メモ( 新しい方 ) | ナノ

 私のお母サンの話をさせていただこうと思います。
 幼い折りに、私は、どうしてウチにはお父サンが居無いのかと尋ねたコトが在りました。チョウド、小学校で先生から父兄参観のお便りを預かった時の事です。お母サンは、顔を青と白、終いぞ赤くして私を叱るのでした。
 ソレ迄、私の家ではお父サンの話題は暗に禁じられておりました。ただし、隣の席の××チャンにも、同じ班の○○クンにも当然働くお父サンが居りましたので、それでいて、私のお母サンは日夜家で料理だとか、編み物だとかに勤しむばかりで家を出なかったものなので、如何しても気になってしまったので御座います。
 お母サンは烈火の様にお怒りなすって、暫く、ストンといつもの穏やかな表情に戻って、参観にはどの服を着て行ったものかしらとクロゼットを開くのでした。矢張コレは聞いてはならない。ですからお話する事に尽きましては、お母サンが弱って、病床でポツリぽつりと回想した物語で御座います。当然何十年と経っている事でしょうから、記憶に齟齬は御座いましょう。そもそもお母サンは心根の弱い人で在りましたので、よほど、妄言の類かも知れません。
 ただ私は、この備忘を独りで噛み砕けないので在ります。まさか自分の出自が、あのお母サン(キチガイ女)の思い出す通り生生しく、陰鬱で、捻くれたものであるとは受け入れ難いので在ります。
 私に、若し、血の繋がった兄弟姉妹が居りましたらこの蟠りも解けた事で在りましょうが、私には貴方しか居無いので御座います。



 隣の部屋は単身向けの間取りだとかで、壁の薄い賃貸の向こうは毎日午後十時を過ぎるまで物音ひとつしない。察するところ休日は不定期らしい。土日、祝日にけたたましいアラームが鳴ったにも関わらず玄関ドアの開閉が聞こえないこともあれば、下校の折に夕飯の香ばしい匂いが換気口から漂う日もあった。隣人の、男は不健康そうな顔色をしている割にはガッシリとした身体つきをしていて、スーツや作業着、どこかで見たような制服と恰好をクルクルと変えている。
 これだけ言うと単に得体の知れない住人が単身棲んでいるようであるが、その人とわたしには面識がある。彼は律儀にも引越しの挨拶にうちを訪れて、エレベータで顔を合わせると会釈に留まらず世間話も繰り出してくれるのだ。
「今日は雨が降るらしいぞ」
「えっ、だったら傘取りに戻ります」
「止めといてやるから急げ」
開閉ボタンを人差し指でなじりながら彼が不器用そうに笑う。
母を起こさないよう玄関をソッと開き、扉の隙間から傘を取り上げた。すみやかに鍵を閉めて小走りに戻るまで、この人は律儀に階にエレベータを留めていてくれた。。
「すみません、ありがとうございます」
「ああ。今日は小テストがあんだろ。頑張れよ」
「はい、頑張ります! 尾形さんもお仕事いってらっしゃい」
いつ見ても変わらない態度と様相にわたしは安心するのだ。
尾形さんは少しだけ明るい顔で笑ってわたしの肩をトンと叩いた。行ってきます、背中を押されるように通学路を進む。振り返ると尾形さんは逆方向を遠く歩いていた。



リビングに小部屋が二つ付いている、あの家にはわたしと母しか住んでいない。元は祖父母がいたのだが、二人ともわたしがランドセルを背負う姿を見る前に死んでしまった。
物心ついた頃から、父のことは聞かない方が良いのだろうと肌で感じていた。その証拠に、夜中トイレに起きると母の部屋の扉奥からすすり泣くような情けない声色が響くのだ。キットわたしの尾藤さんは事故で死んだンだろう。
――うちの娘が擦り傷を作って帰ってきたんだけど、アンタがしっかり見てないせいでしょ! 今すぐ責任者連れて謝罪に来なさい!
