短編 | ナノ

「先輩、煙草吸うんですね」

 自室のパイプと薄いマットレスだけで構築された寝具とは違う、過度に広く過度に柔らかいベッドが眠気を増長させる。少し気を抜けば持って行かれそうな意識の中、涸れ掛けのガサガサした声でナマエは青と橙の光に呟いた。
 その指摘にイデアは跳ね上がった。彼女はもう寝ているものだと思っていた。多量のニコチンだとかタールだとかを含む咳をしながら左指に摘んだ煙草を慌てて灰皿に押し付ける。消さなくていいのに、と彼女がもう一度呟いた。

「お、オタクは煙草に憧れるものでこれは……!」
「先輩が追っかけてるあの休載続きの漫画、ヒロインが煙草吸ってましたよね」
「ああ、あれね。二十周年ですと。そりゃあ拙者も歳を取りますわな」

 脱ぎ棄てた服からラッキーストライクのソフトパッケージをまさぐり、イデアは自傷気味に笑った。豪奢なホテルの一室に言い様の無い紫煙が立ち込める。
 ソノにおいにわざとらしく咳払いをしたナマエは、ほとんど力が残らない片腕で上体を持ち上げて言った。いつからですか。前から。黙ってたんですか。聞かれなかったから。尋問のような会話の合間にもイデアはわずかに残った火種の先を肺に吸い込んでいる。

「ライターは?」
「髪があるから、たまにアルコールランプとかも使うけど」
「便利、サバイバルとかなっても、先輩がいたら生き残れちゃうのかも」
「幻滅した?」

 イデアは常日頃から陽キャを目の仇にしていた。我々オタクのような陰の者とは相いれないンだと早口でまくし立て、羨望し、しかしどこか嘲っている。そんな自分が陽キャの代名詞たる喫煙を嗜んでいると知れば彼女はどう思うだろうか。
 正直なところ彼女の前で喫煙をひた隠しにするにも限界だったのだ。学園を卒業し就職、企業のエンジニアとして働く傍らシュラウド家の長として各所と交流するストレスは小心者のイデアには耐え難いものだった。いつでも彼女に会うことが出来るのならば心労も募らないのだが、卒業の為に人一倍勉学に勤しむその小さく哀れな姿を目にしては我儘も言えなかった。とか言い訳をしながら消費する本数が一本また一本、一箱と増えていったのである。
 火元を詰りながらイデアは「ちゃんと消臭剤用意してるから」と的外れな気遣いをして見せた。もはや喫煙は日常の一動作で、慣れた手付きで二本目に手を掛ける。

「してません」
「……え、ほ、ほんとに? 拙者みたいな陰キャが何かっこつけてんのプギャーって思わないの?」

 切っ先を毛先に宛がうと、ボゥ、と葉が爆ぜる。火種が大気に消えない内にフィルターを齧り捨てた。尖った歯の隙間には綿が残る。ソレを、舌で追いやりながらイデアは片手で彼女の背中を撫でた。

「わたし、ちょっと悪い人が好きなんです……イデア先輩って知らない人が見たらとんでもない犯罪者みたいな怖い顔してるから」
「心外ですぞ! 拙者は善良で模範的な人間で……確かに目付きとか笑い方とか悪人面なのは自覚してるけど内面は知っての通り引っ込み思案で臆病で」
「三年生の後期から煙草吸ってるのに?」
「なにゆえそれを!」

 匂いが違ったから、と彼女が言い、臭いが違ったのか、とイデアが笑う。自分の在学中に彼女はよく寮長室を訪れては深呼吸して、ここが一番安心すると漏らしていたのを思い出す。

「最初はいやだったけど、段々……先輩のにおいと煙草のにおいと、混じってくのが面白くって、どんな風に吸ってるのかなーって思ったら大好きになっちゃってたんです」

 わたし、変でしょうか。目元はわざとらしく困って見せるのにどこか小悪魔じみた顔で尋ねる彼女にイデアは腹の底から幸福を覚えていた。何をしても肯定してくれる他人がここまで愛しいとは、シュラウド家の呪いに縛られていた頃の自分には想像も出来なかっただろう。

「ねえ、ナマエも吸ってみない?」
「長生きしたいからいやです」
「ふー……そっか。一口でよかったのに」
「それにわたしまだ成人してませんし」
「じゃあ一年後にまた誘ってもいい? 僕と同じにおいになってよ」

 掠れ声が何と返答したかは分からない。裸のままの彼女にもう一度肌を重ねながら、イデアは火種を灰皿に擦り付けた。

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