メモ( 新しい方 ) | ナノ

一、明治の話
 斜向かいの家は時候の行事のように通夜葬儀を執り行っている。結核だとか脚気だとか溺死だとか、要因の如何に違いはあれど、その家の人間は遅くても三十を間近に死んでしまうのだ。先祖が罰当たりな事をした、祟りが伝染するからあの家の人間にはようよう近付くなと、この辺の人間は幼い頃から言い聞かされている。
 茨城の実家は山間に囲まれながらも海も近い箱庭のような田舎であり、他所は皆元を手繰れば血の繋がった間柄だった。しかし俺だけは遠方の種なので遠巻きにされており、だから「バチ被り」と石を投げられる例の家の娘がおよそ他人事には見えなかった。

 その娘と自分がそう変わらない年頃だと知ったのは母の葬儀の時分である。近隣サン故に餞をと頭を下げるので、焼香だけの約束で彼女とその父が家を訪れた。遠目に、彼女の姿を見たことならばある。あまりに痩せこけて上背が低かったことから「あれが末の娘か」と思料していた次第であるが、彼女は意外や、俺の一つ下を数えるばかりであった。慣れた手付きで焼香を三度戴いた彼女は、縁側で憮然とする俺の斜め背後に正座して、「僭越ですが」と大人の真似事をするかのように世間話を始めた。
「お母様が召されまして、百之助様はさぞご安心なされたでしょう」
「……はあ」
「キット極楽浄土で幸いに過ごしておいでです。わたしも、早くお迎えが来ないものかと待っているンですよ」
 短命で有名な家の名の通り彼女の母はとうに死んでいる。そのせいなのか、彼女は幼少より死は救済であると教え込まれているようだった。俺としても葬儀に来なかった父と、母がせめてあの世で再会出来るよう画策していたので、彼女の土台無理のある慰みは(単に憐む物知らずの大人達の言葉よりは幾分か)すんなり耳に入ったものだった。
「百之助様には、ご兄弟はいらっしゃいますか」
「……弟が」
 だから彼女には俺の危惧した丈を総て話してしまおうと思ったのだ。彼女は、俺の弟(尤もコノ段階では勇作さんと言う名前すら知らなかったので、ただ父が本家で男児を設けてしまったと語るに留まるのだが)を聞きながら朗らかに自らの生い立ちを喋舌るのであった。彼女は八人姉妹の下から二番目に当たるらしい。
「弟さんだなんて、さぞ愛らしい事でしょうね。わたしにも妹がおりまして……不謹慎ですが、トメちゃんと言うんです。まだ一人で眠られない、いじらしい子なんです」
 その名前に意表を突かれた俺は、やはり呆然と彼女の話を聞いていた。トメとは察しの通り俺の母親と丸切り同じ名前である。だから彼女も遠慮がちにソレを呼ぶ訳だが、その口角が下がりがちの顔面から繰り出される「トメちゃん」は俺を産んだ「トメ」とはおおよそ異なる人格だったので何ンら気にはならなかった。
 彼女の家のトメちゃんは、尋常小学校に行く頃合いになっても読み書きはおろかごく基本的な和装の着脱とか、意思の疎通だとか、ソレら総てを満足にこなせない様で、普段は座敷牢に閉じ籠めているらしい。彼女の一番の仕事はトメちゃんに食事を運ぶことなのだと笑う。
 喋舌り好きの女を透すように頷いていた俺に、何か、勘違いしたんだか彼女は「明日もお邪魔させていただけませんか」と左斜め下を覗きながらシオらしく言った。
「悪いが、ばあちゃんがお前の家を嫌ってんだよ」
「でしたら……すみません、ありがとうございました」
「……裏山だったらばあちゃんの目も無えんだが」
「裏山!」
 そしたらまた、お会いしましょう。一等明るい顔色を押し付けられたが、ところでこの一件を切っ掛けに彼女との親睦が深まる事も無かった。本当だったら俺は今後裏山に通い彼女と逢瀬を重ねる筈なのだろう。しかし、この時の俺は母が死んだ空虚さや父に対する疑念に似た感覚で、近隣の女など到底気に掛ける余裕が無かったのだ。
 斜向かいの家はやはり人が死に、後妻を娶ったものの子を数人産んですぐ死んだ。結局俺が出兵するまでに女児男児の葬儀も何度か行われたので、結局彼女が生きているのか死んでいるんだかも分からず終いだった。

