短編 | ナノ

( 2月3日の話 )


 13日が金曜日で無い方がよっぽど不吉だ。
 二月の週末を間近に営業諸君が浮き足立っている。日本は女性にとってたいそう生き難いとはどの活動家の言葉だったろうか。普段ならば気に掛けないその処遇もこの月に置いては重篤で、わたしは今、常日頃よりわたくし( 事務員 )を再三苦労で殴って来ている営業共の為に、駅に寄ってコストパフォーマンスの優れた逸品を探していた。

──明日はバレンタインですが、校内にお菓子の持ち込みは禁止です

 とか言う注意喚起は義務教育時代に終ってしまった。高校大学と、男子にでは無く女友達にチョコレイトを用意して次は職場である。
 そんな事しなければ良いと言われたらソコまでであるが、変なところでマメというか、几帳面、気にし過ぎる性分はきっと親譲りだ。

「めんどくさ……」

 しかしココで良い顔をしておけば一ヶ月後に倍以上になって返ってくることも事実である。あくまで打算的に、わたしは二月を過ごしている。

「鶴見さんは高いのにして……」

 宇佐美はオレンジが入ってないやつ、二階堂兄弟は同じ物を見繕って、月島さんには和菓子が合う気がする。ソレから鯉登くんはチロルチョコを袋にイッパイ詰めて送り付けてやろう。熊を象ったやけにリアルなチョコがあったので、コレを渡せば谷垣くんなら喜ぶに違い無い。
 心の中で悪態をつきながらも人に物を渡すのはそれなりに楽しいものでもある。今日はあくまで下見なので自分用に少し高いお菓子を買って駅ビルを後にした。


( 話は年始に戻る )


「ミョウジ、地元で有名な菓子を買って来たんだが」
「ありがとうございます。何が目的ですか」
「実は去年の領収書を出し忘れていて……」
「はア、今回だけですからね」

 至る地方から人の集まるものだから長期休暇明けのお茶菓子には事欠かない。特に要求していなくてもさながら賄賂のように、スーツ姿がわたしの前に順繰り現れる。年末に先輩が晴れて寿退社を決めたおかげで営業所でひとりきりの事務員になってしまった。
 新潟土産の笹団子を齧りながら書類の始末をするわたしのデスクには、これまで二人で山分けしていた貢物が重なっている。どうして営業は、いいや男性は締切に鈍感なのだろう。

「そんなに食ってたら太るぞ」
「まだひとつしか食べてませんけど」
「そうか。てっきり一箱空けたもんだと思ってた」

 ひとしきり全員の懺悔を聞き終わった頃合いに、珍しくと言うべきか何の手土産も持たずに尾形さんが現れた。この人は営業所内でも珍しく期日をキッカリ守る有能な営業マンであるが、わたしの入社前はそれはそれは偉そうで数字を上げる以外の物事に興味を持たない問題児だったらしい( 偉そうなのは今も昔も変わらないと思う )。
 彼は、行儀悪く元先輩のいたデスクに腰掛けると気怠そうに社用携帯をいじり始めた。「へえ」とか「あー」とか低い声の独り言を鳴らして、片手が宙を舞っている。

「小腹が空いた」
「何もありませんよ」
「疲れると甘い物欲しくなんねえか?」
「食べたら肥えるんでしたよね」

 つい先程昼食から帰って来たと言うのに何を言っているんだろう。尾形さんは青白い顔色に似合わず良い筋肉をしているので代謝が良いのかもしへない。とは言えソレとわたしは関係無いので仕事の邪魔ですと席に突き返した。
 尾形さんは常々こうして反応に困るような絡み方をしてくる。先輩の退職の折に相談したけれど、なんだか不敵な含み笑いを以ってあしらわれてしまった。

「ミョウジ、笹団子食わないか?」
「あっ、被った」
「宇佐美の献上品よりは良い物を用意した」
「鶴見さんからもいただきました」
「……相談を聞いてもらいたかったんだが」

 まあ月島さんのお願いなら聞いてやらんことも無い。なんだかこの営業所には新潟出身の人が多い気がする。


( 最初の週末は1月10日だった )


