短編 | ナノ

 ちょうど、イチョウが黄色く色めいた頃合いでした。
 鹿児島の方には母方の実家が御座いまして、わたくしは、仕事を辞めて何ンら気力が湧かずにブラリとソコを訪れていたのです。幼い時分には白黒写真の立ち並ぶ平家のおうちが苦手でありました。鹿児島の、鈍りの厳しく何を喋舌っているかが一見分からない様相もあって避けていたのでありますが、フッと、行かねばならぬと思い立って新幹線を予約したのです。

「おばあちゃん久しぶり。元気だった?」

 祖母は所謂お嬢様で、満洲引き上げで全財産を喪ったのだと言いました。わたくしは歴史と名の付いた科目が苦手だったもので、そう言った、事情はよぅくは解りませんでしたが割合淑やかに話す祖母から「あア、キット育ちが良かったんだワ」と察する程度は出来ました。
 久方振りに会った染髪頭のわたくしを、祖母はシャキッと出迎えて何ンにも言わずに泊めてくれました。旧家の畳張には当然インターネットも、アマゾンプライムも通っておりませんのでアテも無く外をほっつき歩くのにソウソウ時間は掛かりませんでした。

「お嬢さん、今帰りかい?」
「……自衛隊?」

 田舎の河川敷が心地良いのです。
 その日もわたくしは、夕方の道路をひとり歩いておりました。関東と違って、おんなじ日本でもこちらは幾分陽が長いのです。一番星の煌く中で、わたくしは唐突に呼び止められておりました。声の先には古臭い制服姿なのに、流行りのツーブロックをワックスで固めた男性が優雅に座っておりました。

「こんな時間に出歩いてたら危ねえだろ」
「あの、どちら様ですか?」
「通りすがり」

 薄明るい道すがらに彼の顔は、ひどく沈んで見えました。顔の右上半分を小汚い包帯でグルグル巻きにして、土埃に汚れた外套を纏っているのに、何故だか、彼は世にも品良く見えたのです。
 更にはお顔に、小さい頃から知っているような、不思議な面影がありましたのでわたくしは、無視をしたら善いのに彼の言葉に耳を傾けていたのです。

「お前、いつもここ歩いてるよな」
「えっ、知ってたんですか?」
「名前」
「ナマエです……」
「へえ、良い名前付けんじゃねえか」
「お兄さんは?」

 わたくしの質問に彼は答える腹づもりも無かったようでした。ナマエ、確かめるみたいに彼が口籠もります。包帯の隙間から、長い前髪がチョロリと零れておりました。その様は隙があって、どうだか親しみ易い雰囲気を醸し出していたのであります。

 ソノ日からわたくしは、散歩の帰路で彼とお話しする事を日課に据えておりました。
 彼は頑なにお名前を言いませんので、いつしか兵隊さんと、時代錯誤に呼ぶようになりました。友人に海上自衛隊がおりますが、彼は寮から出るやティーシャツとハーフパンツに着替えるんですって。コンナ何の取り柄も無い場所で制服を着崩しているのはよっぽどの奇人変人しか居ないんだと、話すモノなのでお望みの通りわたくしは彼を日本兵らしっく扱っていたのです。

「お前、暇なんだろ」
「そう言う兵隊さんだってやること無いからここにいるんですよね。ニートですか?」
「にいと?」

 彼はわたくしの衣服を物珍しく見遣ったり、スマートフォンに興味を示したりと、妙な風態を時折見せるのですが基本としては落ち着き払っておりました。此の所寒い毎日が続きますので彼は、枯れ葉色の外套を根深く被っていたのですが、よくよく見るとあまりに痛々しい傷痕が頬を縫っていたのです。どうされたのですか、問い掛けたところで彼は涼やかな容貌ではぐらかすのです。
 結局彼について知っていることと言えば、暇なことと視力が良いことと、案外傷付き易いところぐらいしか御座いませんでした。

「夕飯食べましたか?」
「いらねえ」
「よかったらうち来てくださいよ。うちって言ってもおばあちゃん家だけど、兵隊さんなら気に入られると思います」

 その日わたくしは、初めて彼を世界の外に連れ出しました。
 家は嫌だと話すので近所のファミリーレストランに、あの立ち居姿はさぞ珍しいようで、絶えず会話するわたくし達を通行人は奇異好色の目で見詰めるのです。お金を持っていないんだと彼は言いました。多少の貯えはあるので気にしないで欲しいと話すと彼は、男が廃るとか情けないとかボヤきました。
 兵隊さんの呼び名の通り、彼はどうしても時代錯誤でありました。女を下に扱うクセにシッカリ守ってやらんとするのはヒョッとしたら九州男児の気概なのかもしれません。

