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目を覚ますとそこは、見知らぬ店だった。
「私…どうしたんだっけ」
まだぼんやりとする頭を必死で動かす。意識がなくなる前の行動を思い出して、はっとした。
そうだ、私は刺されたのだ。
思わず背中を確認するが、血痕どころか傷跡一つ見当たらない。
あれは夢だったのか。いや、そんなはずはない。確かに刺され、道の往来で倒れ込んだ。全身を貫かれたような激しい痛みも覚えている。
しかしその証拠がないのだ。ますます頭の中が混乱し、目を閉じて額を手で押さえる。
「あれはやっぱり…夢…?」
「いいや、夢ではないよ」
突然頭上から声が降ってきた。
驚いて顔をあげると、そこにはバーテン服の見知らぬ男性が立っていた。
「はじめまして、ようこそお嬢さん。私はバードンだ」
にっこりと笑い、握手を求められる。私はおずおずと手を差し出した。
「…どういうことですか?」
「まぁまぁ、話は長くなる…まずは一杯飲んで、それから話すとしよう」
君、お酒は飲めるよね、と彼は返事も聞かずに何かを作りはじめる。
正直酒など飲む気分にもなれなかったが、せっかく作ってくれるのに、飲まないわけにもいかない。断って機嫌を悪くされ、事の顛末を説明してもらえなくなるのも御免だった。
テンポよく液体がグラスに注がれ、スプーンが淵を叩く軽快な音が店内に響く。流れるような手際の良い作業に目が離せなかった。
「どうぞ」
目の前に差し出されたのは、透明な液体だった。おそるおそる、口に含むと爽やかな柑橘系の風味と共に、ほのかにオリーブの香りがする。すっきりとした味が鈍る頭をクリアにしてくれる。
素直に美味しいと口にすると彼はにこやかに微笑んだ。
「それはよかった」
彼はその表情のままこちらを見つめ、目をすっと細めると、ここからが本題だ、と静かに言った。
「結論から述べよう、新庄由里。君は先ほど死亡した」
「…そうですか」
やっぱり、と言う気持ちが大きかった。刺された感触、痛みは生々しく夢だとは到底思えない。なのに傷跡ひとつない今の状況は、死んだ後としかどう考えても思いつかなかった。そんなもの信じていなかったけれど。
「意外だな、驚かないんだね」
「…あの状況で生きている方がおかしいですから」
だったら、ここは何処で彼は何者なんだろうか。死後の世界なんてものは、小さな子供でも知っているような胡散臭い知識しか持ち合わせていなかった。天国なら蓮の上に立つお釈迦様、地獄なら舌をちょん切る閻魔様だ。渡った覚えは全くないが、三途の川とかいうものも存在するらしい。
しかし、バードンと名乗る男性は何処にでもいるような中年の男性で、到底神様なんてものには見えず、この店には川など流れている様子もなかった。
私の疑問を悟ったのか、彼は小さく頷くと説明を始めた。
「私は人間ではない、一口に言えば死神みたいなものだ。人の魂を回収することを生業としている」
「死神?」
予想していなかった返答に思わず聞き返してしまう。ふざけているのかと一瞬考えたが、バードンさんの表情は至極真面目だった。
「君はね、あのまま死んで人生を終えるはずだった。だけどちょっと気が変わってね、人生のやり直しをさせてあげようと思ったのだよ」
「人生を…やり直す?」
「あぁ、そうさ。今とは全く違う世界で新しい人生を送ってみる気はないかい?」
悪魔の甘言だと思った。そんなうまい話があるわけがないと理性が訴えていた。甘言を弄する友を恐れよという言葉があるように、彼の提案には何かしら裏があるに違いなかった。
しかしどうしようもなく"人生のやり直し"という言葉に惹かれた。
正直、この21年間いいことの方が少なかったのだ。
今までとは全く違う、人生。
今度こそはうまくいくかもしれない、人生。
「もし君がやり直しを望むなら、ここにサインを」
顔を上げると、目の前に一枚の紙と高価そうなボールペンが用意されていた。手に取ると書面にあるのは氏名欄のみ。住所年齢などもう把握済みという事なのか、はたまたそんなものは必要ないという事なのか。裏を捲っても説明書きなど存在しなかった。クーリングオフなど効く訳がないだろう
「…ただし物事には代償がつきものだ。その覚悟が君にあるかい?」
バードンさんは口元に嫌な笑みを浮かべ、頬杖をつきながらこちらを見つめてくる。まるで心の中まで覗き込まれているような気持ちになり、思わず目を逸らしてしまった。
代償、対価。その言葉に少しだけ心が揺らぐ。しかし私は決心していた。どんな代償を払っても人生のやり直しをしたかった。今度こそは自分の手で幸せを掴みたかったのだ。
「…私には何もないから、今さら失う物なんてないわ」
そう静かに言い切ると、ひんやりと冷たいボールペンを手に取った。
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