 新年会と銘打った経費で執り行うパーティは本日の終業直後に始まるらしい。先輩がいた頃は何かにつけて断っていたけれど、一人になったからにはコミュニケーションを取るべきだと出席の返事をした。
 本社から遠く離れた北海道の地だからこそこう言ったイベントには遠慮が無い。少し遅れて到着したお高い居酒屋には、すでに一人を除いて全員が着座し各々プレミアムモルツを流し込んでいた。

「ナマエおつかれー! 俺の隣座る?」
「え、二階堂……弟? もう酔ってるんですか」
「絡まれると面倒だろう。ミョウジは隅に座っていなさい」

 何やら大声を上げる双子の片割れを片手で諌めて鶴見さんが端に二つ開いた座席を指差した。二つ、そうだ。尾形さんがまだ来ていない。
 アイツは付き合いが悪いのだと宇佐美が愚痴を溢していたことを思い出すに、今日は奇数人数しか参加しないのだろう。しかし着座して店員さんにビールを注文し、いざ乾杯の仕切り直しをする時分で「お疲れ様です」とあの低い声が半個室を包んだ。

「クソ尾形、またクレーム対応?」
「勇作さんからの電話だ。鶴見中尉、来週始めに緊急で本社に来て欲しいとのことです」

 尾形さんの異母兄弟が役員の息子であることは有名な話である。極めて事務的な話をしながら彼は自然に私の隣に腰掛けた。
 ふわりとタバコと香水の混じった空気が香った。尾形さんもまたビールを申し付けて、再々度かしこまり鶴見さんの咳払いが響く。二度目の仰々しい新年の挨拶を聞き入るのはもはや鯉登くんと宇佐美だけである。

「お前、酒飲めたのか」

 乾杯より小一時間して、それまで向かいの谷垣くんの新婚いじりに勤しんでいた尾形さんが唐突にわたしに声掛けた。営業の話はよく分からないのでひとりであん肝を肴に日本酒を嗜んでいたせいで、上手い言葉が出て来ない。
 えっ、あ、はい。コミュニケーションを深めるとは何だったのか、たどたどしいわたしの返答を尾形さんはヤッパリ鼻で笑う。ソレから彼はわたしのおつまみに無遠慮に箸をつけてもうひとつ嘲った。

「あんこうなら俺の地元の方が旨い」
「鹿児島って黒豚じゃありませんっけ」
「勇作さんと親父は鹿児島の出身だが、俺は茨城だ」

 へー、そうなんだ。尾形さんと花沢さんの間柄は中々難しいものがある。わたしと尾形さんのやり取りを遠く離れた席の宇佐美が笑っている。何がオカシイのか知らないが、宇佐美は大抵あんな調子なので気にするだけ無駄な気もした。


( 1月末は一際忙しい時期である )


 北海道は日本では無いのかもしれない。
 とてつもない高さまで積もった雪を掻いてくれるだけマンション住まいは恵まれている。道路脇に積み重なる雪を素手で払ってすぐに後悔した( 冷たい )。
 月末、それも本決算となれば忙しさもひとしおでソンナ朝方の記憶が遠い昔のように思える。21時を回って、一向に合わない数字に本日百度目の溜息を吐いた。
 そもそもわたしは営業職を希望していた筈である。適性が見出だせないとか、人事に告げられて翌月にはこの北の果ての事務職に飛ばされていた。あーあ、こんな事なら異動なんて受けずに素直に転職していればよかった。
 いよいよ涙が出て来そうな一人きりの営業所のドアーが開く音がする。反射的にその方向を見遣ると、肩に雪が積もった尾形さんが青白い顔をいっそう青くさせていた。

「あ、お疲れ様です」
「まだいたのか」

 言いながら買って来たばかりと思しき熱い缶コーヒーをわたしのデスクに置いた。それ、尾形さんの分ですよね。いいですよと遠慮する姿さえ見透かしたようにビジネスバッグから栄養ドリンクを取り出した彼は、乾杯でも求めるように右手を突き出した。

「お疲れ様でーす」
「疲れた」

 喉を鳴らしながら尾形さんは顔を顰めて苦労を語り出す。客先で謂れのないクレームを受けたとか、勇作さんから本社異動を打診されているとか、近頃帰ると夕飯も食べずにすぐに寝ているとか、仕事に始まった愚痴はついに私生活に及び始めた。
 そんな事よりもわたしは決算資料を完成させたい。見掛けに依らずこの人は話好きのようだ。普段寡黙な彼が二本目の栄養ドリンクを手に掛けて、ついぞ休日の過ごし方まで語り始めた。わたしは日記帳では無い。

