小説 | ナノ


▼ 09 いつも通りの夜が始まる

「くっそ……!」

感情に任せ、思い切り壁を殴りつけると、右手の拳が壁紙にめりこむ。漆喰がパラパラと落ち、拳から血が流れ始めたが、そんな事を気にしている余裕などなかった。
あの時、リアンが連れてきた青いドレスの娘。真黒な髪、華奢な後ろ姿、顔など見なくてもわかる。間違いなく由里の姿だった。

「どうして…どうしてこんな場所に…」

あれから数ヶ月。事件の直後に姿をくらましたため、すぐに自分が黒幕だと発覚し、リアンに捜査の手が及ぶのは時間の問題だった。今回の海上集会に伯爵と執事くんが首を突っ込んでくる事は予想済みだったが、まさか彼女まで付いてくるとは思わなかったのだ。彼等に上手いように飼い慣らされているのだろう、気に喰わない。
そう思ったところで、その感情はもはや御門違いなものだと気付く。

あともう少しでこの船は地獄絵図と化する。普通の人間である彼女が生き残れる可能性など、数パーセントにも満たない。いくら執事くんが居るといえど、彼の最優先事項は伯爵の安全であり、彼女のお守りをする事ではないのだ。窮地に立たされた際、由里など簡単に切り捨てるだろう。彼のしたたかさなんてものは、手に取るようにわかる。自分がそうであるように。

ははは、と乾いた笑いが口から漏れる。
小生に選択肢など存在しなかった。自分は前に進む事しか許されないのだ。

彼女が死んだあの日から。






時刻は午後8時を示している。ふと周りを見渡すと、図書室にはもう誰もおらず、部屋はしんと静まり返っていた。読みかけていた本を閉じ、嵌め殺しの窓に手を当てる。ガラスはひんやりと冷たく、暖炉の火で少しばかり温まりすぎた体温を吸収してくれた。今は曇っているのか、窓の外は漆黒の闇に包まれている。

何気なく手に取った本は、ある1組の男女が身分違いの恋に落ち、駆け落ちをする如何にもありがちな内容だった。クライマックスに向けてどんどん展開が暗くなっていくため、何と無く興醒めし、読むのを途中で辞めてしまった。続きなんぞ読まなくてもわかる。あの女は殺され、男も後を追って、ジ・エンドだ。

そのままぼうっと外を見ていたが、背後で扉の開く音がして我に帰る。入ってきたのは、エドワード・ミッドフォードだった。

「…こんばんは」

慌てて手の中の本を棚に戻し、笑顔を作る。こんばんは、と挨拶を返すと、彼は筆記用具と数冊のテキストを持っていた。

「あら、お勉強?」

「ああ、休暇後にテストがあるんだ」

そう言うと彼は向かいの席に座り、テーブルランプをつけると勉強を始めた。私も違う本を数冊手に取って再び読み始める。今回は星座をモチーフとした話だった。
10分ほど経っただろうか、ふと顔を上げると、エドワードはさっきから全くペンが進んでいない様子だった。

「わからないの?」

「あ?…あぁ幾何は苦手でな」

彼のノートを覗き込むと几帳面な字が綴られ、図形が描かれていた。原点を通る円の軌跡を求めよ。という高校生レベルの数学だった。簡単な公式を教えると、なるほどと言ってスラスラ先を解き始める。飲み込みは早いようだ。カリカリとペンを走らせる彼を眺めていると、ある光景が脳内に浮かぶ。詰襟の学生服を着た男の子、勉強部屋、青チャート。ここに来る前、バイトで家庭教師をしていたことを、ふと思い出した。

「お前頭いいんだな」

「そうでもないよ」

エドワードは何が得意なの?と聞くと意外なことにラテン語と返ってきた。

「学校に入学したばかりの時、腐る程罰則を受けたからな」

そうはにかんで笑うエドワードは学生らしい顔をしていた。なんでも彼の通うウェストン校には"寮弟"という伝統があり、決められた先輩と兄弟関係を結ぶ制度があるらしかった。入学したてのエドワードはやんちゃをして、罰則として何度もラテン語の書き取りをさせられたとか。そんな話を面白おかしく聞かせてくれた。

「もう今は改心して監督生の?弟をしてるけどな」

「監督生って?」

「ああ、ウェストン校には4つの寮があって、監督生は各寮の代表の事だ」

「じゃあエドワードは次期監督生ってこと?」

「うまくいけばそうだな」

そう言って彼は誇らしそうに胸を張った。すごいじゃない、と言うと彼は監督生の厳しさや大変さ、自分の先輩方がどれだけ素晴らしい人達かを、目を輝かせて語ってくれた。

こうして豪華客船3日目の夜は、あっという間に過ぎていった。

煌々とした月の明かりが船を照らしている。甲板で幼馴染の娘にプロポーズをした者、部屋で結婚記念日を祝っている家族、友人とダーツを楽しんでいる人々。穏やかな海上を進む船の上、最後の幸せな一時を、皆それぞれ過ごしていた。




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