▼ 03
息を吐く音が聞こえた。九条が小さく笑った音だ。
『理由ないのに、俺に電話したわけ』
「…何が言いたい」
理由がない方が余計に重症かもしれない。何の用事もないのに相手に電話をかけるというのは、その相手自身が理由そのものになってしまうからだ。こいつが笑ったのはそれを察知したからだろう。普段馬鹿なくせにこういうときだけは敏い奴だ。
俺の質問には答えず、九条は楽しそうな声のまま呟く。
『いまなにしてんの』
「お前に関係ないだろ」
『ひまなんだよ』
「寝てりゃいい」
『昼間寝すぎて眠れねぇ』
「それでも寝ろ」
『センセー、何か話してよ。そしたら寝られそう』
「は?」
何かとは何だ。そもそも俺の声を子守唄代わりにするなんて贅沢にも程がある。
『あ、そういや明日センセーの授業あるよな』
「…あぁ」
『休みたくねー…』
「まぁ、テストも段々近づいてきてるからな」
『あー…まじで俺なんで風邪ひいたんだろ』
「傘忘れるような馬鹿な真似するからだ」
『それは、そうだけど…でもそれだけじゃねーし』
もごもごと歯切れの悪い様子で話の端が尻すぼみになっていった。こちらも馬鹿ではないのでこいつの言いたいことは分かっている。
「俺のせいじゃねぇぞあれは。お前が触ってほしそうにしてたからだ」
『しっ、してねーよ!アンタが勝手に人の…!』
「人の?」
『ち、ちくび、さ、さわったんだろ…』
く、と喉の奥が音を立てた。おかしくてたまらないとはこのことだろう。どうしてこの餓鬼はこうもこちらの誘導に引っかかってくれるのか。狙っているとしか思えないが、こいつの場合そこまで頭は回っていない。ただの馬鹿だ。
ほとんど吸っていないまま、いつの間にか短くなってしまっていた煙草を灰皿の上で潰す。一本無駄にしたなと思うのに、不思議と腹は立たなかった。
『何笑ってんだよ』
「笑ってない」
『くそ、治ったら覚えてろ…』
「治ったって治らなくたって変わるか。どうせ何もできねぇくせに」
『…何かしていーわけ』
「できるもんならな」
暫しの沈黙の後、考えとく、と神妙な返事が来た。考えとくとは一体どういう意味なのか問い返そうとしたが、多分あまり深く考えていないだろうと口を閉ざす。
「…治ったら」
深く考えていない相手に、こっちまで何かごちゃごちゃ複雑に考えて接することはない。思いついたことをそのまま口に出しても、きっとこいつには俺の心境なんか伝わらない。だからこれは言って良いことだ。
『ん?』
「授業で進んだところの解説ぐらいはやってやるから、安心しろ」
『まじで』
「期末は中間より少し難しくするつもりだからな。平均点があまりに下がっても困る」
『うぇ…じゃあ俺すげー勉強しなきゃじゃん…』
「当然だ」
『この間もめちゃくちゃ頑張ったのに』
「俺に褒められたくて?」
そう。なんてふざけた理由だろう。褒められたいだなんて、自分の労力に見合うだけの対価だとは到底思えない。勉強を頑張ったから褒めてもらいたい。そんなのは小学生で卒業しろ。
九条は一瞬の間を置き、それから気まずそうにその話はもうやめろと言った。
『なんか思い出してケツの穴がムズムズする』
思い出して、というのは勿論ご褒美だと称して尻だけでイかせたときの話である。
「…パブロフの犬かよお前は」
『何それ?センセーってたまに意味分かんねぇこと言うよな』
「お前の脳みそが足りないんだ」
『ひでぇ』
「馬鹿にされるのが嫌だったら勉強しろクソガキ」
『勉強したらなんかしてくれんの』
「何かされたいわけ?」
口に出してからしまったと思った。これは聞くべきことではなかった。
案の定電話の向こうの声が止み、長く思い沈黙が訪れる。冷たくも無く温かくも無いささやかな風が頬を撫でた。
『…あの』
「…なんだ」
『も、もし、もし、俺が、クラスで一番の点数とったら』
「あぁ」
『先生、俺と…エッ、エッチ、しろよ』
は、と気の抜けた声が漏れる。
「今、なんつった」
『二回も聞くなよもぉぉっ…げほっ、げほ』
「うるせーよ。風邪ひき野郎がいきなりでかい声だしてんじゃねぇ」
『先生のせいだろ!?』
いや今のは明らかに自業自得だろ。
――俺と、エッチしろ、だって?
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