短編 | ナノ

※夢……?


 どーん、と、場違いな程に大きな音がして目が覚めた。連日の徹夜が祟って昨日は夕方のうちに眠っていた。机に突っ伏したままの姿勢のせいで腰が痛む。
 短針は三と四の間を指している。布団に入って寝直すには先刻の音と、衝撃が凄まじかったので、私は作り差しの書類に手を付けることに決めた。

「すまいざ……ごうよ、はお」
「はい?」
「すまいざごようはよ! んくとーげ!」

 暫く、部屋のドアがガチャリと控えめな音を立てた。余所行き姿のままのナマエが言葉を逆さに紡いでいた。

「……何を言い出すかと思えば。げーとくんとは一体誰の事かな」

 いつになく神妙な面構えをしているから一体どんな異常が起こったのかと思ったが、間違えに気付いた彼女は戯けるように笑った。わざわざ相手をしてやる義理も無い。
 そのまま作業を続ける僕に、彼女は近寄り、不機嫌そうに書類を手で覆った。

「邪魔なんだけど」
「はんじへ?」
「はじんへ、じゃないかな」
「あっ! また間違った」

 返事は、と言いたかったのだろう(彼女はあまり頭の回転が早い方とは言えない)。逆読みした日本語を正しく口にできない彼女は書類の角をくるくると丸めながら「んくとー………んくーとげ」と口を尖らせた。

「さっきから何のつもりかな。私、こう見えて忙しいんだよ」
「あたらしい国作るのに?」
「分かってるなら手、どけてくれ。君と違って暇じゃないんだから」
「夏油くんと違ってわたしは暇だから構ってよ」

 だったら帰ればいいじゃないかと言い掛けた口を噤んだ。それを言ってしまえばナマエは本当に家に帰ってしまうだろう。相手にされなかった哀しみから他の男の肌を求めるだろう。私の目指す新世界に彼女のような呪力を持たない人間は存在しない。してはならない。なのにわざわざ守護対象である「普通の人間」の出入りを許しているのは一重に私が「ただの男」であるからだ。特に理由も無いが愛しいし、知らない輩に乗り換えられたら腹も立つ。
 そんな私の気持を知ってか知らずか、彼女は私の背後に立って、折角結えた髪を解いては三つ編みだとか二つ結びだとか、散々いじりながら「暇。まひ」と無意味に呟いていた。

「んくーとげ、てっまか」
「さっきから一体何なの」
「ごくこ、い……しらたあ」

 あたらしい国語と言いたいのだろう。詰まりながら彼女が倒語を述べる。それは私が目指すあたらしい世界の在り方に倣うものに他ならないのだろうが、もっと別のやり方は無いのだろうか。

「なかいなれくてせか聞かのたい付い思をとこなんそに急てしうど」
「え? なかいな……れく、え? ごめん夏油くん、メモするからもっかいゆっくり言って!」

 そしてその「あたらしい国語」とやらは彼女にまだ根付いていないらしい。
 確かに呪霊には逆さ言葉を使うモノもいる。ただ彼らは単に逆読みをするのではなく、その音をそのままひっくり返してしまうのだ。たとえば「おやすみ」を「いむさよ」と発声するように、録音した音声を逆再生するかの如く話す。ただの逆さ言葉とは違い響きは不気味に耳に落ちるだろう。
 まあ、頭の弱い彼女にそこまで求めるのはあまりに酷だろうから黙っていることにした。これ以上意思疎通が困難になってはかなわない。

「ところで知ってる? 死に衣装が左前な理由」
「ヒダリマエ? 何それ」
「……そこからか」

 一般常識と思っていた左前の説明から始めなければならないのか。少しうんざりするけれど仕方が無い。まず和服は右手前と言って、と説明すると彼女はシャツのボタンを弄りながら「男物って左前だよね」と言った。

「つまり男は死んでいる……?」
「洋服の事は知らないけど。私が何を言いたいかわかるかい?」
「わかんない」
「普通と逆って言うのは縁起が悪いんだよ」

 死者を生者の領域から隔絶する為に、古来から死人には生きている者と逆の振る舞いを演出していた。死者の世界はこの世とあべこべになっていて、この世が昼ならばあの世は夜とか、昔の日本人はそう信仰していたのである。
 呪術を使うと言ってもあの世を直接見たわけでは無いので真偽の程は知らないが、とりあえず、私は彼女がその世界に一歩でも足を突っ込むのが嫌だった。これから殺す予定の彼女であるけれど、少なからずそれまでは同じ世界に生きていたいのだ。
 その本心も知らずにナマエは「へー」と気の無い返事をしながら書類の隅にペンを走らせる。ひらがなで綴られた言葉は正順の日本語であり、恐らくこれから私に投げ掛けたい言葉なのだろう。

「よくわかんないけど、死んだら逆になっちゃうのか。だったらわたし歳取ったらおばあちゃんじゃなくて赤ちゃんになっちゃう?」
「それが輪廻転生の正体かもね」
「へー、だんなうそ」

 言いながら彼女は私の前で、手を払うような仕草をした。
 背筋が凍るような動作だった。先程までヘラヘラと笑っていた筈の彼女の顔に血の気が無い。目はどんよりと曇っていて、心無しか温度も冷たい気がした。

「れそ、よいなてっ違間」
「急に何だよ。変な事ばかり言ってないで……」
「にせくるてい付気」

 まさかと思った。そうであれば最初の内に気が付いていたはずだ。「もしかして」言うや彼女は両手の甲を合わせるように、『普通とは逆に』拍手をした。

「さっきの音って、もしかして」
「ねでいな見、外」

 逆拍手をやめた彼女は死人のような面構えのままベランダを指差した。
 私の知る彼女はこんな悪ふざけをしない。出来る程教養が無い。ならばこの彼女は誰なのか私はもう理解している。しかし、納得したくない私は「もしかしたらまだいるかもしれない」彼女を追う為にベランダに走った。

「あーあ、見ないでって言ったのに」

 真後ろから冷たい声がする。

「んくーとげ」
「に、な」
「よるてしいあ」
「……うそ」

 あたらしい国語を話した彼女の気配が消えていく。
 外には先の大きな音の答えがベシャリと潰れていた。

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