短編 | ナノ

故人は昔から、厳しい中にも優しさが垣間見え、暖かな存在でありました。不運にも逝去した故人に、生前、皆様に大変親しくお付き合い戴いたこと、改めて御礼申し上げ──

 又従兄弟が逝去した。病死だった。歳はわたしの六つ七つ上を数えるばかりだった。彼は明るくって優しい、文字通り素晴らしい人だったので、受付の時分から大勢の弔問客は鼻を啜り、幾人かは芳名帳を涙に濡らしている。

「本日はご多用の中ありがとうございます。恐れ入りますが、こちらに御記帳をお願いいいたします」
「この度はご愁傷様で……ご親族の方ですか」
「はい。遠縁ではあるんですが」
「はあ、彼は幸せ者ですね」

 最早定型文を述べるようなわたしの挨拶に、その列席者は労わるような声を掛けて下すった。記帳を垣間見るに又従兄弟の同僚らしい。彼は、若干乱れた髪を片手で撫で付け様に香典袋を懐から取り出した。ソレから念押すように「ご愁傷様で」と呟いた。
 夜露に濡れたような真っ黒い瞳が印象的であったものの、若い故人を偲び矢継ぎ早に訪れる弔問客に、ついぞ彼の名前までは確認出来なかった。

 ところで式は、コレまでに参列したどの通夜より凄惨なモノだった。伯母さんは一人息子を亡くした悲しみに正気では居られず控室に引っ込んでいた。交際していたと思しき若い女性は焼香の折にその場に泣き崩れ大声を上げ、親戚の小さい子供は「お兄ちゃんなんで寝てるの?」とその場を涙に覆う台詞を無邪気に述べる。ソウあったら逆にわたしのような、小さい頃に数度会った程度の遠縁が悲しみに暮れる訳にもいかない。
 せめて無礼の無いよう振る舞わんと気を張るわたしの姿は傍目に好評だったらしく、通夜振舞いの席では幾度会ったか判らン親戚に「俺の時も頼んだぞ」と背中を叩かれてしまった。





「ナマエ、香典袋どこにやったか覚えてる?」
「この前ので無くなったと思うけど、どうしたの?」

 初七日が明けてすぐの事である。
 件の通夜で又従兄弟の逝き先を尋ねていた男の子が、今度は事故で亡くなったらしい。轢き逃げで、相手方も大怪我を負った筈なのに現在のところ一切の手掛かりが掴めていないと来た。
 クリーニングを上がりたての喪服に慌ただしく袖を通しながら「ナマエは来なくてもいいから」と母が言い、黒ネクタイを締める父は悪い事は重なるもんだと溜め息を吐く。わたしにとっては確かに名前も知らない子ではあるが遠縁を想うとあまりに不憫である。

「今日は遅くなるから、夕飯一人で食べちゃってて」
「うん。気を付けてね」
「お塩玄関先に置いといて」

 先日親族一同に顔が知れてしまったので留守番をするのは心苦しかったが、もう二度と、あんな、空気は御免である。三十付近の独身男性と違い今回は幼児なンだから想像しただけで力が抜けた。
 ただわたしは、コレに是が非でも参列すべきだったのだ。若し第六感とか、優れていたンならこの時すぐにスーツのまま二人を追っ掛けていただろう。





「香典貧乏なんて聞いたことないぞ」
「お父さん、そんなこと言わないの。あら、袋が足りない……コンビニ寄ってから行きましょうか」

 ナマエは家にいていいからと母がまた言った。遠縁の男の子の次は会ったことも無い親戚の死去である。確かおじいちゃんの弟の息子の奥さんとか、父は小さい頃にお世話になったらしいけれどわたしにとっては最早他人である。
 ソファに寝転びながら「お塩用意しとくからー」とわたしはだらけ切った返事をしていた。一ヵ月と経たない間に立て続けに身内が死んでいく。そろそろお祓いでも頼みに行くか、とか父が頭を抱えていた。





 一人娘のわたしは配属先が地元近くになった為に実家から職場に通っている。ソノ所為で退社後一人羽を伸ばす機会は無かった訳だが、今週末に限っては家が開くことになっていた。
 懸賞趣味の母が、何かの雑誌で二等の旅行を当てたらしい。見慣れた出版社名が印字された封筒を掲げた母は年頃の女子のように飛び跳ねて喜んでいた。ペア宿泊券は当然父との二人旅に使うと言う。

