▼ 04 ゆるやかに夜
ミッドナイトブルーのナイトドレスに着替えて甲板に向かうと、ちょうど大西洋の向こうに沈みゆく夕陽を拝むことができた。
空は淡い橙色から薄紫色へと美しいグラデーションで彩られ、幻想的な風景を生み出している。周りを見渡すと皆同じように、海の向こうへと視線を向けていた。中にはワイングラス片手に乾杯を始めている人もいる。
時間がゆっくりと流れていた。潮の匂いのする柔らかい風が頬をくすぐり、ドレスの裾をふわりと持ち上げる。たなびく髪を抑えながら、きらきらと輝く海面に見とれていると、後ろから誰かに声をかけられている事に気が付く。
「ねぇ、ねぇーえ君ったら。今ヒマしてるの?」
横に顔を向けると、明るい髪色をした如何にも軟派な男性が、すぐ隣の手すりに手をかけてこちらを見ていた。彼ははい、どーぞとシャンパンを私に手渡してくれる。
受け取ったはいいものの、手の中のグラスをどうしようかと考えあぐねていた。見ず知らずの人から貰ったものを簡単に飲めるほど、私の警戒心は緩くはない。
彼は、僕等の出会いに乾杯と言いながら、パチンとウインクをすると煽るようにシャンパンを飲み干す。よくそんなクサイ台詞を吐けるなとある意味感心してしまった。
「俺はロナルド・ノックス、君は?」
「エミリーです」
「それ絶対偽名でしょ」
彼は笑いながら私の肩に手を置いてくる。明らかに軽そうな初対面の彼に、自分の名を名乗る必要も義理もなかった。
「君、東洋人?綺麗な髪の毛してるねぇ」
「ええ」
「つれないなぁ」
一々距離が近い彼に若干の嫌悪感を抱きつつ、目線は海面に落としたまま適当に話を受け流していると、いきなり顎を掴まれ、顔を強制的に彼の方へと向けさせられた。
「人と話すときは目を見なさいって教わらなかった〜?」
そういたずらっぽく笑いながら、彼は私の目の奥を覗き込んでくる。意外に端整な顔立ちをしているのが癪だった。嫌々彼と目線を合わせた所で気づいてしまう。
眼鏡の奥で細められた瞳は…黄緑色を宿していた。
…まさかこの人も。
ねぇ、と口を開きかけた所で彼は、いっけねぇもうこんな時間じゃんと時計の針を確認する。
「…あの!」
「じゃあまたね、エミリーちゃん!」
今度は名前教えてね〜と手を上げながら彼は走り去ってしまった。追いかけようと一歩踏み出すが、ヒールを履いた足では彼に到底追いつけないだろうと諦める。
ロナルド・ノックス。彼もアンダーテイカーと同じ死神だろう。やはりこの船で何かが起ころうとしていると、私は再度確信する。
前方にシエルとセバスチャンの姿が見え、一応先ほどの事を報告しようと駆け寄るとどこからか甲高い声が聞こえてきた。
「シエルーーーー!!!それに由里さんも!!」
どうしているの!!嬉しい!!とぴょんぴょん跳ねまわりながらシエルに飛びついたのは、彼の許嫁であるエリザベス・ミッドフォードだった。
「エリザベス、はしたない真似はおやめなさい」
よく通る声がぴしゃりとエリザベスを叱責し彼女は、はぁいと小さく縮こまる。後ろから歩いてきたのはエリザベスの家族だろうか。
「…こちらは?」
私より少し年下と思われる男の子と目が合った。シエルの仕事仲間と素直に言う訳にもいかないし…と言い淀んでいると、マダム・レッドの遠い親戚だ、とシエルが助け舟を出してくれた。
「由里です」
「…エドワード・ミッドフォードだ。リジーが世話になっている」
大きな深い緑色の瞳と目元がエリザベスとよく似ている。彼はぶっきらぼうにそう言うと、恥ずかしそうに目を逸らしてしまった。
年は16.7歳くらいだろう。思春期真っ只中の反応が可愛く思え、少しだけ笑ってしまう。
「な、なにが可笑しい」
「いいえ、ただちょっと可愛かったものだから」
そう言うとエドワードは蛸のように顔を真っ赤にして、馬鹿にするなと後ろを向いてしまった。少しからかい過ぎてしまっただろうか。
「あー!お兄様ばかり由里さんとお話ししてズルいわ!私ともお話ししましょう?」
エリザベスはパッと目を輝かせると何か良いことを思いついたという風に一度手を叩いた。
「そうだ!シエル達と一緒に晩餐を過ごせばいいのよ!ね、いいでしょう?」
家族水入らずの時間を私が邪魔をする訳にもいかず丁重にお断りしたが、ミッドフォード家の皆さんはぜひ一緒にと言ってくださったたため、ご好意に甘えることにした。
こういう時、セバスチャンから社交界のマナーを徹底的に教えてもらえてよかったと心から思う。もう二度とあんなスパルタは御免だが。
ちら、とセバスチャンの方を見ると、私の考えている事が分かったのか、彼は可笑しそうに口元に手を当てて笑っていた。
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