「案外残ってるもんだな」
 日露戦争従軍後、俺は行く宛も無く生家を訪れていた。
 北海道からまんまと茨城に舞い戻った俺は、上手い事年金を貰いながら独り身を貫いている。俺の出兵後暫く、ここは空き家になったらしい。元よりあったか知らない金目の物は見当たらず、ただ母の遺骨だけが墓にも入れられず仏間に鎮座していた。
 大した思い入れも無い家だと思っていた。竈門の前で日夜母があんこう鍋を拵えながら泣いていた。庭の隅の蔵で祖父が猟銃の手入れを教えてくれた。祖母は時折俺を不気味がりながらも毎日布団を敷いてくれた。
 埃を被った記憶が一挙に押し寄せて、無いはずの右目に在りし日の情景が浮かび上がる。思い浮かんだすべての事案で俺は無表情のままだった。やはり大した思い入れも無い家だ。
 せめて遺骨だけでも埋めてやろうと外に出た時であった。斜向かいの家が、相変わらず葬儀をしている。葬列の中の一人が「トメちゃん」と聞き覚えのある名前を溢して項垂れていた。あの家の人間がまた死んだのだと、俺はすぐに理解した。

 あの金塊戦争で理解したことが一つだけあった。俺には他人と折り合いを付ける才能が欠落しているらしい。
 それは共感性とか、協調性とか言う類の能力らしかった。鶴見中尉殿や杉元の野郎、土方の爺さん、どころか実父とも胎違いの弟ともついぞ分かり合うことが出来なかった。だから今更嫁が欲しいとも思わないし、尾形の血筋も花沢の系譜も自分で断たれて構わないと感じている。
 しかしどこにでも世話焼きはいるもので、良い話があるのだと、都度縁談の声が掛かってきた。世話焼きは最初こそ地主の娘だとか士族の遠縁だとか真っ当な女を紹介してきた癖に、何度か断るにつれ紹介先の位地は低くなり、未亡人や病人、果ては穢多の苗字すら挙がって来た。「キチガイ女の息子の分際で選り好みをするな」とは七度目の門前払いの折に世話焼きが俺に吐いた台詞である。
 かくして世話焼きは「これが最後だ」と銘打って俺に斜向かいの家の娘の釣書を叩き付けたのだ。
「こいつ、まだ生きてたのか」
「そろそろ迎えが来るっつって子供もこさえようとしない親不孝者よ。あたしの顔を立てると思ってね、いっぺん会ってやってくれないかね」
 彼女はそろそろ三十になる。ひょっとするとこいつだけは老衰で逝くのではあるまいか。だとすれば、子供の時分から極楽浄土に想いを馳せていたあの横顔はどれ程失意に濡れているのだろうか。ソノ顔を空想すると自分でも不可思議な程に興味がフツフツと沸いて来た。
 絶望しながら生き永らえる彼女の顔を見てみたい。と、ほんの興味本位で首を縦に振った俺に世話焼きは目を皿のように丸くして「すぐに都合する」と駆けて行った。あの家の人間だからいつ死ぬか分からんと、見合いの席はそれから三日後に設けられることになった。

「久しぶりだな。覚えてるか?」
「はい。百之助様はお変わり御座いませんね」
 行かず後家扱いを受けていると言う彼女は相変わらず痩せこけた心許無い指先で口元を隠しながら微笑した。俺のどこを取って変わりが無いと話すのか、どうやらこの女には、右目の義眼や顎の傷は見ていないらしい。
「勘違いされる前に言っておくが、俺は何もお前と結婚する気はねえ」
「薄薄は思っておりましたが……だったらどうしてお会いしていただけたんでしょうか」
「……生き延びてるって聞いて少し気になっただけだよ」
 想像とは違い、彼女は自分の寿命に特段絶望していなかった。ただ初めて会った時と違わず穏やかに、そしてどこか他人事のように微笑むばかりである。
 彼女は振袖を持て余しながら、戦争はどうだったかとか最近トメちゃん(末の妹)が死んだのだとか近況を呟いた。一通り終るや、対岸の火事の如き遠巻きな微笑が近場に寄って来る。昨晩の飯を話しながら彼女は自然な声色で「今日はお会いできてよかったです」と口にした。
「百之助様に気に掛けて頂けるんでしたら生きていた甲斐がありました。今日のこと冥土のみやげにしようと思います……トメも喜ぶでしょうから」
「お前、不死身かもしれねえな」
「不死身? そんな人、いるはずありませんって。人は簡単に死にますから」
「知り合いにいたんだよ」
 例の傷だらけの顔を回想する俺を彼女が笑う。