「最近物騒だから、夜はちゃんと戸締りするのよ」
「はいはい。いってらっしゃい」

 ごゆっくり、と付け足して、週明け月曜まで跨る三連休の始まりを謳歌していた。隣県の温泉街が目的地であるが、あの様子なら二人は三日目の夜更けまで帰らないだろう。
 ただ、まア、家に誰もいないからと言って友人を招くような歳でも無いし、結局普段と変わらない調子で時間を浪費していた。実家とは普段過ごす分には窮屈であるが、一人ぽっちであると例えば、ソウだ。自室で寝転んでいる最中に電話が鳴ったら無視を極め込んでしまう程度には広いと思う。

 日曜の夕方にけたたましく響く呼び出し音を、わたしは聞いて聞かないフリでやり過ごしていた。父サンとか母サンとか、職場にしたって急用があればスマートフォーンに直接一報入れる筈である。しかし電話は鳴り止まず、ついぞわたしはスウェットのまんま立ち上がった。

「はーい……どちら様でしょうか」
「警察です。急なお電話恐れ入りますが、ミョウジさん夫妻のご家族の方でしょうか? すぐに署までお越し頂きたいのですが──」

 電話口の男性は急を要しながらもどこかこなれた声色で状況を説明する。両親が事故に遭った。その内容があまりに非現実的だった為にわたしはかえって冷静に、車が無いのでバスで向かいますと返答していた(タクシーを拾えばいいと気が付いたのは乗車後のことである)。
 そんな風に、悠長にしているから親の死に目に会えないのだ。
 到着するなり霊安室に連れられたわたしは、電話の主と思しき警察の方に「顔を見るのはおすすめしません」と告げられていた。警察署にも霊安室ってあるんだ。アー、他人事みたいだ。父と母は全身を強く打って死んだらしい。幸いなことに即死だったと言う(どの口が幸いと言うのか)。

「非常に申し上げにくいのですが、ご両親は轢き逃げに遭いまして……」
「アハハ、だったら車、壊れてないですよね。よかったー、うちの近所ってスーパー無くて、買い物には車が必須で……すみません、後にしていただいてもいいでしょうか」

 人間、あまりに不幸な事が起こるとまともではいられなくなるのだ。両親が死んだ。殺された。犯人の物と思しき車はガードレールを突き破り用水路に浸かっていたそうで、当人も只事では済まないと見られているが一向に足取りが掴めていないらしい。
 フッと先日の、遠縁の男の子が死んだ件を思い出した。アレも轢き逃げで犯人は恐らく重症とのこと、そして足取りが掴めていない。
 警察官は検死だとか検案書だとか難しい単語を吐きながら神妙にわたしに会釈をし、名刺を差し出し出て行った。あーあ、これからどうしよう。まったく、自分の意思が定まらない所為で、わたしはそのまま来た道を折り返している。





「故人は昔から、厳しい中にも優しさが垣間見え、暖かな存在でありました。不運にも逝去した故人に、生前、皆様に大変親しくお付き合い戴いたこと、改めて御礼申し上げる次第であります」

 警察からの連絡を以てヤット両親を火葬する運びとなった。この数日間、現実離れした気持ちで祖父母に連絡をして、各所に挨拶を入れて、この場にはわたしの知っている顔や知らない顔がズラリと並び両親の死を悼んでいる。

「尚、明日の葬儀及び告別式は午前十一時を予定しております。お時間御座いましたら、何卒、お見送りをお願い致します」

 葬儀屋から渡された原稿をただ読み上げるだけの通夜なのにどうして親族はわたしに「立派だ」と声掛ける。その口振があんまり無責任なので参列客が引いた隙を見計らってわたしは一人裏口を歩いていた。
 雪でも降り始めそうな寒さが薄い喪服に心地良い。葬儀場は街灯りから度合い外れた場所にある為に、普段より近くに星が見える気がする。両親が死んでおきながらカシオペア座を数えるわたしを又従兄や例の男児の近親は叱るだろう。
 後暗い気持ちに頭を掻いている時だった。弱弱しい風に煙が乗って来た。

