リフレイン


全身をざあざあと洗い流すような雨だった。空は青く、太陽は燦々と地面を照らしているというのに。突然の雨に私は為すすべもなく立ち尽くしていた。水滴が段々と、しかし確実に肌の表面温度を下げていく。狐の嫁入りだ、と嬉しそうに叫ぶ子供の声が、やけにはっきりと聞こえた。


「今日の東京は一日晴れでしょう」という言葉が、文字で、音で、映像で再生される。テレビの中のお天気お姉さんは、耳障りの良い声と万人受けする小綺麗な格好で私達に微笑みを投げかけていた。

今日は一日晴れでしょう、今日は一日晴れでしょう、一日晴れでしょう、晴れでしょう晴れでしょう。

毎朝繰り返し耳にするその声は、今日発されたのか、それとも昨日だったのか、はたまた一週間前だったのか、それすら最早わからない。毎日同じ時間の電車に乗って、仕事を淡々とこなし、上司に小言を言われながら残業をして、終電で帰る。その生活を続けてもう何ヶ月になるのだろう。何の意味もない生活を一日、一日と消費していくごとに、私の中の何かも少しずつ、少しずつ摩耗されていった。夢と希望をもって上京してきたあの頃の自分は散り散りになって消え去り、何のために働いているのか。それすらもわからないまま、機械人間になった私が踏切に飛び込むのも、そう遅くはなかったかもしれない。

雨水をじっとりと吸い込み、色が変わったスーツを見下ろした所で、頭の中の糸がプツンと切れる音がした。帰ろう。そう思った瞬間踵を返し、来た道を駆け足で戻っていた。鞄の中には大事な商談資料が入っている。取引先に渡さなかった事を上司が知ったら、どんなにこっぴどく叱られるか想像は容易かったが、今はそんな事どうでも良かった。何時もなら上司に叱られまいとびくびくしているのに、今日は何ら怖くはない。むしろ困って仕舞えばいいとさえ思っていた。

下を向いたまま、傘もささずにずんずんと歩き続けると、見慣れたアパートが目に入る。安いからと一階に借りた一室は、一人暮らしの女性として少しだけ防犯意識が低かったかもしれない。
べたりと顔に張り付いた髪の毛を乱暴にぬぐい、これもスーツと同じく存分に水を吸った鞄を開いて鍵を取り出す。ふと顔を上げると、廊下に誰かが立っているのが目に入った。
長い銀髪に真っ黒な服。中性的な雰囲気だが体格からして男性だろう。ここは社員寮だったため、アパートの住人ではない事が一目でわかった。彼も突然の雨に対処できなかったのか、髪の毛から水が滴り落ち、服も私と同じようにびしょ濡れだった。真っ黒で濡れ鼠の風貌をした私たちは、どこか似ていたのかもしれない。明らかに怪しいその人物の前を早足で通り過ぎると、素早く鍵を開け、自分の部屋へと滑り込んだ。もちろん施錠をしっかりして。
やはり、というべきかこの日の私は兎に角、何処かおかしかったのだ。雨水を吸って重くなったスーツを脱ぎ捨て、シャワーへ駆け込んだ私は先ほどすれ違った人の事が気になっていた。ほかほかと温まった身体を部屋着で包み、髪の毛をふきながら何となく外を見ると、彼はまだ同じ場所で佇んでいる。壁にもたれかかり、腕を組んで未だ鋭い雨粒を落とす空を見上げる横顔は、彫刻のように研ぎ澄まされていて、張り詰めた空気を醸し出していた。長い銀髪が朝露のようにきらきらと光って綺麗だったのを覚えている。

「拭きますか?」

ドアをガチャリと開け、タオルを差し出した私を、彼は驚いたような表情で見つめた。

「…お茶くらい出しますけど」

彼は無言でタオルを受け取ると、大人しく私の後ろをついて来た。まるで捨てられていた子犬のように。






「ただいま」
「おかえり」

居間から彼がひょっこりと半分顔を出して出迎えてくれる。それと同時に懐かしく、温かい匂いが玄関まで漂ってきた。

「なにー?カレー作ってるの?」
「ああ、そうだよ」

お疲れさま、と頭に口づけを落とす彼を尻目に、私は味見をしようと鍋に手を伸ばす。

「小生よりカレーの方が大事だって言うのかい」

滅多に言わないような彼の台詞に少しだけ嬉しくなり、私も彼の広い背中へと手を回した。一見華奢のようだが実はしっかりと引き締まっている体格に、毎回どきりとしてしまうのが何だか恥ずかしい。首元に顔を埋めると、雨のような匂いがする。何処と無く安心感を覚えるこの香りが、私は大好きだった。