 
「結婚する気はねえが、お前が弱って行く様には興味がある」
「ソレを婚姻って言うんですよ」
 元よりこの場に来てしまった以上、断る理由を繕う方がよっぽど面倒だったのだ。そう言った都合で、俺は彼女を嫁に迎えることになった。しかしいざ同居が始まるという頃合いで、彼女はネズミ除けを誤飲し死んでしまった。
 あの家は軍人の俺より人死にに慣れていたのだ。彼女は即日火葬され、正式に娶った訳では無いという理屈で死に目は勿論遺影すら拝めずに離別する運びとなった。この一件が嫌な風に噂を作り、「尾形百之助に関わる人間は死んでしまう」と実しやかに語られるようになった為、俺に関わる他人は結局出来ず、俺は独り身のまま老衰を迎えることになった。


二、昭和の話
 家にいては母が気の毒なので、従軍を志願した俺は、結局右目が不自由なばかりに丙種合格となり地元で鳥を撃っている。いつかと違い母はあんこう鍋を拵えなかった。代わりに父と瓜二つの顔立ちをした俺を見てはさめざめと泣くのであった。
 北関東の田舎にいては、ただ若干ひもじい思いをするばかりで、まるで大戦は無縁である。思えばあの日露戦争下でも本土の人間はこうしてぬくぬくと日常を送っていたのかもしれない。
「百之助様、今日もお変わりないようで」
「ああ、お前か」
 斜向かいの家の女は今、外れの屠殺場の娘に相成っていた。理由は違えど彼女はあの当時と同じく村の人間から敬遠されている。唯一俺が彼女に声を掛けるものなので、いつしか仕入れの合間にうちを訪れては縁側で世間話をするようになっていた。
「……右側に立つな」
「申し訳ありません。ただ、こっち側から見た方が桜がキレイに見える気がしたので」
 戯けるように彼女が笑い、桜色は動物の脳味噌に似ていると言った。鹿やリスの脳なら嫌と言うほど覚えがある。俺には明治の記憶があった。
 日露戦争に金塊争奪戦、そして当然彼女の死因を俺はよく覚えている。


 どう言う悪運か結局生き延びた俺は、駐屯地で玉音放送を聴きながら茫然としていた。
 通夜さながらの空気が蔓延る中、上官がぽつり、「帰ろう」と溢した。独り言は水面の滴のように波及し唱和に変わる。地元からの電報曰く、俺の母は死んだらしい。父は元よりいない。職業軍人は終戦すればただの無職で、だからこのまま駐屯地付近に住んでも良かったのだが、俺を嫌っていた筈の同期ですら肩を回して「一緒に列車に乗ろう」と声を掛けてくる始末だったのでこの場は肯く他無かった。

 いつぶりかに訪れた地元は上手い事戦禍を逃れていたらしく、まるで大戦など無かったかのように長閑な光景が広がっている。軍服の俺の帰還に街の女諸君が、自分の夫や息子は生きているか、或いは遺品を持っていないかと詰め寄った。




「案外残ってるもんだな……あ?」
 それらを掻い潜りようやく辿り着いた懐かしの我が家で呟いた時である。あんこう鍋を拵え続ける母と俺に懐いて離れない胎違いの弟、そして最期の一言まで俺を蔑み続けた父の顔が一挙に頭の中を駆けたのだ。まるで無声映画でも見るかのように、脳内に焼き付いた記憶が目蓋の裏に蘇る。行った事も無い北海道の大雪の中、顔に傷がある男達、アイヌの少女、映像の最後はある女で締め括られた。
 その女が、外れの屠殺場の娘であることに気付くまでさして時間は掛からなかった。そうだ、俺は明治時代に

 



生来自分以外に興味を持たない俺がまさか他人の安否に明るいはずが無い。知らんと一蹴すると、まるで戦犯でも相手取るような罵詈雑言が降りかかって来た。
 教育や世論の賜物では無く、俺はかの大日本帝国が敗北を喫した事に驚嘆していたのだ。心のどこかで日本軍は絶対に負けないものだと確信していたのである。