「喪主がこんな所で油売ってていいのか?」
「あ……ご会葬の方でしょうか?」

 植え込みに煙草を押し付けた彼はすぐさま新しい一本に火を点けて溜息交じりに煙を吐いた。

「お前みてえな娘を持って、両親は幸せ者だな」
「あっ、お兄ちゃんの時の!」

 特徴的に揃えられた顎鬚と几帳面に整えた頭髪、何より夜露そのもののような真っ黒い目玉にはよくよく見れば覚えがある。
 この男が又従兄の通夜に参列していたものだと気が付いたのは一瞬の事だった。口調は先日と比較にならない程度荒いが、彼はあの時と同じようにどこか違う立場で誰かを悼んでいる。

「あの、お兄さん……? って、父の知り合いだったんですか?」
「尾形」
「尾形さん?」
「立て続けに死人が出てお前も大変だろ。愚痴でも金の工面でも付き合ってやるから、連絡先教えろよ」

 彼は片腕を伸ばしてわたしの肩を引き寄せた。ソレから、口端に煙草を咥え胸ポケットから携帯を取り出す。パッと明るい画面に目が眩むわたしに「さっさとしろ」と無遠慮な声が降り掛かかった。
 そもそもこの人は誰なのか、どう言う縁なのか。確かに顔見知りではあるが、今の祭祀場の裏口には似つかわしくない。ソウ云ったわたしの不信感を上から塗り潰すように「尾形さん」は相続の手続きや生命保険の請求、香典返しのおすすめサイトと言った現実を置いて行く。
 実用的な知識を鵜呑みにするわたしに尾形さんはもう一度「連絡先」と言った。

「アプリで良いですか?」
「……ああ」

 トークアプリを開くわたしを彼は、また性質の違った溜息で迎え入れた。連絡先が一つ増える、尾形さんは顔に似合わない猫のアイコンからひとつスタンプを吐き出した。





 翌日の葬儀に尾形さんは現れなかった。記帳には確かに彼の名前があるので、恐らく、親戚に突き回されていた最中に焼香を上げてくださったのだろう。ただ名前と電話番号はあるものの彼の住所が見当たらない。
 火葬、初七日法要を終えていよいよ香典返しの段階となり、彼から教えて頂いたウェブサイトを眺めながら、わたしはやはりどこか他人事のように両親の死を受け止めていた。警察からの連絡は三日に一度、どれも確認ばかりで一向に進捗の報告が入らない。ソンナ中で、極力忙しなく動こうと思い返礼品の住所を手書きしている。
 だからその尾形さんの住所についてもどう尋ねたら良いものか分からなかった。あの日は流れで連絡先を交換したものの、どう言う動機で彼を頼ったものか分からず結局翌夜にスタンプを送り返した切りである。
 彼の住所ならば又従兄の近縁を辿れば当然手に入るだろう。ただソレはあまりに不躾である。だから「ご無沙汰しております。住所が白紙でしたのでお伺いできませんでしょうか」「もしお時間ありましたらお礼を兼ねてお渡しに行けませんでしょうか」といった文章を書いては消し書いては消していた。

「うわ、え、通話?」

 問題の彼を一旦無視して他の住所に取り掛かっていた時、消音したスマートフォーンが着信を示した。画面上部に「尾形百之助」と名前が踊っている。正直な所、わたしは、誰かと話したかったのだ。それも会話ではなく一方的にわたしが喋舌って、相槌を頂戴し、同情されたり肯定されたりしたかった。

「は、はい。どうされましたか?」

 だからその呼び出しに緑色のボタンを押した。電話口の尾形さんは開口一番短く笑うと、大変だったろ、とか知ったような口を聞いてくれた。

「調子はどうだ」
「アハハ、まだ他人事みたいっていうか……忙しくて悲しんでる暇も無い感じです」
「だろうな。書類関係は終わったか?」
「まだそこまで手が回ってない……ですね」

 一人で住むには広すぎると思っていた実家も、返礼品の詰まった段ボールが何台も積み重なっては最早収集が付かない。父の死去でこの家のローンは免除されたと聞くけれど、実際の手続きをいつ行うモノかも分からないのだ。
 ただそう言った、わたし個人に係る出来事は一旦後回しにしようと考えていた。限定承認の申請でさえ死後三ヶ月が要件なのだ。今慌てて弁護士事務所に駆け込もうものなら、それこそ昔気質の親戚一同に針で刺されるに違い無く、無心に住所を書き上げるわたしの姿を尾形さんは電話口から察したらしい。
 そう言えば住所を書いていなかったな、と彼はアプリ越しに××区の、とか住まいを早口に読み上げた。そして、「何なら今から手伝いがてら受け取りに行く」と言った。