「独り身に冬は堪えるな」
「一緒にしないで頂きたいです」
「……は?」

 ガタンと、小瓶が机を鳴らした。あまり表情の変らない尾形さんの目が大きく見開かれている。わたしはそんなにモテない女に見えるのか。
 しかし現実その通りで、彼の反応は間違ってはいない。ただ何となく解せないのはわたしの単なるワガママである。

「いや、えっと……確かに彼氏とかいませんけど」

 つい先月末に寿退社を目の当たりにしている以上途方も無く恥ずかしくて目線を逸らした。視界の隅で尾形さんは改まって叩き付けた栄養ドリンクを取り上げている。
 それから暫く、無言が続いたかと思うと彼は大きな溜息を吐いて、戸締まりはしておくからさっさと帰れと肩を叩いた。とても仕事に戻る気分になれなかったので、缶コーヒーをカイロ代わりに営業所を後にした。


( そして2月の第二週に戻る )


 決算も終わり定時退社を決め込んでいる。二月は売上が落ち込むので、営業の皆々様はと言えば結構非常識な時間まで日夜テレフォンアポイントに勤しんでいるらしい。もしわたしが取引先ならば18時以降に電話を掛けてくるような企業とは商談を進めたくないと思う。
 アレ以降の尾形さんはと言えばお変りなく、時折私の席を訪れて嫌味とか世間話を挟んで仕事に戻って行く。彼の自慢話曰く、三月中旬に大きな歩合が入るらしい。羨ましいとは思いながらもこの惨状を目の当たりにしては手放しに「営業がしたい!」ナンテ思えなくなっていた。

「お疲れ様です。お先に失礼します」
「事務は気楽でいいよねー。僕なんて」
「宇佐美、それ以上言ったら今月から出張代全部実費にさせるから」

 まあわたしにそんな権限は無いのだが、あからさまに顔を青くする宇佐美が面白いので黙っておこうと思う。

「疲れた……」

 業務は軽いし先輩不在にも慣れて来たと言うのに何故だか気持ちが晴れない。この感覚にあえて理由を付けるならば先日の尾形さんだ。あの日以降、わたしの頭の中には「尾形百之助は独り身である」という事実がついて回っている。あの人は、女誑しだとばかり思っていたのだ。
 帰宅後慣習のように点けたテレビで恋愛特集が組まれている。彼と付き合い始めたキッカケはバレンタインでした、とか、チョコ菓子の購買意欲を煽るようなインタビューに釘付けになっている自分が嫌になった。確かに尾形さんは仕事も出来るし顔も個性的ながら整っていて、いいや違う。
 荒ぶる思考を洗い流すには入浴が最適だ。と言うのにヤッパリ、お湯の中でもわたしは尾形さんの事を考えていた。あの人はキット見かけ通りに甘い物は苦手なんだろう。おばあちゃん子だと聞いたのでお煎餅とか、そんな色気の無い物が浮かんでくる自分にもいくらか嫌気が差した。


( 祝日明けは身体が重い )


 本社の和田さんが倒れた。
 うちの部門を管轄する彼の急な入院に関係各所は事後対応に慌ただしく、午後から営業所にはわたし以外の誰もいない。よくわからない電話もひっきりなしに掛かってくるので自分の仕事も一切手に付かず、21時を回っても業務が終わらない。嫌だ、帰りたい、泣きそうだ。
 本当ならば今日にはチョコレイトを手配する筈だった。折角昨日はお休みだったのに家でだらだらと過ごしていた自分を殴ってやりたい。和田さん、大丈夫だろうか。一回も会ったことは無いけれど心配だ。それはそうとお腹が空いた。

「ご飯……明日食べよう」

 13日が金曜日で無い方がよっぽど不吉だ。
 なんだかもう、何もかもが面倒臭くなってきた。お昼の休憩を逃したせいで胃が痛む。こんな中でも皆々様は、一様にバレンタインデーに向けて浮き足立っていたので明日には確実に品物を仕入れなければならない。
 結局尾形さんの事は意図して考えないようにすることにした。ナンテ思っている時点で充分意識しているのだが、ソレ以上に今日は気疲れしている。次第に目蓋まで重くなってきて、ウトウトと、暑いほどに暖かい営業所でキーボードを打鍵するわたしの目を覚ましたのは、案の定と言うべきか、あの低い声だった。

