▼ 02
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先生、とあの子どもに呼ばれるのは嫌いじゃない。他のどんな生徒に呼ばれるのとも違う感覚。同じ呼称がどうしてこんなにも違うのか。
俺は先生だけど、先生じゃない。そんな矛盾している感覚。九条の言う「先生」は、固有名詞だ。まるで名前を呼ばれているような気分になる。
あいつは他の教師のことも「先生」と呼ぶが、俺を呼ぶときとは全く違う。だからその「先生」が、自分を指しているのか他の人間を指しているのかが聞けばすぐに分かるのだ。
なんだ。これは。俺がまるでいつもいつもあの餓鬼の声に聞き耳を立てているみたいじゃないか。それは断じて違う。毎日毎日あんなにも纏わりつかれていれば、否が応でも聞き分け位できるようになるのが当然だろう。
「…」
そんな言い訳じみたことを考えているのも嫌で、俺はそこで思考を止めた。
テレビを見ていたはずなのに、内容がちっとも頭に入ってこない。もういいと半ば投げやりにリモコンを手に取り電源をオフにした。
ベランダに出て煙草を吸う。梅雨の中休みなのか、今日は一日晴天だった。夜になった今では、空に星が見える。
――もう少し優しくしたらどうなんですか。
頭を空にしようとしてみたが、どうやら無駄な抵抗だったようだ。昼間、中津川に言われたことが頭を巡る。
優しくって、一体何だ。誰かに優しくすることは見返りを求めるということと同義じゃないのか。あの餓鬼に見返りなんて求めてない。そりゃあ最初はあれを屈服させれば、俺の教師としての地位は安泰だと思っていた。
しかし、今は違う。何かのために、というよりは、それそのものが目的となっているというか。
自分がどこに向かっているのか分からない。方向性を見失っている。
ふ、と息を吐き出せば、紫煙が暗闇に溶けて消えていった。ぼんやりとした輪郭の掴めないその煙は、今の自分の心情によく似ていると思った。
――好きという言葉にどれ程の覚悟が必要なのか…もう少し考えてみたらどうです。
知るか。今時そんなチープな恋愛小説に書かれてあるようなことに共感できるわけないだろ。たった二文字じゃねぇか。声帯を震わせ、口の形を変えるだけで誰にでも発することのできる単語。
好き好き言い合う馬鹿みたいなカップルが、俺は死ぬほど嫌いだ。そんな奴らにも勇気があるというのか。悪いがそれは信じられない。説得力の欠片もない。
――先生、好き。
「…何が好きだ」
あぁ、もう分かった。分かったよ。電話すりゃあいいんだろうが。糞が。どいつもこいつも腹立たしくて仕方ない。あのとき捨てたメモに書かれていた文字の配列を、しっかりと覚えてしまっていた自分自身にも。
ポケットから携帯を取り出し、性急な手つきで番号を打ち込む。我に返ってしまえば駄目だ。きっと後悔する。
5回。5回目のコールで出なかったら切る。そう決めて耳に電話を押し当てた。
「…」
『…もしもし』
「チッ…」
何で出るんだよ。思わず舌打ちをする。
『せんせぇ…?』
何で分かるんだよ。番号は教えていないし、まだ一言だって発していないのに。気持ち悪い。
「ちげぇよ」
『…やっぱ、センセーだ』
「違うっつってんだろ」
『はは…照れてんの』
電話という媒体を通して九条の声を聞くのは初めてだった。そこにさらに風邪という要因が加わり、聞き慣れていた声とはかなり異質なものになっている。いつものように騒がしくないというか、しおらしいというか、ダルそうというか。
『俺の、ばんごー…知ってんだな』
「ストーカー女が教えてくれた」
『ストーカー…?』
「中津川」
『あぁ』
そっか、じゃねぇよ。なんでストーカーされてることに気付いてないんだ。鈍感にも程がある。危機管理能力ゼロ。やはりこいつは馬鹿で阿呆で救いようがない。
「…風邪」
『ん?』
「平気か」
『へ』
「は?」
『あ…アンタこそ、へーきか…?』
俺が体調を崩すようなヘマをすると思うかと尋ねると、九条はそうじゃなくて、とか細い声で返事をした。あまりに小さな声なので、無意識のうちに強く電話を耳に当てる。
『心配、してくれるとは…思わなかった』
「別に心配はしてない」
『じゃあなんで?』
「なんでって何だ」
『なんで、電話、してきたんだよ』
ゴホ、と咳をする音がした。
「…別に、理由はない」
そう。理由はない。こいつの声を聞きたかったわけでもないし、様子を知りたかったわけでもない。
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