 尾形さんが実際に訪れたは夜更の事だった。準備に手間取ったのだと、彼は言いながら玄関先で靴を揃えるや、両親の祭壇にいち早く進み合掌している。わたしは普通の精神状況に無いんだと思う。こんな、二度ばかり葬送で出会った人を女一人の家に招いている。けれど横から見た正座の美しさは彼が祖父母に育てられたことを証明していて、ソレから記帳にあった有名企業と主任と言う職位から、少なくとも妙な事をする人では無いと安心していたのだ。
 長らく線香の煙を鼻息で揺らした彼は途端に立ち上がり「手伝う」と予備の筆ペンを手に取った。わたしが知りたいのはそもそもこの人の現住所だった。ただ山積みの用紙を前に特段断る理由もなく、お茶を勧め尾形さんが紡ぐ文字をテーブル越しに盗み見ている。

「俺の時は勝手にあっちが発送までしてくれたんだがな」
「そういうサービス料みたいの、ちょっとケチっちゃって……」

 小さく声を摘みながら尾形さんはサラサラと筆ペンを走らせていく。十、二十三十、四十、父の職場関連への宛名書きが終わった事をキッカケに彼は眉を顰めて顔を上げた。

「外行ってくる」
「外? あ、夕飯……何か取りますけど」
「いや、そうじゃねえんだが」

 胸ポケットのライターをチラつかせながら尾形さんは、キッチンの換気扇下とかベランダの室外機上をざっと観察していた。父も母も、もちろんわたしも喫煙はしない。だから気遣ってくれているのだろう。
 予期せず加勢してくださっていたのだから、とても寒い中追い出すつもりにはなれない。良いですよ、と、空き缶に水を張って換気扇下を促すわたしに彼が会釈した。

「ナマエ、お前親と仲良かったんだな」
「え? あ……あの写真ですか」

 食器棚の上に並んだ江ノ島での記念写真、壁に画鋲で留めた母の日のイラスト、初任給で買ったマグカップはとうとう使われず置物になって、埃も被っていない。ソウ言った細々した「家族のおもいで」を、灰皿を探す傍ら尾形さんは観察していたんだろう。
 言われて気が付いた両親との繋がりが急激にわたしを現実に引き戻していく。あ、もう思い出って増えないんだ。これからわたしってひとりなんだ。

「……今のはさすがに俺が悪かった。別に傷付けるつもりは無かったんだが」
「違います、あの、尾形さんが悪いんじゃなくて……わたしひとりだって思い出して」

 実家に帰って得する事なんて家賃光熱費が浮く事ぐらいだと思っていた。一応入れていた生活費をお母さんは一円も遣わずにわたし用の口座に結婚資金ごと貯めていてくれた。こっちに戻ってからお父さんは休日のゴルフを控えるようになったって聞いた。毎日起きると朝食があって、帰るとあたたかいご飯とお風呂があったのにあの日からわたしは冷凍食品をたまに摘まむばかりだ。
 こんなの一人暮らしの時には考えたことも無かったのだ。どうせ、帰ったらお父さんとお母さんがいると思っていたのだ。帰っても誰もいない。

「一人か」

 尾形さんが火を点けた煙草の煙が換気扇に吸い込まれていく。一緒に彼のくぐもった声も轟音の中掻き消えそうだった。

「尾形さんもひとりなんですか」

 別にこの人で無くても良かったのかもしれない。わたしが一人だって知っていて助けてくれる人なら誰でもよかったのかもしれない。返事の代わりに尾形さんは、点けたばかりの煙草を空き缶に沈めてくれた。

「俺は結構前からなんだが」
「どれぐらいかかりましたか?」
「一瞬か今まで引きずってんだか、自分でもわかんねぇな」

 彼は「そんなもんだろ」と初めて笑いながら初めてわたしの手に触れた。故人は、これからのわたしの言動にどう文句を吐けるだろうか(お母さんって結構口煩かったんだ。彼氏が出来たとか言うとすぐどんな人かって聞いて来た)(お父さんも口には出さないけど一々気にしていた)。死人に口なしとか傷の舐め合いとか、あまり褒められた意味で無い慣用句が頭を巡っている。わたしは相当間抜けた顔をしていたんだろう。煙が残るのに尾形さんは換気扇を止めて、わたしをソファに投げ放った。





「わたしの父と母は昔から、厳しい中にも優しさが垣間見え、暖かな存在でありました。不運にも逝去した両親に、生前、皆様に大変親しくお付き合い戴いたこと、改めて御礼申し上げますと共に、今日の門出を祝ってくれていることを願っています」

 あの日から丸二年が経って今日を迎えている。最初は又従兄の通夜だった。ソレはただのキッカケで、不思議な縁で結ばれたわたし達はお父さんとお母さんの死から新しい門出に至っているのだ。
 あの日、ひとりであることを自覚してどうしようも無く不安だったわたしをこの人は救ってくれた。もし尾形さんがいなければわたしはとっくにダメになっていたかもしれない。

「わたしは今日から、百之助さんと二人で生きていきます。お父さん、お母さん、ありがとう。ほんとうは百之助さんに会ってもらって、素敵な人だよって自慢したかったな。天国から見守っていてね」

 ダメになる、とは精神的な意味と社会的なモノ両方である。怒涛の勢いで舞い込む相続名義変更その他手続きを尾形さんは慣れた様相で手伝ってくれたのだ。わたしに落ち込む暇を与えてくれたのもまた彼だった。
 結びに「本日はお越しいただき誠にありがとうございました」と定型文を言い退けて、わたし達の結婚式は無事に終了した。二次会はせずにゆっくり過ごそうと提案したのはわたしだった。

「飯、美味かったな」
「あの式場にして正解でした。おが……百之助さん、職場の方々の所って行かなくてもよかったんですか?」
「ああ。あいつらはもう使わねえし」
「使わ……?」

 夕刻前に家に着いた。式中に食べられなかったフルコースをキレイに包んでいただけたおかげで今日の夕食には困らないだろう。
 靴を脱ぐや尾形さん改め百之助さんは、いつものように父と母の仏前に正座してロウソクに火を灯した。手を合わせて暫く、彼が「なあ」と声掛ける。

「今日親と俺会わせたかったって言っただろ」
「え? はい、百之助さん、お父さんとお母さんに紹介したかったので。多分すっごく喜んだと思います」
「どっちも会ったことあるからあんま気にすんな」

 キッチン周りの壁紙はすっかり茶色く染まってしまった。換気扇の下で百之助さんが煙草を吹かしながら「良い親だったな」と呟く。
 彼がわたしの両親を知っているだなんて、考えたことも無かった。でもああして通夜に参列してくれたんだからお父さんの仕事の繋がりとか、お母さんの知り合いとか、だとしても少しも不思議じゃない。なのに何か引っ掛かる。
 彼は又従兄のお兄ちゃんと同じ職場の人だった。お兄ちゃんは母方の親戚で、お父さんと会ったこともほとんど無い。ほとんど関係無い。

「それよりお前こそ知り合いの二次会顔出さなくていいのかよ。さっきから電話鳴ってるぞ」
「あ……あ、そしたら、百之助さんも一緒にどうですか?」
「タクシー呼んでやる。あんま羽目外すなよ」

 今日の挙式にお兄ちゃんのお嫁さんは来なかった。昨年自殺したらしい。わたしも百之助さんも、縁が遠くて香典を書留で送った切りだった。生きていたら中高生ぐらいになっていたあの男の子はもっと血が薄いので今や名前も覚えていない。
 何故今更あの日の親族を思い出そうとしているのだろう。ひんやりとした違和感を背中にわたしは、彼の呼んだタクシーに押し込められていた。後部座席のドアが閉まる寸前に、百之助さんはスマートフォンの画面をちらつかせながら言った。