 だから母は過保護なのだ。そのせいでわたしは学校でも居場所が無く、あの家の子とは付き合うなと噂されて友人も出来ずに一人っきりを過ごしていた。小学生の時分から買い与えられていたケエタイ電話には母と一一九番しか登録されておらず、そのクセ不要な連絡を取っていないことか抜き打ちで検査される。母は何かに取り憑かれているのだと言い聞かせるのは一度や二度ではない。
「すみません、隣に越す予定の尾形といいます。明日は業者が入るのでお騒がせしますがご容赦ください」
 ソンナ狭く閉じ切っていた社会を開いてくれたのが彼である。一言で表すならば薄暗い人だ。ぼそぼそとくぐもった声で形式上の挨拶文を述べて、やはり形式的に土産の品を差し出している。外面の好い母はソレを快く受け取って「お互い様ですから」と微笑んだ(当然贈答品は熨斗が付いたまま燃えるゴミの袋に放り込まれた)。
 ドアーを閉める寸前に、尾形さんは廊下の奥で様子を窺うわたしをその真っ黒な瞳でジッと見詰て、「これからよろしくお願いします」といやに印象深く笑ったのだ。どうしたことか、わたしはその追討ちに一挙に救われた気持になったのである。どんな配達員も、児童相談所保護司も、教師も見なかったわたしを見て下さっているように感じてしまったのだ。





「お前、ろくなもん食ってねえんだろ」
「え、あの……どうして」
 この辺りは入り組んでいるのに、先週越してきたばかりとは思えないぐらい馴染んだ足取りで、尾形さんは路地をスイスイ進んで行く。ほんの五分程歩いた先の店先で、まごつくわたしの腕を彼は傍若無人に引っ張った。
 下校の折に尾形さんと鉢合わせた。もう数十メートル程度歩けば家に着くのに、彼はわたしを見るなり「飯行くぞ」とぼそりと呟いて歩き始めたのである。
 肉は毒だと言い出した母の所為で、わたしは最近葉物以外の何も口にしていない。高校には給食が無いので、せめてクラスメイトに見られないようにコッソリと蒸した土臭いキャベツしか入っていないタッパーの中身を貪っていたわたしには渡りに船のような言葉だった。
「あの、やっぱりわたし……」
「無理に付き合わせて悪かったな。ほら、食いたいもん何でもいいからさっさと注文しろ」
「え、でも」
「肉と魚どっちがいいか選べ」
 まごつくわたしに「本日の日替わり」メニューを差し出して尾形さんは溜息と一緒に笑い声を零した。「じゃあ、お肉で」大豆以外の蛋白質を摂るのはいつ振りだろうか。
 初めて見た時にはそれはそれは不気味な人に見えたけれど、尾形さんは殊の外普通の「良い大人」である。丁寧に店員さんを呼び止めた彼は控えめな声色で注文を通してくれた。ねだってもいないのにオレンジジュースまで頼んでくれている。
 築年数古く壁の薄いマンションから察するにこの人は自宅に女性を呼ばないけれど、恐らくはさぞ多くのアプローチをいなしてきたのだろう。尾形さんは右の口角だけ上げて「別のが良かったか?」と問い掛けた。
「あ、いや、好きなので……でもわたし」
「そうか。ああ、金ならいらん」
 通学カバンの底をまさぐるわたしを諫めるように尾形さんは煙草に火を点けた。ソウ言えば最近洗濯物に煤けた嫌な臭いが着いている気がする。眉を顰めたわたしを気遣うように彼は灯したての切っ先を水の張った灰皿に押し付けた。
「あの、すみません……」
「ここは魚料理の方がうめえんだけどな」
「え、……っと、尾形さんもお肉のやつ頼んでたじゃないですか」
「どうせなら同じ物の方が気ぃ遣わねえだろ」
 。
 何ンにでも影響され易い母は最近、ビーガンだかホメオスタシスだか知らないけれど、卵すら目の敵にした食事をわたしで試している。味のしない葉っぱを強要されるわたしの目の前でお母さんだけは真っ当な夕飯を平らげるのだ。
 お待たせしましたと湯気の立った料理がテーブルに並ぶ。一汁三菜があまりに懐かしくて、手を合わせすかさず掻き込むと自然と涙が溢れて来る。どうやって言い訳をしようかと考えていたけれど、尾形さんは特段驚いた様子も無くゆっくり頭を撫でてくれた。





「俺がどうこうできる問題でもねえが」