「冷えるだろ。そろそろ帰れ」
「兵隊さんは大丈夫なんですか?」
「俺もじきに戻るから心配すんな」

 そうです、彼はいつも何処へと無く帰って行きました。お住まいはどの辺りなのか聞いたのは一度や二度では御座いません。その都度彼は、いつか連れてってやるからと含ませるようにはぐらかしますので、この日までお名前を聞かなかったのとおんなじでやがて詮索しないようになっておりました。


「ナマエは、幸せなのか?」

 その日の彼はいつにも増して物憂げでした。何かに言い聞かせるみたいに、ぼんやりと、夕焼けに赤らんだ肌が出来事を含ませるのです。まるで辛い過去があったみたいに、しかしてソレを愉快がっていたかのように彼は少しずつ距離を無くしました。
 彼は手持ち無沙汰に拳を握るクセがありました(丁度長柄モノを掴むような所作であります)。ココには何も無いと、時折漏らすのです。一体何が足りないのか、分からないけれど少しでも埋めてあげられたらと感じるまでにヤッパリ時間は掛かりませんでした。

「わかんないです。仕事は辞めたけど、友達とも疎遠になったし実家にも帰りにくいし」
「心配してんだろ」
「真面目な人達だから、無職って言ったら多分追い出されちゃいます」
「……遺伝するもんなんだな」
「もしかして兵隊さんって、うちのお父さんの知り合いですか?」
「ミョウジなんて知り合い俺にはいねえ」

 彼と出会ってもう秋が暮れる時候でした。
 わたしはヤット、自分がどうしてココにいるのか、何が起きて何に悲しんで、何を諦めたのかを彼に話しておりました。見掛けによらず場当たり的な方だと思っておりましたが彼は、殊の外真剣に話を聞いてくれたのです。彼は引き攣った頬で不器用に笑いながら、わたくしの頭を無骨なてのひらで撫ぜました。大丈夫だ、彼の笑顔を見たのはコレが初めてでした。

「兵隊さん、そんな優しそうな顔するんですね」
「人のことなんだと思ってんだよ」
「なんかもっと冷たい人だと思ってました。得体が知れないし」
「俺からしたらナマエの方がよっぽど不可思議に見えるが」
「浮世離れしてるってよく言われません?」
「この世に生まれて来んなとは言われたな」
「それって、酷いですね」

 片側の目だけで遠く金星を眺めながら彼は、望郷を思うように呟きました。その視線は朧げで儚く見えたのです。彼がわたくしの髪に手を掛けるのとほとんど同時期に、その青白い頬に触れておりました。腰元に回された腕は逞く、シッカリとわたくしを引き寄せるのです。

「百之助って言うんだ。お前には名前で呼んで欲しい」
「……百之助さん?」
 名前まで昔めいていると感じました。
「俺はな、ナマエの事が可愛くて、目に入れても痛くないんだ」

 彼との口付けは如何にも生生しく、古めかしく思ったのです。控えめかと思いきや今生に似つかわしくない濃密な舌触りは恋に落ちるに充分な感覚でありました。

「こうなるとは少しも想定していなかったんだが」
「あはは、わたしも」
「初めて愛が理解できたかもしれん。こんなに他人が、尊く思えたのは初めてだ」

 言うや彼はもう一度口付けました。腕も唇も舌先も凍える程冷たくって、名残惜し気に何度も何度も、ココが外だって事も忘れて唇を重ねました。
 
「百之助さん、また明日も会えますよね」
「お前が付いて来てくれるんならな」
「それってもしかして遠回しなプロポーズとか?」
「ぷろ……? 俺にも分かる言葉で言ってくれよ」
「アハハ、まだ早いから、行けそうにないかもしれません」
「……そうか」

 彼は、ほの暗い顔を一瞬だけ見せて、わたくしの名前を囁きソレから「いつか連れてってやるから」とまた、嬉しそうに小声を残して立ち去りました。


 散歩の折に事故に遭ったのはソレから間も無い日の事です。何が起こったのかは不自然に遮られた視界が報せてくれました。
 顔と身体と、右目がひどく痛み目前では父と母が涙を流しておりました。点滴が末梢に根深く刺さっておりまして、車に撥ねられた瞬間を思い出すにそう時間はかかりませんでした。

「死んでいてもおかしくありませんでしたよ」

 片腕の骨折と下顎骨のヒビ、右目裂傷の他別状は無く、視力も落ちたこそ言えど健常で、退院までにそう時間はかかりませんでした。ただしわたくしの意識の無い間に祖母が亡くなったと聞かされたのです。少しの間ではありましたがわたくしに優しくしてくれた顔を思うと涙が溢れました。
 わたくしの足は自然とあの河川敷に向かっておりました。夕陽に燻されて月が煌々と水に反射するまで、翌日もその次の日も、しかしいくら待てど彼は現れなかったのです。いっつも、気が付いたらソコにいたはずだったのに。