「遅くなるなら連絡しろよ。番号」
「アプリで、いいですよね」
「……ああ。気を付けろよ」

 この会話をもっと前にした事がある。電話なんて、掛けたらお金が掛かるんだからお店の予約以外で使った記憶が無い。





 彼との共同生活は上手くいって、いいや上手く行き過ぎていた。両親の三回忌での彼の立ち居振る舞いや準備の良さと言えばさながら冠婚葬祭のプロである。わたしだって余所行きの態度には自信があったのだが、ソレ以上に自然にすべてをこなす彼に「あー多分一生敵わないなア」と思いながら彼と結婚出来た自分の幸運に手を合わせていた。
 いつかの通夜振舞いの席で「俺の時も頼んだぞ」とか背中を叩いた空気を読まない親戚も彼のもてなしに骨抜きにされている。この子と俺の事は頼んだぞ、とか笑うオジサンを奥さんと思しき親戚が諫めている。アレから数え年で三年と経つと傷も幾分か癒えていて、悲しい気持ちは確かにあるけれどこのやり取りも微笑ましく眺める事が出来るようになっていた。

「百ちゃん疲れたでしょ。ビール飲む?」
「ああ。ナマエんとこの親戚、俺の家とはえらい違いだな」
「あっちはなんか、上流階級なんでしょ? うちは普通だから」
「父方の方か」

 両親の死と向き合えるようになった事だけでなく、尾形百之助との距離感が詰まったのもまた年月の経過を表している。いつしか敬語はやわらかい口遣いに変わり、意図して壁を作っていたような彼の所作は日常にふやけていた。ソファにどかりと座り込んだ「百ちゃん」は大袈裟に溜息を吐きながらテーブル上の書類に目を落とす。
 今回の法事で叔母から共済の案内を押し付けられていたんだった。生命保険の重要さならば両親の死で痛感している。「これ、書けばいいんだろ」気怠そうに百ちゃんは約款に目を通し保証内容を確認していた。

「叔母さんもうるさくて、ごめんね」
「印鑑あるか? 先についとくから」
「あ……朱肉無いから住民票取るのと一緒に捺してくるね」

 仕方無しに百ちゃんは必要事項にペンを滑らせていった。サラサラと首尾佳く書き連ねるその様にわたしは香典返しを思い出す。あの日、ほとんど他人の彼を家に招いたことから今日の家庭があるのだから不思議なものだ。
 住所、氏名、自分の携帯番号を書いた百ちゃんが契約用紙を差し出した。受取人の項目がぽっかりと空いている。
 受け取ったペンで用紙に自分の名前を書いた。住所は「同上」と記入した。生年月日と満年齢、続柄に職業を書き込んで、最後に電話番号に手を付けた。ゼロハチゼロ、続く八ケタを百ちゃんが覗いている。どうしてこんなにじっとり見られているんだろう。少し緊張して、下四桁が震えてしまった。ソレでも一応、完成した書面を百ちゃんは満足そうに取り上げて「やっと手に入った」と呟いた。

「手に入ったって?」
「最近はアプリで電話もメールも済んじまう。ったく、便利な世の中になったもんだよなぁ」
「急に何言い出す、の?」
「昔は電報とか手紙でやり取りしてたんだぜ? 現代っ子のお前には信じらんねえだろ」

 不安定に笑いながら彼は電気もろくに通らない昔の話をしてのける。声はわたしや壁や、仏壇に向かって淀みなく響いていた。やっと手に入った、もう一度呟いたソノ台詞は何か黒いモノを含んでいるようで背筋が凍る。彼のことを不思議とは思えど不気味とか、怖いとか思ったことは無かったはずだ。なのにわたしは今確かに恐怖を感じている。

「ナマエの電話番号が知りたかった。電話があったら、いつでも声聞けんだろ?」
「そんなのなくても、百ちゃんとはずっと一緒にいるし……え? あの、えっと、何言ってるの?」
「ったく良い時代だよなぁ? 一人一台電話持ってるとか、あの頃じゃ考えられなかったんだぜ?」

 彼の話す「あの頃」に心当たりがない。彼が、わたしの電話番号に執着する理由にも思い当たる節が無い。けれどこの人がそんな、たった十一ケタを求めていた経過には充分以上に覚えがある。

「百ちゃん、……違うよね、ごめん。わたし気分悪いから、ちょっと横になってくる」
「大事にしろよ。ああ、お前の父親も同じこと言ってたな。母親の方は娘には手を出さないでくれとか頭下げててよ。羨ましい話だな、両親からここまで祝福されて大切に思われてる人間がいるってのは」
「何、言って」