 ご馳走して頂いたのだから気にせず一服されてくださいと何度か言うと、尾形さんはヤットの思いで胸ポケットでくしゃりと潰れた包装を掻き分けた。明後日の方向に紫煙を吐き捨てる彼は飄飄と状況を整理している。隣家から怒鳴り声がする、夜勤で眠っている時分にガラスの割れる音は響く、出てきた当人のうちの一人は目の下に深い隈をこさえてフラフラと歩いている。
 尾形さんが話す以上にわたしと母は異常なのだ。「それだけじゃなくて」前のめりになるわたしの頭を彼は優しく抑えて店員さんを呼ぶ。
「アイスとゼリーどっちか選べ」
「え? あ……アイスで」
「味は? バニラか苺」
「いちごがいいです」
「コーヒーはお前にはまだ早いか」
 二杯目のオレンジジュースを飲み込むわたしを彼は憐れんでいる。そうして、「俺がどうこうできる問題でもねえが」ともう一度繰り返すと本意無く左手で髪をかき上げた。
「話を聞いてやることと飯奢るぐらいなら訳もねえから、限界来る前に吐き出せよ」
「……今が限界かもしれません」
 母はまずわたしの交友関係に口を出した。こんな賃貸マンションに住んでおきながら明治の昔の家柄を持ち出して、高貴な家系にどうこうと、それから当然のように家事はわたしの役割である。
 炊事以外の総てが完璧で無いと打たれて母自身の虫の居所が悪ければ物を投げ付けられる。首を絞められたことも一度や二度に留まらない。
 明るい雰囲気のお店に全く似つかわしくない話題にも尾形さんは頷きながら、時折遠い目をしながら付き合ってくれている。いよいよ泣いてしまいそうになった時点で彼は席を立った。
「続きは今度聞いてやる。それまで耐えられるか?」
「はい、あの……ありがとうございます」
 店先ではお客さんが二組列を成している。すみませんと、会釈をする尾形さんの姿は、母よりも一回り以上若い筈なのにズット立派に見えてしまった。
「お前の母親には俺から話しておくから今日は安心して寝ろ」
「でも……」
「地元を出て暇だったんだ。茶飲み仲間ができて感謝してんだぜ」
 右隣の尾形さんがわたしの左肩を叩いている。「俺に出来る事ならいくらでもやってやる」エレベータの鏡に映るわたしと彼はどうあっても繋がらないような、学生服とスーツなのにひどく安心できた。





 高校二年生になっても相変わらず母は折り畳みケエタイの受信ボックスを監視している。ただ直近で変わったことと言えば、今まで散々色気付くなと叱ってきた口がスッカリ閉じてしまったのだ。
 母は良くも悪くも正直な人だった。盲目的と言うか、わたしへの当たりは本人の中では確固たる正義なのである。なので同窓会で再会した男性と昼夜を問わず逢瀬を繰り返す自分に嘘が吐けなくなったのだろう。中学生ぶりに下着を新調してもらった。男性アイドルが出演する地上波を見てもコンセントを抜かれなくなった。母はあたかも恋する処女のようにスマートフォーンの通知音を気にしていて、洗濯物を雨に塗らしたわたしを殴る手も心なしか穏やかだった。
 ソンナ母が帰らなくなったのは五日前のことである。下校したわたしは人気のない自宅とカウンターテーブルの一万円札に呆気に取られていた。炊事だけは母の専任だった為、何も食べないこと数時間、着信音が「そのうち帰るから好きな物食べてたら」と無責任な言葉を紡ぐ。生後すぐから室内で飼育されていた猫が開いた玄関口を眺めるばかりで前に踏み出すことができないのと同じく、わたしはこの五日で誰に話をするでもなく「そのうち」を待ちながら金銭を浪費していた。
「どうしよう。お金、無い……」
 小遣いもろくに貰ったことのない十代が急に万札を手にして良いことナンテ無いのだ。六日目、ティッシュペーパーを買い出したのを最後に金銭が尽きてしまった。
一日の食材は日々購入する母の性分のせいで単身向けの小さな冷蔵庫は空である。母の部屋に放られた桁違いの通帳を見つけたところで肝心のキャッシュカード・パスワードを知らないので何の意味も無い。
 一日、二日であれば水だけで誤魔化せるものの、三日目には視界が霞んで見えた。聴覚だけが敏感に屋内の害虫を察している。ソレから、薄い壁の向こうで住人が帰宅した音が聞こえた。
「あの……ほんとうに、すみません」
「お前、どうしたんだ!」
 チャイムを鳴らせずコツリと鉄扉を叩いた音に尾形さんはすぐさまドアーを開けた。部屋着姿のわたしを彼はいそいそと室内に招いて温かい緑茶を差し出してくれる。