「あの時以上に貧しい国になってしまったが恩給は出るのだろうか」と頭を悩ましていた。
 あの時とは日露戦争の頃、明治時代の事である。
 

「よく無事で帰られましたね」
 手痛い歓迎を一頻り受けて、いざ生家に帰ろうとした俺を呼び止めたのは、どこか聞き覚えのある女の声だった。彼女は米国の意匠を感じさせる桜色の着物を羽織り、お久し振りですと畏った。しかし一体、俺は彼女に会った事があるだろうか。


彼女は確か、外れにある屠殺場の娘だ。
「……お前も俺に文句を言いに来たのか」
「滅相もありません」
 ひもじい思いとは無縁だったのだろうか、彼女は出兵前より幾分明るい顔色をしていた。真新しい桜色の着物はアメリカの意匠を感じさせるも、その鮮やかな発色がどこか動物の新鮮な臓物を思わせる(こう言った先入観のせいで彼女は滅多に街に出て来ない)。
「そうか、意外だな。駅ではお前のせいで息子が死んだとか石まで投げられたんだが」
「心無い事を言う人もいらっしゃるんですね。わたしは、百之助様のことお待ちしていたんですが」


 正直なところ、元々死ぬつもりで陸軍に志願していたのだ。崖から落ちて作った顔面の大きな傷の所為で、客商売はままならないだろう。銃の腕には覚えがあったが徴兵検査の直後に事故で右目を失明してしまった。生来他人と関わる事が得意で無いので、

この時代柄、生きているだけで儲け物だとばかりに若い男手は賞賛されるが、銃撃だけが取り柄の戦地で片目を失った中途半端な傷痍軍人に就職口が見付かるとも言い難い。
 かと言って飢え死にをするつもりも無かった。だから取り敢えず、誰もいない自宅に帰ることにしたのである。
「案外残ってるもんだな」
 まるで大戦など無かったかのように長閑な光景が広がっている。


ただ他兵士と違い俺は、お国の為でなく遣る瀬無い自分の為に銃を持っていたに過ぎないので「ああ、大日本帝国軍も敗北するのか」と納得し、「あの時以上に貧しい国になってしまったが恩給は出るのだろうか」と頭を悩ましていた。
 あの時とは日露戦争の頃、明治時代の事である。我ながら浮世離れした話であるが、俺は昔の記憶を持ったまま別人として生まれたのだ。とは言え、当時の父も今と同じく陸軍将校で母は一介の芸者であり、二人ともかの人間宣言を耳にすること無く死んでいる(念の為、今回は俺が殺した訳では無い)。
 顔面の骨折と右目の失明を除くと取り立てて外傷無く帰還した俺は、正直なところ、どうすれば良い物か考えられなかった。

 平均余命が跳ね上がったのは第二次大戦後のことである。猟銃の扱いに長けていた俺には村の誰よりも早く徴兵の声が掛かっていたが、どう言う悪運か、結局生き延びて、駐屯地で玉音放送を聴きながら茫然としていた。
 地元からの電報曰く、母親は父の訃報を受けた衝撃からキチガイになり精神病院に押し込まれているらしい。自害も時間の問題だと同期が嗤った。あの母の事であるから、もし死んだのが俺ならば正気のままだっただろう。
「百之助、これからどうすんの?」
「……帰る」
「帰る家無いじゃん。あ、もしかして花沢家にタカリに行くとか? 成功したら酒奢ってよ」
 同期の宇佐美が特徴的な顔を歪めて無遠慮に笑う。もし俺が花沢家に行こうものならば、名誉の戦死を遂げた筈の家長が化けて出たと騒ぎになるに違いない。
 正直なところ、どうすれば良い物か考えられなかったのだ。元々死ぬつもりで陸軍に志願した。この時代柄、生きているだけで儲け物だとばかりに若い男手は賞賛されるが、銃撃だけが取り柄の戦地で片目を失った中途半端な傷痍軍人に就職口が見付かるとも言い難い。
 かと言って飢え死にをするつもりも無かった。だから取り敢えず、誰もいない自宅に帰ることにしたのである。
「案外残ってるもんだな」
 まるで大戦など無かったかのように長閑な光景が広がっている。

→どうするの




三、平成の話
 俺の記憶は確実に正しいので、今回彼女は腹を刺されて死ぬだろう。
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