あの雨の日から驚くべきスピードで引き合った私たちは同棲を始めていた。葬儀屋を営んでいるという彼の素性は知れなかったが、そんなミステリアスな部分も、彼の魅力を十二分に引き立てるいい材料になっていたのだ。恋は盲目とよく言うが正にその通りで、その時の私は息をするかのように彼に堕ちていった。


狭いシングルベッドで他愛のない話を繰り返し、繰り返しする。今日は小松菜が安かったとか、三軒茶屋で三毛猫に会ったよ、とか。子供の頃の話になると「小生の話より、君の話が聞きたいな」と彼は必ず困ったように笑った。彼の遠回しな、しかし明らかな拒絶に気づかないふりをして、私は努めて明るく、面白可笑しく小さい頃の話を聞かせた。すると彼は安心したように笑うのだ。
眠気が頂点に達し、耳元で聞こえる声が夢か現か分からなくなった頃、彼は必ず私を強く抱きしめる。存在を確かめるように、強く、ぎゅっと。それはまるで祈りのようであり、儀式のようでもあった。私はここにいるよと、力の入らない腕で首元に手を回すと、彼は安心したように眠りに落ちるのだった。


「由里、君は小生が好きかい?」

私の仕事が休みで彼が仕事の日だった。中々合わない休みに困ったねと笑い合い、いってらっしゃいと見送ろうとしたその時、唐突に彼の口から発せられた言葉に戸惑う。何言ってるのと笑って誤魔化そうとするが、瞳を覗き込んで口ごもる。彼の目の奥は、水溜りの水紋のように波打っていた。小雨が降り注ぐように揺れては止まり、揺れては止まる事を何度も繰り返している。

「私は、好きだよ」

一語一語、句読点を打つようにはっきりとそう答えると、彼はふっと頬を緩め、行ってくるよ、と出て行った。しばらく彼のいなくなった玄関に立ちすくむ。まるでそこに彼の残像でもあるかのように、私は虚空に向かって手を伸ばした。刹那、彼を追いかけなければいけない衝動に駆られる。サンダルも履かずに飛び出したが既に彼の姿はなかった。
私はきづいていた。彼が一度も私を愛しているとも、好きだとも言ったことがなかった事を。






予感というのは往々にして当たるもので、それは悪いものに限っている。

あれから彼は帰ってこなかった。その事実は意外にもあっさり、ストンと私の胸に落ちていき、以前と変わらない生活を慎ましく送っていた。彼の線の細さや、希薄な雰囲気は、いつも頭のどこかで「いつか消えてしまう」という事を想起させていた。彼の”儀式”を受けている時でさえ。消えないで、ここにいて、と祈っていたのは彼ではなく、自分だったのだ。
ささやかだが、幸せで満ち満ち足りていたあの頃を思い出し、強く心臓を掴まれる感覚に陥ることはあった。しかし夢のようだった時間は、あれは錯覚だったと思い込むことで、其処まで苦しむこともなかった。一度も泣けなかった私は、思っているより重症なのかもしれないけれど。

スマートフォンに一枚だけ保存してあった、本名も知らない彼の後ろ姿を見つめる。
無表情で右下をタップすると、彼は永遠に私の前から消去された。




全身をざあざあと洗い流すような雨だった。空は青く、太陽は燦々と地面を照らしているというのに。突然の雨に私は為すすべもなく立ち尽くしていた。水滴が段々と、しかし確実に肌の表面温度を下げていく。

重い買い物袋を両手に下げ、走る気力もなかった私は、俯いてとぼとぼと歩き始めた。信号が赤から青に変わり、横断歩道へ一歩足を踏み出す。その瞬間けたたましいクラクションと、弾けるような衝撃ともに私の体は宙を舞っていた。買い物袋に入っていた玉ねぎや人参が、スローモーションで飛んでいる様子は些か滑稽だった。
ああ、今日の夕飯はカレーだったのにな、と明後日な事を考えながら、そのまま頭から地面に落下していく。ぐしゃり、と嫌な音がして意識が暗転する瞬間。
真っ黒な彼の姿が青信号の下に見えた気がした。



(彼女を死神にさせたくなかった死神の悲しいお話)



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