▼ You mean the world to me.
少し肌寒い夜のことだった。ふと目を覚ますと、隣で寝ていたはずの彼の姿がなかった。
「…?」
時間にして深夜2時。一体どこへ行ってしまったのだろう。まさかこんな夜更けに出かけたなんてことはないだろうが。何となく心もとない気持ちになって、のそのそとベッドから抜け出す。
リビングを見回して気がついた。ベランダの窓が開いている。
「…ひふみ?」
恐る恐る覗き見ると、見慣れた後姿がそこにあった。
良かった、いた。ほっと息を吐く。ひふみがその音に振り返った。
「どうした」
どうした、じゃねぇよ。お前がどうしたんだ。こんな時間にベランダなんかで佇んで。寒がりのくせに。
ベランダ用のサンダルを足に突っかけて隣に並ぶ。暗闇の中に白く浮くひふみの肌は、相変わらず不健康そうだ。手を握ってみると、案の定その指先は冷え切ってしまっていた。
「なに」
「冷たくなってんじゃねーか」
「まぁ、ちょっと今日冷え込んでるし」
「いつからここにいんの」
「んー、30分前くらい」
「なんでだよ」
「なんとなく?」
「はぐらかすな。ちゃんと言え」
なんとなく以上の理由があることは分かっていたので、少し強い口調で問う。それこそ「なんとなく」感じ取れるのだ。
「絶対笑わないって約束できるなら言う」
「笑うような理由なら笑うけど」
「じゃあ言わん」
「うそ。笑わんから言え」
「…」
「…おい」
ひふみは俺に握られた手をちらりと見つめ、長い溜息を吐いた。
「…この季節になると、毎年思い出すことがあって」
「思い出すこと?」
「お前が俺の家に来たときのこと」
「??」
それじゃ分かんねーよ。俺がお前の家に行ったときのことなんていちいち覚えてないし、大体今はもう一緒に住んでんだろ。
「違う」
怪訝な顔をしていると、ひふみは馬鹿にするような視線をこちらに向ける。ちょっと、いやかなりムカついた。
「俺が大学2年で、お前が大学1年になるとき。いきなり押しかけてきたろ」
「あぁ、あんときか。なんで?」
「なんでって…そんな簡単なことも分かんないのかよ」
「なに?俺と会えて嬉しい〜とか思ってたわけ?そんでそれ思い出して感傷に浸っちゃったりしてんの?可愛いとこあるなお前も!」
「そうだよ」
「へ」
てっきり「そんなんじゃねーよアホ」なんていう答えが返ってくることを予想していたのに、あっさりと肯定されて拍子抜けする。
「好きで好きで忘れられなくて、でももう二度と会えないって思ってた奴にもう一度会えたんだ。嬉しくないわけがないだろ」
「えっ、あの…ちょっと」
「死ぬほど嬉しかったよ」
かぁ、と頬に血液が集まっていくのを感じた。何を言ってるんだこいつは。
「な、なんでそんな素直なんだよ…」
「俺だって伊達に歳重ねてるわけじゃないし。今更照れることもねぇよ」
「それじゃ照れてる俺が餓鬼みたいだろ!」
「年甲斐もなく照れてんの?てっきり笑われると思ったんだけど?かぁわいいな瑞貴くん」
「うっせぇ黙れおっさん!!にやけんなムカつく!!」
「俺がおっさんならお前もおっさんだ」
至極もっともな反論を受け黙り込む。
「はは、もう降参?瑞貴も大分素直になったんじゃねぇ?」
「…うっせー…」
先程とは打って変わって機嫌の良さそうなひふみと、反対に不機嫌になる俺。くそ、恥ずかしいことを言ってるのはひふみの方なのに、どうして俺がこんな思いをしなければならないんだ。
「…」
「…」
どれだけの間そうしていただろうか。しばらくそのまま黙って辺りを眺めていたら、ひふみがぽつりと呟いた。
「…思い出すよ。10年…いや、15年以上たった今も、何度だって」
――うん。
心の中だけでそう返事をする。
「あの日がなければきっと今はない」
――そんなことは、ない。
俺はどんな形であれお前を探していただろうし、あのまま二度と会わないなんて選択肢だけは絶対にとらなかったはずだ。
どうして戻ってこないんだ、と思った。遠くに行ったことに関しては構わない。だけどそれで全部が終わりなんて、そんな悲しいことあってたまるかと。