「百之助さん、どこにいるの……」

 あの時もっとシッカリと、彼の居住を問い質せば良かったのです。無理矢理にでも追い掛けていれば良かったのです。彼の言う通りに「付いて行けば」よかったのです。
 いくら後悔をしたところで百之助さんにお会いすることは叶いませんでした。よくこの辺りを歩いているご老人や、犬を連れた若い女性に聞いてみても、兵隊さんの恰好をした男性など見たことも無いと言われるのです。あんなに奇抜な服装であったのに。狐に摘まれたような気分に成り果ててわたくしは、ただただ涙を流すばかりでありました。

 四十九日が過ぎた時、祖母の遺品を整理せんと母がやって参りました。家に帰れと何度言われても、もしかすると彼に会えるかもしれぬと拒絶していたわたくしは久方振りの他人との会話にどこか救われる気持でした。趣味の無い人でしたので、特段目立ったものは御座いません。時折母が、幼少の思い出を箪笥の奥に見付けては懐かしむ声を上げるばかりでありました。

「あとは仏間だけど、もう平気よね?」
「なんかオバケとか出そうで怖いけど、まあ、多分」
「ナマエが小さい頃、兵隊さんの幽霊が出るとか言ってたの。おばあちゃんも心配してたんだからね」
「そんなこ、と……」

 あア、百之助さん。ソコにいらしたんですね。
 幼い頃からアレだけおどろおどろしく 見えていた仏間の白黒写真が、よもやコレ程愛しく映るとは考えてもおりませんでした。アバラ骨のような装飾の軍服を纏って遥空を見据える猫のような目許に、特徴的な眉の毛に、親しみを感じたのはキットこの写真の賜物です。

「あの人ってお母さんのおじいちゃん? だよね、わたしこの人に助けられたんだと思う。近くの河川敷で、毎日会ってたの。わたしのこと心配して家に帰れって言ってくれて、すごく優しい人だった」
「そう……。この人はおばあちゃんのお姉さんの旦那さんだから、血の繋がりは無いんだけど……」

 そんなに縁遠い人が救って下さったなんて、と母は写真に手を合わせました。感謝より先に、御先祖様とキスをした訳ではなかったことに安心してしまう自分の俗っぽさにはホトホト呆れるものが御座いましたが、わたくしも母に倣って、直立不動で合掌致しました。
 涙がツゥ、と流れるのを感じます。短い時間でこそありましたがわたくしは、確かに彼と愛し合っていたのです。どんな人だったの、問い掛けると母は、昔話を思い出すようになだらかに話してくれました。

 彼の人は偉い将校さんで、日露戦争の責任を取って自害してしまったのだと。息子さんも同じく戦死してしまい、独りっきりになったお姉さんは妹を頼ってこの家で余生を過ごされたそうです。清廉潔白で、他人を疑う事を知らない真っ直ぐな方だったと言います。
 一方彼自身はさぞ甲斐性があったようで、愛人は当然のこと余所で子供までこさえていたんですって! 昔はよくある話であったのだと母は慌てて付け加えました。道理であのキスが達者であったものです。

「妾……不倫相手の息子さんがね、捨てられたことを随分恨んでいたみたいで、いつかワタシも殺されるって病床でも怖がってたの。キチガイみたいで、私はあんまり良く思ってなかったんだけど」

 それでも良かったと、右腕のギプスを撫ぜながら母が涙を流しました。生きていてよかった。「百之助さんのおかげだよ」言うと母の顔色が見る見る翳ってゆきました。

「百之助……? おばあちゃんから聞いたのよね?」
「えっ、写真の人、百之助さんでしょ? 顎に傷は無いけど……」

 母はたちまち立ち上がり、段ボールにまとめた祖母の遺品を漁り始めました。一等最初に束ねた祖母の日記帳を、破れんばかりの勢いで開いて、震える指先である一文を指したのです。


ーー彼は許していなかった。今度は私が連れて行かれる番だ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏………


「写真の人は花沢幸次郎さん、だから、あんたが会ったのは……」
「……まだ行けないって言ったからだ」

 最後に会った時、いつか連れて行くと、去り際の彼は確かに言ったのです。アノ声が耳にしがみ付いて離れません。
 祖母はわたくしの代わりに連れて行かれてしまったのでしょう。コンナ事ならば、断らなければ良かった。彼とわたくしは愛し合っていたのですから。

 キット彼とまた会えるのは三十年も四十年も、はたまた八十年も先の事かもしれません。震える母を置き去りにして、わたくしは心中の算段ばかり思慮しておりました。
 不孝者のわたくしを一体誰ならば許してくれるでしょうか。祖母の震える筆跡が哀れながらも嫉ましく、ソウ思っている間には百之助さんはわたくしを迎えに来てはくれないんだろうと思いました。

 丁度、イチョウが茶色く地面に蔓延る頃合いでした。



20191114

back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -