短編 | ナノ

 わたくしにとつては月が綺麗かどふかは然程の問題では亡かつたのであります。わたくしは、わたくしとは、彼の人が安寧にあるのであれば構わないと考えた一介の田舎庶民でありました。わたくしは一生仕合せになれず、況ンや、わたくしの身辺が幸福に取り込まれる事すら起きなかつたので御座います。


月が綺麗かもしれませんね。


 月島課長が溜息を吐くのは今週で二十五、六回目である。
 火曜日の朝にわたしは印刷し損じた裏紙に正の字をしたためていた。課長と平社員、二人ッ切の旭川支店でわたしは日々この人の、独り言の多さや拘りの強さ、坊主頭をボリボリと掻く騒音に頭を悩ましていたのである。
 事の発端は菊田サンの急な療養にあった。ソレまでは三人の部署でソコソコ楽しく過ごしていたのだが、潤滑油のように滑らかで大人ッたらしい彼の逃亡( 私傷病を起因にお休みを取ることを弊社では逃亡と呼ぶ )を機会に日常が灰色に変わってしまったのである。わたしは離れ離れになってしまった憬れの尾形さんをイマジナリーボーイフレンドにして、月島課長は何を考えているのやらよう分からン迷惑げな顔をしながら、鶴見部長の指示通りに動いていた。指示通り、すなわち雇用契約書の語る通りである。月島課長は「営業、その他付随業務」の文言を厳守し、やれ請求書だやれ決算の資料やらの事務仕事や支店の清掃を含めた総てに真摯に臨んでいた。

「月島さん、あの、お時間あったら久しぶりにお昼行きません?」
「すまん。業務が溜まっているので今は遠慮しておく」
「……へーい」

 何もわたしは月島課長と昼食を共にしたいとか、ひとつも思っていない。けれど社会人、とりわけ営業職は上長に気に入られることがすべてなのである。菊田サン亡き今わたしは、必死に月島課長殿に取り入ろうと励んでいた。何ンと云ってもわたしは菊田サンのお気に入りだったのである。ところが月島課長はただの一片も隙を見せず、時折怖い目をして、ようようストレスを貧乏揺りに示して、わたしとひたすら一定の距離を保っていた。


( 事の動きは、とある接待の後である )


 どうやら月島課長には懇意にしている女性がいるらしい。ソレを察知したのは、彼が時折フューチャーフォン( このご時世に月島課長は未だにスマートフォンを扱っていなかった )を眺めては頬を緩ませる仕草を目撃した木曜の夜だった。彼には兄弟がおらず、母も亡くしており、唯一の肉親たる父親とは不仲で、地元の新潟を遠く離れ、動物をとりわけ好まず、つまりケエタイ画面を見て笑みを溢すのはオンナがいるからに違いない。
 ただの偏見妄言だと言われたらそこまでであるが、そう考えているとこの「業務を遂行するロボット」のような月島課長にいくらかの親近感が沸いて、若干だけ、日常が楽しくなるのだ。その接待の後、月島課長はいつに無く上機嫌な顔立ちでわたしに翌日の予定を尋ねてきた。明日は午前中に目医者に行って、午後に髪を切るばかりである。「特になにも」応えると彼はますます首尾佳くわたしの肩を抱いた。行きつけの店がここから数分歩いた所にあるらしい。今回は今季一番の売り上げを立てたのだから奢ってやると、月島さんは細い目を更に細めて、人懐こい口元をもっと緩めて、蛍光灯に照らされていた。

「しかしミョウジは案外やるもんだな」
「案外ってひどくないですかー。今日のは結構たまたまっていうか」

 わたしは彼と喋舌る際に意図してツタナイ後輩を演じていた。この年代の若者は所謂ゆとり世代であり、ソレを熟知した社会人にとってはチョットした無礼さだとかが一転愛嬌に見えるらしい。
 思惑通りに月島課長は頬を緩めて、挙句頭をガシガシと撫ぜ始めた。不思議と嫌な気がしない自分を見過ごせない。月島課長は、分厚い掌を置いたまんま店主に焼酎のお湯割りを注文している。カラリと鳴った氷の残響がいやに大きく聞こえた。

 何かが決壊するのはいつも単純な動機である。その音に、わたしの堰はどうどうと切られて本心で思っているかどうだか分からン疑問や、内心が溢れていた。「月島課長……さん」考えていたよりも幾分か低い声色はいとも簡単に彼の気を引いていた。

「どうした? ああ、セクハラだったな。すまん」
「そうじゃなくって、あの、彼女サンに申し訳ないのでヤッパリ帰ります」
「……彼女?」

 呆気に取られたような顔をしたかと思うと瞬間彼は眉間に深深と皺を寄せた。彼女、彼女と言うとあれか。どこか遠い目をしつつも焦点の合わない酔っ払いが途方も無く昔の話を思い語り始める。「あれは明治のことで」「はい?」と、あまりに突飛な月島課長殿の言葉に思わず大声が出てしまった。
 ソレでも月島課長は有無を言わせン調子で明治の日本を話すのだ。日清戦争、日露戦争、ジーエイチキューも登場しない太古は中学の社会科を思い起こさせた。しかし彼は、月島課長はソレをあたかも間近で体感したかのように当時を話す、話す。今の新潟で生まれた悪童基の物語をただ呆気に取られて耳に流し込むわたしの顔を特段伺うでも無く、泥酔に妄言を吐くでも無く、彼は淀む間も無く当時を回想しきった。彼女の生死は終ぞ不明瞭だった。