 初めて見た独身男性の間取りは簡素ソノモノだった。壁紙や床こそ同じものの、ゴチャゴチャとした絵画や調度品は無いしスキンケア用品も転がっていない。スッキリとモノトーンでまとめられたテーブルとテレビ台、無味簡素に置かれたパイプベッドに不意に「監獄」とかいう不謹慎な単語が浮かんだ。
「飯食ったか?」
「……尾形さん、わたし」
「わかったから、風呂入って来い。鍵は開けといてやるから勝手に入っていいぞ」
 梅雨が終り夏が近付いている。汗で張り付いた前髪を拭いながら尾形さんは優しくわたしの頭を撫でた。
 多分尾形さんは今からシャワーを浴びるつもりだったんだろう。ジャケットがベッドの上に投げられていた。疲れ切っているのに彼はわたしだけを気に掛けてくれている。
 汗と一緒によくわからない心持まで流れて行く気がする。何十件と残した発信と留守番電話には反応が無いけれど、その事実だけが快くて髪も乾かさないまま家を飛び出した。
「電気が止まってるって事はねえだろ。ちゃんと乾かせ。風邪ひくぞ」
 ソウ言う尾形さんも湯上りらしく、いつもカッチリ固めている髪が重力に揺れている。この人は案外髪が長いらしい。シンプルな黒のティーシャツと同じ真っ黒な頭髪がエアコンの風に揺れている。
「出前頼んでやるからそこ座ってろ。何か食いてえ物あるか?」
「……なんでもいいです」
「はあ、時間と質どっちがいいか選べ」
「時間……」
 スマートフォーンの画面を手繰って彼はすみやかに注文を決め、ベッドに腰掛けるわたしの隣を陣取った。濡れた頭に湿ったタオルが覆いかぶさる。尾形さんを思わせる匂いは次の瞬間にはガシガシとわたしの髪を掻いていた。
「どうせ母親が帰って来なくなったんだろ」
「……はい」
「お前も健気なもんだよな。そのうちこうなるって分からなかったのか」
「……はい」
「飯食った後はどうする」
「……」
「あー、仕方ねえな。俺は床で寝るから勝手にしろ」
 十数分後に鳴ったチャイムに尾形さんはやはり丁寧に応接している。少し冷えたハンバーガーは胃腸に大きな負担を与え、口にしたすぐに吐き気を誘った。
 ただの隣人がただの隣人のお手洗いに突っ伏している異様な状況なのに、尾形さんはひたすら優しくわたしの背中をさすってくれる。この状況に母の顔を思い出すことが出来るならばわたしはどれ程仕合せなンだろうか。
 胃液にやられた咽喉で「すみません」と話した。尾形さんは、俺に出来る事ならやってやるって言っただろ。とか呆れたように呟いてわたしを持ち上げベッドに寝かしつけてくれた。パイプがきしんでいる。尾形さんの匂いに全身を包まれた。目蓋を閉じれば簡単に夢と現実が往来している、人生ではじめて安心して眠りに付けた気がした。





「あたしの服が縮んでるじゃない! あんたってどうしてこんなに愚図なの? せっかく産んでやったのに、ちょっとは役に立ちなさいよ!」
 わたしがあんまり出来の悪いせいで、お母さんはいつも怒っています。ドライクリイニングって言って、洗濯機に投げちゃいけないものだけれど、わたしにはタグの意味が理解できません。誰も教えてくれなかったんです。
 お母さんはわたしのことを目イッパイ叩いて、氷のカラカラ鳴る水筒で脇腹を叩き付けて、泣いたらもっと痛いのでわたしは唇を噛むンです。そうしていたら、お母さんも泣き始めます。そうしてわたしを優しく抱き締めて、ごめんねごめんねと頭を撫でてくれるのです。
 おじいちゃんとおばあちゃんが燃やされえてから、お母さんはいっつも泣いていました。いっつも、わたしがたまに、夜遅くにトイレに行きたくて目が覚めると決まって真っ暗なお部屋で泣いていたお母さんが、明るいうちでも涙を堪えないようになったんです。
 わたしの家にはお父さんがいませんでした。どうしてお父さんがいないのって、聞いた後の思い出がありません。お母さんはわたしの目を怖い顔で睨み付けて、あんたがいなければって、怒るからわたしはもう何も聞かないことにしました。お母さんはわたしのことが嫌いなんです。でも、多分だけれどわたしはお父さんと顔が似ているんです。だからお母さんはわたしを傍に置いてくれました。
