、肌を切り刻む快感を見付けた私は、服を着せても目立つ場所(但し顔は一切傷付けないことに致しました。苦痛に歪むだけで顔に関しては満足なのです)に、大切に大切に一本ずつ、ゆっくりと刃を滑らせます。血が溢れて流れて、新調したカーペットは少しずつ着実に汚れて行きました。汚れと言えば語弊が御座います、ナマエの身体から滲む物ならば(私が関わった物に限っては)美しくて愛しい欠片なのです。
ナマエは声が無くなりました。表情も日に日に貼り付いて、何をしても無反応の人形のようになりました。胸に手を当てると心音は確かにしておりますし、鼻に指を翳すと息も御座います。今日も綺麗に生きておりますね、なんて話し掛けたところで、ナマエは何も話しません。以前少し目を離した間に、ナマエは命を絶とうとしておりました。私はナマエを愛しておりますので、涙が出て、それからは手足を縛って口枷をして外出するようになりました。点滴が上手くなりました。ナマエは何も食べることが出来ません。
風呂に入れる作業も楽しくて仕様がありません。傷口に水が滲みる時は、ナマエは僅かながらに眉間に皺を寄せました。ですので私は、丹念にナマエの身体を洗います。目に泡が入ると涙を流しましたが、顔は傷付けないと決め事を(自分の中で)しておりますのでたまの不可抗力は待ち遠しくも御座いました。眠る時はいつも、ナマエを抱き締めました。凍ったように動かないナマエでも、いいえ、ナマエだからこそ愛しく思います。いつまでも生きているナマエは居心地が良くて、私は、安心して眠ることが出来ました。

「ハザマくん、ハザマくん、朝だよ」
「ナマエ?」
「起きてー、ご飯作るから、その間にお仕事の準備するんだよ。それからね、夕飯は何がいい? 今日はお休みだから、何でも好きなの作って待ってるから、ハザマくん、寄り道しないで早く帰ってきてね」
「ナマエ、もう喋らなくてもいいんですよ」
「ハザマくん、いってらっしゃい。おかえりなさーい、待ってたよ」
「あー……」

ナマエの精神はついに壊れてしまいました。掠れ声でナマエは、少し前の私と話すようになりました。それでは駄目なのです。


( 結果論 )


まさか女体の柔らかさはことの外頑丈であることを、私は知る由も御座いませんでした。どんなに傷付けてもいたぶっても、人っていうものは、中々死なないものなのです。私の知る愛情は性欲と直接繋がるものでした。何度も何度もテルミさんの歪んだ捌け口を眺めて、性癖が捻じ曲がるのは当然の結果で御座います。ただ私は、特定一人を愛した上で壊したくて仕様がありませんでした。それだけが全てで御座います。
長ったらしい過程も、一瞬のカタルシスの為に存在したのです。ただ過程はぞんざいなものではなく、それも含めて、私はただ一人を愛し続けております。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです(テルミさんは最近笑いません。姿も見せません。永遠のゴールデンタイムを私は真剣に楽しんでおります)。
ナマエが結局衰弱死してしまうのを横目に、私は未だに多幸感を覚えております。私は私を見て欲しかったのです。彼女は最期に涙を流しました。戻りたいと呟きました。私が愛しているのは心音が止まった彼女です。結果として、私はそれから二度とナマエに会うことは御座いませんでした。




20150723

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