「今の彼女には当時の記憶は無いらしい。まったく皮肉なものだ。俺ばっかりが百年前を覚えていてそれも伝えられずに……ああ、他人に話すのは初めてだな」
「あ、はあ……。よかったです」

 何が「よかった」だ。小馬鹿にされているだとか思えないのは月島課長の仏頂面を、象徴付る真っ黒な目元に涙が浮かんでいたせいに他ならない。若しコレが妄想の類だったとしてココまで入れ込めるンなら本物ではなかろうか。
 ボンヤリとわたしは見知らぬ昔を回想していた。仮に前世があるとしたら、わたしは女学校にすら通えなかった田舎民だろう。たとえば旭川とかに産まれて、実家の農業酪農を手伝いながらニッポン兵を眺めて「アラ素敵だワ」と思いを馳せるような、と考える最中で課長は苦笑いをした。言いにくいのだが、気まずそうに視線を逸らしながら月島課長は、わたしを向き直る。

「ミョウジは尾形の野郎にこっぴどくフラれてたな」
「えっ、うっそー……そこは嘘でも結ばれたとか言って欲しかったんですけど」
「すまん、つい」

 ソレまで喋舌って月島課長は、グイ、と頼んだお湯割りを飲み干した。余程熱かったのか彼の目元には更に涙が滲み、傍若無人に万札を店主に握らせて、釣銭を拒絶し立ち上がる。濃灰色の背広を肩に引っ掛けた彼はやはり強引にわたしのバッグを持ち去って「そろそろ解散するか」と、心情の読めない飄飄とした声色で店の引き戸に指先を引っ掛けた。
 初夏でも冷える外気の所為では無く、わたしの酔いはスッカリ醒めていた。ふらつく月島課長の足取りをなるたけ接触しないように開放して、終電を暮らした駅前のタクシー乗り場に導いて、月島課長はドコか諦めたような乾き切った笑いを溢す。つられて笑えるンならどれ程気楽なモノだろうか。彼は、フューチャーフォンをパカパカと開閉しながら、今生もダメだったとイッソウ大きく嗤った。

「俺にもう少し度量があれば違ったんだろうか」
「さア……、知りませんけど」

 じめじめとした外気がわたしと月島課長をぬったり包んでいる。残念なことに今日は曇り空で、月の一片も見えやしない。旭川のパチンコ店が無遠慮に蛍光灯を振り撒くものだから夜でも幾らか世間は明るく、彼の心底悔しそうな嘲笑が隠れずにわたしを向いていた。
 わたしが尾形さんを好きとか、言うのは何も前世からの因縁では無く単純に見た目が好みであっただけである。ただし月島課長が件の彼女に惹かれるのはソウ云った上辺だけの理由では断じて有り得ず、ズット根深く、わたしナンカが取り入られるような由来では無いのだ。
 ソレが解っているだけに彼の顔貌は痛ましかったのだ。一体いつまで彼は過去に引き摺られているのだろうか。一生か、一生で済むのならば容易く、このまんまであればキット来世もその次も、その翌もコウして月島基という人間は生真面目に彼女を思い続けているのだろう。

「すみません、今から言うのってほんっとに課長にとってはムカつくことだと思うんですけど」
「お前の反論で腹が立たなかったことなど一度も無いが」
「え……あ、すみません。じゃなくて」

 遠く地平線からタクシーのランプが近寄って来る。わたしの、知っている時間間隔の通りであれば今言わないと一生そのタイミングは再来しないのだ。月島課長がわたしの顔をもう一度覗いた。「あの」月島課長が薄く笑っている。

「二番とかでもよくないですか? わたし尾形さんと付き合えたとしても何ンと無くすぐ別れそうですし、でも結構一人って淋しいし」
「ああ、アイツは生涯独身のつもりらしいしな」
「えーそれあんま聞きたくなかった……じゃなくて、月島課長さん、課長さん? いや、月島!」

 イッソウ大きな声が無人の駅前に反響する。月島課長が、イッパシの軍人のように姿勢を伸ばした。敬礼でもせんばかりの勢いに思わず変な笑いがこみ上げる。恥ずかしさに目を泳がせる月島さんの低い身長が、月を覗かせた雲間に反射した。

「二番かどうかわかりませんけど、わたしでいいじゃないですか! つき……付き合いましょう! 地の底まで!」
「お前、なあ……。お前、ナマエ、正気か?」
「課長のわけわかんない話で酔いとかどっか行きましたから! いいじゃん、もっと気楽に付き合っても、好きだし」
「そうか、そうだよな」

 タクシーがいとも簡単にわたし達を置き去りにして行く。旭川タクシーには後日感謝の投書をしなければなるまい。月島課長は涙目のまま今度は腹の底から笑いながら、ナマエとわたしを呼んだ。

「こういう時は月が綺麗だとか、回りくどく言うものなんだが」
「現代の女はこんなもんです。ていうか夏目漱石って明治時代も有名だったんですか?」

 今度日本史を教えてやると、月島課長はまたわたしの頭を乱暴に撫ぜた。月はそうキレイな晩では無いけれど、この人と見るのならば旭日もブレーキランプも全部美しく見えてしまえるんだろうと思って、大声で笑うと「はしたないだろ」と背中を叩かれる。
 こんなに男前な月島課長と、ここまで漢気のあるわたしを拾わない誰かさんを思うと自然に笑えてしまった。月はキレイかもしれないが、ソレ以上に、このどうしようもない週末が美しく思えた。

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