短編 | ナノ

借りたものは返さなければならない。わたしは世の中で一番嫌いな家の前におりました。市街地からしばらく走って、日当たりのよろしくない通りのドン突きに、昔のお城をイメージしたようなそのアパートはあります。そこは兵隊さんが多く住む家だそうで、ただでさえ陰鬱とした雰囲気を力強く後押しするのです。
外壁に絡む蔦には時折蜘蛛が歩いていて、足の多い生き物が苦手なわたしは門をくぐるのでさえびくついてしまうのです。できればまた、わたしのお店にきてくださったらどんなに楽だったでしょうか(わたしの家は商売をしていて、彼はたまに訪れてはできるだけ小さくて高価なものをポンと買ってしまうのです)。

中指の第二関節、骨でコンコンとドアをノックすると、暫く、錆び付いた蝶番が耳に障る音を立てて、扉が少しだけ開きました。その隙間から気怠く手招きをされて、わたしは部屋に吸い込まれます。寝惚けたような表情で彼はソファに座るように促しました。


「あの、お客様からお借りした」
「それでしたら後の方が都合が良いので。紅茶はお好きですか?」
「お気遣いなく……」

本当はあまり好きでは無い紅茶ですが、差し出されてしまったのでわたしは意を決し息を止めてぐいぐい飲み干しました。舌を火傷してしまった。それを悟った彼は、呆れたようなそうでもないような掴めない表情を見せてわたしの隣に座ります。距離が溶けていきました。

「まったく、仕方ありませんね。見せてみてください。ほら、べーってして」
「うぇー」
「白くなってますね。氷でも舐めていたら治りますよ」
「あ、ごめんなさい」
「ああ、うちに氷はありませんので」
「え、はい……」

何もしないわけにも行かないので水をいただいて、のみたくもないから口の中に含んで転がしましたがこんな調子では治るものも治りません。触らなければ痛まないけれど、彼に会ったからにはそうもいかないのです。


「私の名前、覚えてくださいましたか?」
「………」
「ハザマですよ、ハザマ。嫌だなあ。もう幾度となく愛し合っているというのに!」
「愛してません」
「あら、一方通行でした?」

彼の笑顔は胡散臭いのです。初めて彼に会ったのもここでした。わたしは配達でこのアパートに訪れたのですが、部屋にはいつもいらっしゃった筈のお得意様の姿は無く、それどころか家具の配置も丸切り違って、代わりにいたのがこの緑色の彼だったのです。
彼はその日に越してきたのだと言いました。お得意様の転居先を伺って(彼は大概の情報に精通していました。職業柄なのだといいます)そのまま退散するつもりが、わたしは、彼に押し倒されてしまったのです。
彼は美しい人でした。とても。男性に用いる言葉ではないナンテ承知であります。ただ彼はひたすらきれいな金色の目をしていて、それをもったいぶるように少ししか見せてくださらないのです。儚い人だと感じました。そしてわたしは、彼に一気に惹きつけられてしまったのです。

「先日まで処女だったのに、はしたないですね」
「ちがいます、今日はただお借りしたものを」
「差し上げたつもりでしたが。まあ結構ですよ。そういう律儀なところ、気に入っていますから」

彼はわたしを抱き寄せて、髪に、額に、瞼に頬にキスを落としました。自分が侵されていくのを感じるのです。緑色で、ちょうど蔦のように細い彼がゆっくりと確実にわたしに侵食して生活し始めるのです。からまってしまったものはそう簡単にはほどけないようにできていることを彼が教えてくれたのです。できれば一生知りたくなかった。

「強姦だった」
「先日ですか? 特に抵抗なさらなかったじゃありませんか。そういうの合意とみなされるんですよ」
「それは、蛇に睨まれた蛙みたいに」
「蛙は蛇に見惚れたせいで動けなくなるんですね。勉強になります」
「そんなんじゃなく、て」

やわらかく服を脱がせながら、彼の舌が身体を這っていくこの儀式を、わたしは言われた通りはしたなくもどこかで期待しておりました。わたしはここに来るのが嫌いなのです。だって、自分のきたないところをすべて曝け出されてしまう気分になってしまうのです。
よく磨かれた窓ガラスに、黒くて大きな彼は巧くわたしに被らないように映っておりました。わたしの地肌は余すことなく反射して、それはとても自分とは思えないのです。たとえば自分の皮を被った獣であって欲しいのです。

「こんなのわたしじゃないのに」
「これは貴女ですよ。間違えなく、可愛いかわいい働き者のナマエさんです」
「ちがうの、わたしの中の別の人なんです。ハザ……マ? さんもきっと別の人です。そんなにきれいな人が、こんな汚らしいことをするはずないんです」

彼は美しい人なのです。造形なんて、どこをとっても黄金比なのです。こんなに緑色の髪が似合う人をわたしは知りません。こんなにすらりとした均整の取れた背格好にわたしは初めて出会ったのです。
彼は普段通りの挑発的な笑顔を崩しませんでした。頭を撫でる手に力が込められて、髪を引っ張られてしまいわたしは痛みで目に涙が浮かびます。

「い、痛い! ハザマさん痛いです!」
「よかったですね。私がもし別の私でしたらこの程度では済みませんでしたよ。つまらないことは仰らないでください。貴女は一目惚れした相手に何の考えも無しに股を開く売女以上の何物でもないんですから」

彼の糸目は冷たく開かれておりました。わたしは世の中で一番嫌いな家の中におります。借りたものなんて何も無いのに、自分を暴かれる背徳心と、少しばかりの恋慕にうつつを抜かしているのです。


20140311

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