短編 | ナノ

※P4の足立透さん( ネタバレアリ )




──ぴんぽーん


 テレビの中に真っ逆さまに、落ちて行ったはずの女の子はケロッとした顔で翌日僕の家を訪れた。思わず腰を抜かしそうになる僕と、裏腹に、彼女は昨日までと同じ笑顔を称えて「こんばんは」と話し掛ける。チェーンの壊れた僕の部屋の扉は外敵を防ぐことも叶わずあっさり侵入を許してしまった。
 女の子は、ナマエちゃんはまるで昨日の顛末がスッポリ無かったかのようにキッチンに立って夕飯を作り始める。今日は生姜焼きでいいですか? 家庭的な声掛けに僕は苦笑いしながら頷くことしかできない。

「お米お願いします」
「ああ、うん」

 単身向けアパートの狭いキッチンで、彼女は一口コンロの上に器用にまな板を敷き玉ねぎを切っている。サクサク、トントントン、その隣で僕は無心になって米を研いでいた。ジャリジャリジャリジャリ、ザーザーザー。炊飯器の内釜を使うのは無作法だって言われたからわざわざザルとボウルまで使って、僕って何してるんだろう。

「あのさ、ナマエちゃん?」
「お風呂ってまだですよね。時間掛かりそうなのでお先にどうぞ」
「あ、どうも……」

 この空間はどうやらナマエちゃんに掌握されているらしい。有無を言わせない問答に僕はたじろいだまま、米を水に浸して風呂場に向かった。ユニットバスは慣れてみたら案外使い易いんだよなー、とかいう普遍的なことを考えていないと頭がどうにかなってしまいそうだった。ナマエちゃんは僕が昨日殺したはずなのだ。
 きっとこれは夢なんだろう。真冬だけどわざと冷水を被ってみたら寒くて死にそうになったので温水に切り替えた。それでも十分過ぎるぐらい意識はハッキリしたから適当にシャンプーだけして部屋着に替える。大丈夫だ、脱衣所を出たらナマエちゃんはいなくて、水にさらされた米だけがシンクに落ちているはずなのだ。

「早かったですね。まだ掛かりますから座っててください」
「え……うん。ありがと」

 はずだったのにやっぱりナマエちゃんがいる。僕は頭がおかしくなってしまったんだろう。そうじゃないと、テレビに思い通りにならない気になってた女の子を落としたとか、それが起因となって殺してしまったとか、そのナマエちゃんが僕の家にいるとかあるはずが無いんだ。全部僕の妄想だ。一眠りでもしたら最初のアナウンサーとか、次の女子高生ごと消えてくれるだろう。寝よう、今日は疲れてるんだ。大体テレビに人が入るわけないし。僕は正常だ。
 しかし目を閉じても少しの眠気も起こらない。それどころか豚ロースの焦げる音だとか、醤油と生姜が弾けた匂いだとかに気を取られてどんどん意識がナマエちゃんに溶けていく。ナマエちゃんが料理の出来る子だったなんて知らなかった。それから僕が生姜焼きとか、実家で散々食べたメニューに惹かれるとも思っていなかった。

「あのさ……キミってナマエちゃん?」
「何言ってるんですか。もうそろそろ出来るから、お茶碗とお箸とか用意しててください」

 一番の想定外はナマエちゃんが僕の理想通りの女性であることなのだ。確か昨日、僕は事件にかこつけて職権濫用してナマエちゃんに詰め寄って、反応が思ったのと違ったからカッとなってテレビに落とした。死ぬっていうのは前の二人で重々承知していたから殺人の構成要件を満たしている( まあ再現性は無いんだけど )。それで、落ちてったナマエちゃんを見ていたら本当に僕ってこの子のこと好きだったんだーと思って悲しくなって泣いて吐いて、この子の遺留品の携帯電話を見たら例の甥っ子くんとのやり取りがあって「やっぱこの女もクソだ」って思って寝たんだった。多分。自信が無い。
 今日も仕事だったはずなのに働いた記憶が一秒と残らず抜け落ちている。寝る直前のことまでは覚えてるのに、それからまた女の子が行方不明になったんだからきっと慌ただしかったはずなのに具体的なことが何も思い出せない。
 仕事も手に付かないぐらい好きだったのかな、とか思いながらテレビの電源を入れると、今が最後にナマエちゃんと会ったその瞬間と同じ日付で同じ時間であることを左下の表示が告げていた。21時20分、田舎なら十分夜更け足り得る時間である。あれ、僕ってやっぱり夢とか見てたのかな。