「やっぱりまだいたか」
「尾形、さん」

 この人はいつにも増して不機嫌そうな顔をしている。出来れば今は会いたくなかった。どう考えてもこの時分のわたしは化粧が崩れていて、髪も雑にひっつめていて、男性と対面出来る状態に無い。
 それなのに彼は無遠慮にわたしの隣の椅子を引いて、ジッと視線を送り始めた。ソンナに見ても面白く無いだろうに、何が楽しいんだろう。ココで嫌味のひとつでも漏らしてくれたら逆に元気がでるかもしれない。けれど次に響いたのは訳の分からない提案だった。

「飯行くぞ。どうせ食ってねえんだろ」
「え、でも、尾形さんそれ」

 彼の携えるコンビニ袋には夜食と思しきカップ麺とホットスナックが入っている。疲れで覚束無い呂律も気にせず尾形さんはわたしの腕を引いた。パソコンを強制終了させて、タイムカードを強引に切って、営業所の暖房と照明も身勝手に落とされる。あとは鶴見部長が何とかするとやはり勝手な言葉を最後に、アレ程果てしないと思っていた残務がいとも簡単に収束してしまった。
 こんな時間に開いているのはファミレスか居酒屋ぐらいのもので、彼はすんなりと駅近くのチェーン店に入って行く。好きな物を頼めと言う割には尾形さんは何も食べなかった。ただ一言「がんばったな」とか口にして、ソレ切り何も話しやしない。


( 2月13日になってしまった )



 無責任だと思っていた尾形さんの発言は事実に裏付いており、定刻に出社すると鶴見さんが確かに全てを終わらせていた。今日は早めに帰りなさいと優しい声が退社を促している。言われなくとも本日はのっぴきならない用事があるので、少なからず駅ビルの営業時間内には切り上げるつもりでいた。
 十日前に目を付けていた品々を購入するのは簡単だ。あとはひとつだけなのに何も定まらない。駅ビルを彷徨くのは何もわたしだけでは無いらしく、いつもより女性が何割も多い気がする( どう考えても気のせいだ )。

「どうしよう……」

「プレゼント 職場 男性 営業」で検索するのも限界だ。変わり者のあの人のことなので一般的な贈答品には何ら反応を持たないに違い無い。風変わりで気を引くような、とか真剣に検討する内に各店舗が締めの作業を始めている。
 どうせ彼はわたしのことを何とも思っていない。ならばこんなに考えているのも馬鹿馬鹿しくなってきた。丁度目の前にあった店舗に滑り込んで、なけなしのお札を商品に引き換えた。コレを、果たしてわたしは渡せるのだろうか。買って満足して終わるのではないだろうか。
 とにかくは明日である。明日押し付けてさえしまえば次は土曜日と日曜日になって、週を明けたら何事も無かったように「ただの事務員」に戻れば良いのだ。
 スッカリ重たくなってしまった紙袋を右手首に提げて、同様に重いうい足を引きずった。帰りの電車を一本逃し、次の電車まで三十分、一人きりで待つ( 予定だったのだ )。


( 21時過ぎのホームには人があまりいない )


「オイ」
「うわ!」

 耳慣れた声に振り向くとそこには寒さに見合わず汗を滲ませた尾形さんがいた。どうしてこの人は、こんなに絶妙なタイミングで現れるのだろう。息切れを誤魔化して彼が普段の余裕っぽい口許を取り繕っている。あア、水を買っておけばよかった。

「そんなに一人で食うのか? 太っても知らねえぞ」
「……何なんですか」

 紙袋から溢れたチョコレイトを指差して尾形さんが嗤う。ほんの一ヶ月少し前に煽られたことを思い出してムッとした。あなたには関係ありませんと、本当だか強がりだか分からない言葉が出てきてしまう。
 明日がバレンタインデーに当たることならば、敏腕営業マンの尾形さんは当然心得ているだろう。2月14日が女性にとってだけ煩わしい一日であることに意義を提唱した鶴見さんによって、我が営業所では取引先にチョコという名の話題作りを用意するように昨年から通達されている。
 準備が面倒なのか結局コンビニの板チョコで済ませる営業マンが多いのだが、無いよりはマシなんだろう。尾形さんは何を用意しているんだろうか、世間話程度に持ち掛けようと開いた口が、そのまんまぽっかり開いてしまった。