 おんなじクラスの××ちゃんがお母さんといっしょにお洋服を買いに行ったと話しました。わたしの服は、お母さんが通信販売で勝手に決めてしまいます。コレを着ていたら可愛いからと、大きさが合わないお洋服をいっつも着ているから××ちゃんからは笑われて、あなたって可哀そうと笑うのです。わたしはかわいそうじゃありません。その証拠に、お母さんはたまにわたしの頭を撫でてくれるのです。お母さんはわたしのことが実はとっても好きに違いないのです。
「オイ……おい、お前! 大丈夫か?」
「尾形、さん……?」
 嫌な夢を見た。
 頭を掻き毟る手を振り解くように、尾形さんがわたしの両腕をベッドパットに押し付けている。せっかく自宅でシャワーを浴びたのに首筋に至るまで汗が滲んでいる。
 お母さんが帰って来なくなって一週間と少しが経つ。不定休の尾形さんは、たまたま、休みが続いていたようで四六時中わたしから離れずにいてくれた。
 すみません、そう言ったら尾形さんは「お前は何も悪くないだろ」と優しく囁いてくれるのだ。あれだけくぐもって聞こえ難いと思っていた声も今だったら鮮明に読み取られる。それと一緒にわたしのこの薄ら暗い考えも透かされているようで恐ろしくなった。
「明日は終業式なんだろ。眠れるか?」
「眠れない、かもしれません……」
「牛乳あっためてやるからそれ飲んで横になれ。知ってるか? 目ェつぶってるだけで体力は回復するんだと」
「……ほんとですか」
 俺の言う事が聞けないのかと笑いながら尾形さんはキッチン下の電灯を点けた。パチリ、白熱灯が目に痛くて思わず目を閉じる。
 尾形さんの家の冷蔵庫はわたしのうちと同じ一人用の大きさなのに、中には野菜とかお肉とか、食べ物が押し込まれている。奥から開けてもいない牛乳を探って彼はいそいそとガスコンロのつまみを捻った。換気扇を回すついでのように煙草の火が灯る。
「尾形さんって優しい人なんですか」
「都合の良い人とはよく言われるが。もうすぐ沸くからそこ座ってろ」
 二日過ごして分かったことがある。食器は基本的に一人分で、グラスの代わりに水でもお酒でもマグカップで済ませてしまう。匙大概コンビニでもらった割り箸で済ませて、洗い物が面倒だったら陶器ごと捨ててしまう。それから缶酎ハイの飲み下しは吸い殻入れに転生する。
 高校二年生の身の回りには成人男性なんて先生しかいないから知らなかったが、どうやらコレが一般的らしい。無駄に音響の整った大きなテレビからは聞いたことの無いような言語を操る女優さんが物騒そうな取引を持ち掛けている。尾形さんは、わたしが安眠するまで起きて様子を確かめてくれているようだった。
「飲んだらちゃんと歯磨けよ」
「またお砂糖いれてくれたんですか?」
「女のガキは甘いもんが好きだろ」
 この家唯一のマグカップに並々注がれた人肌の温さのミルクを飲みながら、水道水で口を濯ぐ彼を見ていた。彼は自然と煙草を一本摘まんで火を点ける。隣のわたしの家にはもう誰もいないのに、気遣うように換気扇に向かって煙を吐く姿には申し訳なくなった。
「尾形さん、今日はいっしょに寝て欲しいです」
「できるか。通報されたら人生の終わりだ」
 ははッと笑いながら尾形さんは煙をわたしの顔に吐き捨てた。眉を顰めたらやっぱり彼は火種を水に落す。逆光に暗い尾形さんの目許に何かを失敗したような気がしたけれど、考えたところでわたしに選択肢は無いので素知らぬフリをした。ぬるくて甘いミルクには睡眠導入剤が入っているに違いないのだ。「おやすみ、なさい……」意識を現世から遠退けるわたしに尾形さんは前髪をかき上げながら、さっさと夢でも見てしまえと囁いた。尾形さんの吐息は煙草臭くて、けれどソレに安心してしまう自分に少しだけ怖くなった。





 この家に転がり込んでもう一週間が過ぎようとしている。
型落ちのケエタイはすぐ電源が点かなくなってしまうので、充電の傍らシャワーを浴びて、戻る頃には彼も髪を下ろしている。
明日は休みだと尾形さんが喋舌ったのはその頃だった。勤め先のビルがメンテナンスに入るとか、わたしには関係無いので流し込んでいた(ここからなんか歪んだ感じで歳の差恋愛とか監禁とか性暴力とかに続く)
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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