「できました! 足立さん、一緒に食べましょう?」

 キャベツの千切りとくし切りのトマト、生姜焼きにお味噌汁と、冷奴に炊きたての米が独り暮らしの小さなテーブルに二人分ギッシリ並んだ。僕が風呂場で冷水を浴びていた時間なんてしょうみ五分にも満たないだろうに、どうしてこんなに完璧な食卓を用意できるんだろう。
 となると、ナマエちゃんを落としたことより現状が夢と言うことになる。こっちが現実ならいいのに。思っているとナマエちゃんが怒ったような、戯けたようなあのあどけない顔を見せた。そうだ。僕はこの子のこういう無垢っぽいところが可愛くて声を掛けたんだった。
 初めて見た時から変わらないナマエちゃんの笑顔に身体の力が抜けていく。「食べないんですか?」言われたから手を合わせて、それからキャベツを口にした。ドレッシング代わりの醤油は味気なく歯茎に刺さる茎が痛い。ナマエちゃんは箸も付けずに僕ばかりを見ている。

「あの、さ。そんなに見なくてもいいじゃん」
「だって足立さん、不味くても言ってくれそうにないから。顔色見とかないと不安なんですよ」
「大丈夫だって」

 大丈夫だ。トマトは砂のような食感でまるで味がしない。マル久豆腐店から貰ってきたと自称する豆腐は綿でも噛んでいるようでとても飲み込めたものでは無かった。
 手を加えていない筈の食材がどうしてこんなにも不快なのだろう。顔に出しちゃいけないと、思えば思うほど手が震える。このナマエちゃんは違う

「足立さん、いっつも事件の調査お疲れ様です」
「あー、まあ、仕事だからね」
「刑事さんってカッコいいですよねー。わたしも将来目指してみたいなー」

 この台詞を知っている。初めてナマエちゃんと会った時( アレは確か商店街のガソリンスタンドだった )まったく同じことを言われたのだ。その後すぐ例の甥っ子くんが割り込んできて、あー、今更何を考えているんだろう。
 ナマエちゃんはただの近所に住む女の子のはずだったのだ。実家がこの田舎で食べ物屋だか何だかしているから不健康そうな僕を気に掛けてくれて、休みが合えばご飯を作りに来てくれるただの思わせぶりのクズ女だったはずなのだ。わざとナマエちゃんの通りそうな場所でサボってたまたま会えた素振りをしていたんだから、帰ったら家にいるとか、あるはすがない。あまつさえ僕は彼女をテレビに落としたんだからこの世に生きている訳がない。

「ナマエちゃん今日も忙しかったんじゃないの? ごめんね」
「足立さんのこと心配ですから! 気にしないでくださいってー」


 もしかしたら全部丸ごと僕の妄想だったのかもしれない、なんて都合の良い事を考えてる証拠はこのいたいけな笑顔だ。こんなにまっすぐに笑ってくれる子が僕以外を好きなはずがないし。
 気が緩んだ僕はナマエちゃんが僕のために作ってくれた生姜焼きを口にした。口にしてしまった。

「刑事さんってすごいですよね。魔法が使えるんだから」

 ナマエちゃんが愉快そうに笑う。この数分で夢とか現実を行ったり来たりしていた僕は、ただ彼女の作った料理を頬張っただけなのに胃の中がひっくり返りそうになるぐらい気分が悪くなった。

「何のこと? え、勘弁してよ。魔法とか、あるわけ」
「足立さんわたしのことテレビの中に投げちゃったじゃないですか」

 ゴクン、彼女の気迫に押されてゴムのような食感の豚肉を飲み込んでしまった。視界のコントラストがまるで反転したような衝撃が走る。ナマエちゃんは僕が今まで見たことの無いような歪んだ笑顔を浮かべて昨日を回想し始めた。

「足立さんがわたしのことテレビに落とすから。でもわたしも黙ってそうされるばっかりじゃなかったんですよ」
「え、もしかして、ここって」
「わたしまだ言ってなかったことイッパイあるんですから」

