▼ 01
人を好きになるとか、そいつの何もかもが欲しいとか、誰にもとられたくないだとか、そういう気持ちを抱く奴の頭の中は一体どうなっているんだろう、と思う。
――…一目惚れしたんです。
市之宮は俺の目を真っ直ぐに見て、そう口にした。一点の曇りも無い瞳だった。
そう、一点の曇りも無い。
*
体育祭当日がやってきた。幸か不幸か天気予報によると今日は一日快晴だ。連日と同じくじりじりと容赦ない日差しが朝から差し続けている。
用具係を命ぜられた俺は、開会式に出た後は用具の置かれたテントにつきっきりで、競技の準備に追われていた。若い人手、しかも男となれば貴重な人材なのだろう。なかなか仕事は途切れることはない。
「先生」
ふと呼びかけに振り返ると、そこにいたのは市之宮だった。大勢の手前顔を顰めるわけにもいかず、俺はにこやかに返事をする。
「どうした」
「ここにいたんですね」
「用具係だからな」
「ずっと教師席の方を探してました」
一体何の用だ。心の中でそう思ったのが伝わったのか、市之宮はいたずらっぽく首を傾げてみせた。
「次の競技、徹平が出るから。この辺にいれば見やすいかなと」
「そうか」
「一緒に見ましょうよ」
誰が一緒に見るか。何がしたいんだこいつは。自分が何をしたか忘れているんじゃないだろうな。
つい先日市之宮は、密室――鍵は開けっ放しだったので、実際のところ密室ではなかったのだが――に人を閉じ込めたあげく、腕を拘束し、惚れた腫れただの世迷い事を吐いた。そのお蔭で散々な目にあったのだ。
――先生なんか嫌いだ。
泣きながら走る背中を追いかけるのにも、ぼろぼろと涙を零す瞳を宥めるのにも、どれだけ苦労したことか。それもこれも、もとはと言えば全て市之宮のせいなのだ。
「友人を応援するのは構わないが、生徒は生徒用のテントがあるだろう」
「まるで教師みたいなことを言うんですね」
どういう意味だ。
「教師だからな」
ふふ、と市之宮が笑った。屈託のない笑顔には年相応の幼さが残る。だが俺は、この笑顔の裏に隠されたものを知っている。
いや、知っているというよりはその片鱗を見た、と言うべきか。市之宮と俺とは、何もかもを知っていると言える程お互い踏み込んだ関係ではない。
「あ、徹平。いた」
市之宮の目線の先を辿ると、グラウンドに入場してきた九条の姿が見えた。市之宮と同じ、頭に青いハチマキを巻いている。似合わない。せめて赤いハチマキならもう少し血色良く見えたかもしれない。あいつは色が白すぎる。
「何の競技なんだ」
生徒席に戻れなんて野暮なことは言わずに、市之宮に向かってそう尋ねた。プログラムの書かれた用紙がジャージのポケットに入っていたが、確認するのは面倒だった。
「徒競走です」
「あいつ、足速いからな」
「クラスで一番速いんですよ。午後からのリレーもアンカーで出るんです」
ふうん、と興味なさげな返事をして、市之宮の顔を見る。俺が見ていることに気付いているのかいないのか、その視線は真っ直ぐにグラウンドの九条に注がれたままだ。
「市之宮は」
「リレーは出ますよ」
「じゃあお前も足が速いんだな」
「徹平ほどじゃないですけどね」
徹平。徹平。徹平。
うるさいやつだな、と思ったが口には出さない。高校生にもなって幼馴染み同士仲良しこよしか。アホくせえ。
「あ、気づいた」
くるりと後ろを振り返った九条が、俺と市之宮の姿を捉えた。一瞬驚いた顔をして、それから思いっきり拗ねたような表情になる。こいつもアホだ。
「あはは、ヤキモチ妬いてますよ」
「妬く必要なんてこれっぽっちもないのにな。俺とお前の間にはなんにもない」
「へぇ」
市之宮はどこか感心したような声を出した。物珍しいものを見るような瞳でこちらを見上げてくる。
「妬く必要なんかないって、じゃあ徹平と先生の間には何があるんですか?」
「…」
その目、心底腹が立つ。手を伸ばしてぐしゃぐしゃと髪を掻き乱してやった。柔らかな髪が指先に触れる。市之宮は慌てて俺の手を抑えて文句を言った。
「ひどいじゃないですか。ハチマキ巻きなおすの、これ結構面倒なんですよ」
「今のはお前が悪い」
心の中を探るような目つき。揚げ足をとらんとする含みのある物言い。何もかもが気に入らない。
「先生って、結構可愛いですよね」
「100万年早い台詞だな、それは」
「いたっ」
べちんと額に指を弾くと思いの外いい音がした。ざまあみろ、である。
「痛い…」
「だろうな。あいつは喜ぶけど」
「あいつって、徹平ですか?」
「他に誰がいる?」
そう問うた瞬間、市之宮がほんの少しだけ息を呑んだ。
「…やっぱり、特別なんじゃないですか」
何を今更、そんな抑揚のない声で。
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