お前が戻ってこないなら、俺が会いに行けばいい。ただそれだけの単純な気持ちだった。
「…俺は、必ずお前のことを好きになってたよ」
「…そ?」
「嘘とか冗談とかじゃなくて、本当に」
今もこうして隣に居られることは、偶然なんかじゃない。偶然だとは言わせない。そんな脆いもので繋がれているわけじゃない。
この人のことが大切だ。失うなんて考えられない。胸を張って言える。この気持ちは俺の誇りだ。
だってそうじゃなきゃ、わざわざこんなに遠くまで追いかけるはずがないだろ。
「もし大学が違ったとしても、就職するときに追っかけてた」
「教師じゃなくて?」
「そうだな。もしかしたらお前と同じサラリーマンになってたかもな」
「似合わねー」
「失礼なこと言うなよ」
ふ、とひふみが笑った。つられて俺も笑う。
「あのさ」
「うん」
「もう何度言ったかわかんないけど」
「うん」
「愛してる」
「…おう」
ここでその台詞を言うか。
なんだか気恥ずかしくなって、手持無沙汰にパーカーの裾を手でいじった。
「いつになったら照れなくなんのかね、お前は」
「お、お前だって照れてるときあるだろ!」
「今は照れてない」
「屁理屈だ」
「愛してるよ、瑞貴」
「い…っいい!もう言わなくていい!」
「痛っ」
繋いだ手を振りほどき、バシバシとひふみの腕を叩く。
なんなの、そんなこと言うキャラじゃねーだろ。やめろ。
「そっちこそさっき俺のこと好きとか恥ずかしいこと言ってただろ」
「好きと愛してるは違う!!」
「どう違うわけ?」
「愛してるっつーのは…こう…すっげー特別なときに言うっていうか…最上級みたいな」
「ふーん」
「ふーん、じゃねーし」
「要するに」
もう一度指を絡めとられたかと思えば、ひふみはその手を自らの頬に当てた。じんわりと淡い体温が指先から伝わってくる。
「俺はもう、お前としか生きられないから。これからもよろしくってこと」
「…何が要するにだよ」
「要約するとそうなんの」
――いろんなことがあった。嬉しかったことも、楽しかったことも、それと同じくらいに悲しかったことも、辛かったことも。ほんの少しどころか、もう全く覚えていない思い出だってある。でもそれは全て意味のあることで、今の俺たちに確実に繋がっているわけで。
互いが互いをどう思っているかは、もう聞かなくても分かる。言わなくても伝わる。だけどどうしようもないくらいに溢れる気持ちを、たまには口に出したいときだってあるのだ。きっとひふみだって同じ。
「絶対朝になったら恥ずかしくなって死ぬぞ。あんなこと言うんじゃなかったーって」
「そうかもな。夜のテンションってやつ?」
「俺はフォローせんぞ」
「瑞貴にフォローなんかしてもらうほどアホじゃない」
「ふざけんな」
はは、と声を出して笑った。なんだか無性におかしくてたまらなくなったのだ。
こんな夜更けにこんな場所で、オジサン二人で何をやっているんだろう。馬鹿みたいだ。馬鹿みたいなのに、同時に物凄く幸せなのもまたおかしい。
「ひふみ」
「ん?」
手を伸ばして眼鏡をとってやると、俺が何をするか分かったらしいひふみは笑いながら少し背を曲げた。
「俺も」
「俺も?」
俺も、今この瞬間ただ一つ言えることがあるよ。
「俺も、愛してる」
end.
*
倫子さんリクで「2人のもっと未来の話‥例えば30、あるいは40代ぐらいの話」でした。
書きたい内容はたくさんあったのですが、中々上手く表現できず…。とにかく、歳をとってもなお一層相手のことを愛おしく思えるような、そんな関係でいてほしいなと考えながら書きました。楽しかったです。
初期(本編)に比べてかなり丸くなったひふみと、まだそれに慣れない瑞貴。ほんの少し穏やかになった二人の雰囲気が伝われば幸いです。ちなみにタイトルは「貴方は私の全て」的な感じです。
とってもとっても素敵なリクエストをありがとうございました!
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