 いつの間にか僕のワンルームが赤と黒の、女を二人落とした後と同じ、ギザギザしたあのテレビ画面みたいな色彩を放っていた。ナマエちゃんの瞳は黒っぽい色から卑しい黄色に変わっている。あ、これ知ってる。甥っ子くんの友達もこんな感じになっていた。あの時は面白くってテレビの前で酒がすすんだものだけど実際対峙したら嫌な汗しか流れて来ない。

「何の話? ナマエちゃん、あんまり大人のことからかっちゃダメだって」
「足立さん見かけより重いから、連れて来るの大変だったんですよ」
「あのさ、ナマエちゃん」
「よもつへぐいってわかりますか」

 ナマエちゃんを落としたと思っていた。しかしその実落とされたのは自分だったとか、あまりに情けないので知らないフリを突き通してシラを切ってやり過ごそうとかこの期に及んで考えたのである。やっぱり僕って勉強はできるけど頭はよくないよなー、当然そんな手が成功する筈もなく、ナマエちゃんっぽい影が笑った。

「好きな人が死んで、悲しいって言った男の人が死者の世界に迎えに行くんです。でも女の人、死んだ世界の火で作ったご飯を食べちゃったから帰れないって」
「古事記だっけ。ナマエちゃん賢いねー。期末テストに出るの?」
「足立さん、さっき食べたの何でしたっけ」

 あーあ、その理屈で行けばナマエちゃんは最初っから僕のこと好きだったみたいじゃないか。黄泉竈食ひ、イザナミノミコトに会いたかったイザナギノミコトは黄泉比良坂に彼女を迎えに行って、黄泉の国の神様と話を付けて、帰るから灯りを点けるなって言われてどうこう、イザナミが現世に帰って来られなかったのは死者の世界の食べ物を口にしたからだと昔古典の授業で聞いたことがある。
 だったら僕はイザナギでナマエちゃんがイザナミなんだろうか。逆でもさして変わりはない。こんな、僕みたいなどうしようもない人間が神様とか、ナマエちゃんの旦那さんとか、考えると少し嬉しくて変な笑いがこみ上げてくる。さっきまであんなにナマエちゃんが怖かったのに今となればただの好きな女の子だ。僕がテレビに落としたちょっと前までのナマエちゃんだ。

「どうしてこんなに遅く来たんですか。わたしはもうここで何回も、足立さんに夕食を作って待ってたのに」

 一日しか経ってないのに、最近の若い子って堪え性がないんだなー。昔話のまんまだったら電気さえ点けなればナマエちゃんを連れて帰って何もかも元通りだったはずなのに、ここでは元から白熱灯が煌々と点いている。つまりナマエちゃんは最初っから僕のことをタダで返すつもりはなかったか自分が戻るつもりがなかったんだろう。
 どんどんナマエちゃんの顔が歪んでいく。僕が惹かれた彼女の目蓋とか、輪郭とか髪とか肌とかは性格悪く澱んでいってアンテナに刺さった仏の顔と同化した。

「それでも僕は、ナマエちゃんがいいよ」
「……どうしてこんなに遅く言うんですか」
「それはこっちのセリフだって」

 イザナギは桃を投げたから現世に帰れたんだっけ。そんな物持ってるはずがない。このまま僕も彼女と一緒に黄泉に消えるんだろう。あーあ、せっかく甥っ子くんのこと丸め込めたって言うのに結局こんな落ちかよ。悪人は地獄に落ちるんだっけ。だったら僕、ナマエちゃんと同じとこには行けるわけないじゃん。

「僕のこと、同じところに落としてくれるの?」
「同じも違うもありませんって。やっとゆっくりお話できるの嬉しいです」
「ナマエちゃんに喜んでもらえると僕も生きてた甲斐があるかも」

 天国とか地獄とかもともとは無かったんだっけ。どうせ死んで同じ国にいくんなら道徳心とか捨てて、もっと面白いことしとけばよかった。
 ナマエちゃんの顔が、古事記のイザナミみたいに鎔けて行く。どんな死顔でもどんな状態でもナマエちゃんは僕が憧れた清楚な女性そのもので、どうしてちゃんと好きだって言えなかったんだろうなーって考えると悲しくて少しだけ泣いた。

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