「それ」

 ジャケットの内ポケットから品の良い折り畳み財布を取り出して、彼はなんと、万札を二枚突き出したのである。

「俺が買い取る」
「はい?」
「だから、俺がそれ全部買い取ってやるって言ってんだ」

 総計八千円にも満たない紙袋にレートが釣り合っていない。では無く何故尾形さんが買い取ろうとしているのだろうか。
 わたしと彼とのやり取りに電車待ちのサラリーマンさえも目を白黒させている。恥ずかしい。まったく何だと言うのか、拒絶しても尾形さんは突き出した右手を一向に引こうとしなかった。

「あの、取引先に配る分ぐらいご自身で用意してくださいよ」
「そうじゃねえって、その……」

 自信過剰な振る舞いと打って変わって、途端に尾形さんはしおらしく、言葉を詰まらせてしまった。そうこうしている間にも電車の時間が迫ってくる。時刻は21時を四分の一だけ通り越しており、日付は未だ2月十三日だ。今じゃないし今日でもない。
 何かを決意したような尾形さんが息を大きく吸い込んだ( そして少し咽せた )。

「一回しか言わねえからな」
「はあ」
「その……お前が義理でも男にチョコ渡すのが気に食わねえ」
「事務員の点数稼ぎぐらい大目に見てくださいって」

 目一杯吸い込んだ息を吐き出すような大袈裟な溜息がホームに木霊する。
 彼は物憂げに髪を撫で付けながら、何かを決意したみたいに三白眼でわたしを見下ろした。

「お前は俺だけに点数稼いでやがれ!」
「え、あ、尾形さん!」

 言うや否や、彼はわたしのコートのポケットにお金を突っ込んで紙袋を引ったくってホームを逆走していった。階段を三段飛ばしで駆け上る人ナンテ学生時代ぶりに見た。一瞬、戸惑ったけれどこんなお金は受け取れないしあの紙袋には営業所の皆々様への賄賂が詰まっている。
 歓声を上げる電車待ちの複数名を後目に、わたしも階段を走った。


( あと3分で電車が来てしまう )


 間に合わないと踏んでいたのに尾形さんは改札口に挟まれていた。
 アレだけ完璧っぽく見えていた彼が、慌てふためいて駅員さんに事情を説明する様が面白くて笑いが込み上げてくる。この人はわたしと使う路線が違う。どう言うつもりか知らないけれど定期をかざしてそのまま出て行く算段だったのだろう。
 2月14日にはあと二時間半程度時間があるけれど、今しか無いと確信した。この状態の尾形さんならばわたしの押し付けがましい贈答品を訳も分からず受け取ってくれるに違いない。「尾形さん!」叫んだ声に彼は素直に顔を上げた。

「ホワイトデーの前借りって思ってますから!」
「は? え……ミョウジ!?」

 キッチリ固められたオールバックと高そうなスーツに似つかわしく無い素っ頓狂な声は良いビージーエムである。そのまんま元来た階段を滑り降り、丁度到着した電車のドアーに無事侵入した。走った所為だけでなく心臓がバクバクと音を立てて、わたしも真冬に似合わない汗を流してしまった。


( そうして来たるは14日の金曜日 )


「ミョウジ、チョコは?」
「今年は大口顧客に利益率二倍以上で買い取って頂いたのでありません」
「えー信じらんなーい」

 朝礼後の席にブーイングの嵐が巻き起こる。一日を素っ気無く過ごしたのは何年ぶりだろうか。2月から折々感じていた「女はツラい」感覚もスルリと抜けて、わたしはひたすら自己満足に浸っている。
 尾形さんの胸元には昨日押し付けたタイピンが黒く光っていた。「サラリーマンの彼への贈り物ならこちらが最適で御座います」だとかにこやかに接客してくれた紳士服店の方には感謝をするばかりである。

「ナマエ、三月の土日は空けとけよ」
「休日出勤のご依頼でしたらお断りします」
「歩合が入るって言っただろ? 昨日の金は余所行きの服でも買う分に充てとけ」

 給湯室で待ち伏せていた尾形さんが顔を赤くして笑った。初めてこの人のいじらしい笑顔を見た気がする。
 14日の金曜日は不吉でも何ンでも無く、密やかにわたしの春が始まった。


20200215

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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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