▼ 05
足が床に縫い止められたみたいに動けなくなる。後ろを振り向くことができない。
「タマ」
忠太がもう一度俺の名前を呼んだ。祖父がその場から立ち上がり、静かに居間を出て行くのが見えた。
待って、じいちゃん、行かないで。俺、どうすればいいかわからないから。忠太と俺、この家で二人きりになんてしないで。
立ち尽くす俺を、忠太はそっと後ろから抱き寄せた。あ、と小さく吐息にも似た声がようやく漏れる。忠太の匂いが鼻を掠めたからだ。
「一緒に帰ろう」
忠太の声が鼓膜を揺さぶる。
…無理だよ。だって俺がいなくちゃ誰がみんなを守るんだよ。巴も母さんもじいちゃんもばあちゃんも、みんなみんな俺の大事な人なんだ。
俺はここにいるって決めたんだ。もう逃げないって誓ったんだ。
――忠太だって、あの家を、祖父母が託したあの家を、捨てられないだろう?
「…っ」
俺も忠太も同じ。どうしても手放せない大事なものがある。互いのためにその大事なものを捨ててしまうなんて、そんな馬鹿な話があってたまるか。
俺の帰る場所はここで、忠太の家じゃない。
そう告げるだけで、全てが終わるはずなのに。
「…忠、太…」
最初から知っていた。俺は俺の望みをわかっていた。何度も何度も心の中で唱えたじゃないか。
忠太、俺も、ここにいたいよって。
「ここ」ってどこ?生まれ育ったあの町?それとも忠太の家?
違う。
場所なんか関係ない。俺がいたいと願ったのは、忠太の腕の中。彼の大切な世界の中で、あの家と同じくらい、彼の中に残るものでありたい。あの家と同じように、大切にされたい。
「タマ、俺の傍にいて」
迷っている俺に、忠太は抱きしめる手を一層強めそう言った。
「俺は優しくなんかないから、タマが1パーセントでも俺と一緒にいてもいいって思ってるなら、どんなに口で拒絶したって聞いてやらない」
うそ。忠太が優しくないなんて大嘘。
俺を拾ってくれたときも、幾度も抱かれたあの夜も、忠太の手は涙が出るくらい温かった。
「…じゃ、ない」
「聞こえない」
「1パーセントじゃ、ない」
そんなものじゃない。そんな生易しい気持ちじゃない。
「忠太…っ」
俺の全身が、忠太といたいって叫んでる。
――追いかけてきてくれた。忠太の中にも、ちゃんと俺は残ってた。
「1パーセントじゃないなら」
忠太は突っ立ったままぼろぼろと泣く俺の身体を反転させ、今度は前から抱きとめてくれる。
「そうじゃないなら、ありがとうだなんてたった一言で終わらせようとするなよ」
家に一枚だけ残してきた書置きのことを言っているのだろう。
書こうと思えばもっといろんなことを書けたし、伝えたいことはもちろんたくさんあった。でもそうするときりがなくなってしまいそうだった。それに、これから出て行こうとするときに下手なことを書いてしまうと、それが未練になる。
だから一言だけ、お礼の言葉を書いた。あたりさわりがないと言ってしまえばそれまでの言葉だが、忠太に感謝していることは確かだったので、嘘はついていない。
嘘じゃない。
だけど、本当に言いたかったことでもない。
「お前が心の底から俺に言いたかったことは、ちゃんと別にあるだろ?」
やっぱり忠太には俺の気持ちがわかっていたんだ。そりゃそうか。忠太だもの。
俺は忠太の服にしがみつき、ようやく重く閉ざしていた口を開けた。
「…好き、忠太…」
「俺もタマが好き」
忠太の告白を聞いた瞬間、俺はもうずっと前から彼の気持ちを知っていたような気がした。ほんの少しの時間だったとはいえ、俺は忠太の傍にいたのだから、当然かもしれない。気づいていたのに、気づかないふり。俺はまた逃げていたのだ。
「帰ってきてほしい。タマがいないあの家は、俺には広すぎる」
「うん…でも、俺」
「わかってる」
俺にも背負わせて、と忠太は言った。
「俺のために全て捨てろなんて言わない。タマに傍にいて欲しいから、タマの背負ってるものを俺にも分けてよ」
「そんな、どうやって」
「俺が稼ぐよ。たくさん書いて、もっと有名になって…弟くんの治療費も、タマのじいちゃんばあちゃんの生活が苦しいなら、その分の援助だって」
「だ…、駄目、俺、そんなことまでしてもらえない…っ」
「なんで」
「なんでって…」
「タマの家族なら、俺にとっても家族だろ」
「え…?」
「暴論かもしれないけどな」
どうして、忠太。どうしてそんな風に思ってくれるの。
でも気がついた。互いの立場が反対だとしたら、俺は間違いなく忠太だけでなく忠太の家族ごと支えたいと思うだろう。俺と忠太は一緒なんだ。俺たちは同じように互いを想ってる。
それに、と忠太は話を続けた。
「俺だって、自分は何にも捨てないくせにタマには帰ってこいだなんて、十分無理難題突き付けてる。俺がタマと一緒にいたいから、ただそれだけのために」
俺は忠太の腕の中で否定するように首を振った。
「…ううん。いい」
捨てなくても良いんだと気がついたのはたった今。気付かせてくれたのは忠太じゃないか。
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