 又従兄弟が逝去した。病死だった。ソレは単なるキッカケで、次に遠縁の子供が死んだ。轢き逃げだった。顔も知らないほとんど他人みたいな親戚はどうやって死んだんだろう。暫くと待たずに親が死んだ。次もやっぱり事故死だった。同じく轢き逃げだった。
 ひょっとしたら知らないだけでもっとイッパイの人が死んでいたのかもしれない。又従兄弟の職場の人とか、あの子のお友達とか、近所に住んでいた人だとか。百ちゃんは何か憑き物が落ちたように明るい顔をしている。普段ほとんど変わらない表情は歓喜に歪んでいて、心なしか紅潮しているようにも見えた。まるで子供が、ズット強請っていたオモチャを手にしたような、ソンナ無邪気な笑顔だった。

「一目見た時からお前の事が気になってたんだ。もう一度会うにはどうすりゃいいか考えたんだよ」
「ねえ、ちょっと……」
「あのいけ好かねぇ同僚と親戚なんだって言うからガキ轢いたのに、お前、通夜に来なかっただろ」
「百……ちゃん?」
「本当はあの口うるせえオッサンを何とかしたかったんだが、まあ、遠回りしただけあってナマエの親に辿り着けたんだから良しとするか」
「……意味わかんない! もうやめてよ!」

 三回忌中、連日着ていた喪服を脱ぎ捨てながら彼はスマートフォンに手を掛けた。ゼロ、ハチ、ゼロ、書類にしたためたわたしの番号が画面に光る。緑の電話マークを押す前にわたしの着信が鳴った。市外局番に末尾の並びには確かに覚えがある。
 どちらの電話にも、今出てしまえばようやく見つけた幸せな生活が弾けて消えてしまう気がしたから耳を塞いだ。着信音は一度途切れて、間髪入れずに携帯電話を揺らしている。目の前の彼も急に饒舌になった口を止めずに何度も何度も発信ボタンを押している。どんなに耳に手を当てても耳穴に指を突っ込んでも聞きたくないと精一杯叫んでも鼓膜に二つの音が張り付いて離れない。
 通話ボタンを叩き付ける動作をやめた彼は繋がっていない受話器に向かって言った。

「身内が死んだらまた葬儀でお前に会えるだろ?」
 




――お久しぶりです。警察の者ですが、二年前のご両親の轢き逃げ事件について犯人の目星がつきました。他の事件でも容疑が掛かっている人間で……

 今日も彼は仏前に正座して、線香を焚いて合掌している。リビングはフローリング張りなのにおばあちゃんの家のような香りが漂うこの情景にも慣れてしまった。
 彼との生活は何不自由無く幸せだった。ベッドから一歩も出なくても彼はお金を稼いで食事を用意して、身体を拭いてコンタクトの付け外しまでしてくれる。召使のように粛々とわたしの世話をしてくれる彼との生活は前までとは違うけれど気楽だった。

「もしもし、今から帰るが何か欲しいもんはあるか?」
「ない」
「そうか。今日は客から菓子貰ったんだ。ナマエ、こし餡食えたか?」
「いらない」
「雨が降ってんな。洗濯はやり直すからそのまま寝とけ。ああそうだ、前話してた旅行の話だが都合が付いたから、次の土曜は予定空けとけよ」
「予定とかないから。ねえ、切るよ」

 帰宅に昼休み、移動の折には電話を欠かさない彼との生活を他人はお熱い夫婦だとか、誠実な旦那様だとか評するンだろう。何から何まで用意された生活は他所から見れば天国のように見えるンだろう。

「……故人は昔から、厳しい中にも優しさが垣間見え、暖かな存在でありました。二人を殺したのはわたしでした」

 電話が鳴っている。ソレが尾形百之助からの着信か警察署の方なのか、確認するのも億劫で電源を切った。部屋はやっと前までの静寂を取り戻している。
 わたしの式で彼はどんな顔をするんだろう。あんなに葬儀で会いたがっていた人なんだから笑顔になるに違いない。コレで皆にも会えるし百ちゃんも喜ばせることが出来るんだ。延長コードをドアノブに回す。少し怖いけど、もうそろそろいかないと。


20210505

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